13.心を読む男 この家の人間は皆狂っているのだ。
仏壇の前に座ってもいつも何を言ったらいいのかわからなくて、僕はただ両手を合わせるだけだ。嗅ぎ慣れた線香の匂いは、僕にどこかうつろなあのひとの目を思い出させる。
僕の記憶にあるあのひとは、何か、鬼のようなものに取りつかれた儚いひとだった。気まぐれに僕を抱きしめ、気まぐれに僕を殴った。
初めこそあのひとに会いに部屋を訪れることもあった父は、あのひとがまるで父が神であるかのように畏怖しへりくだるのを嫌い、通うのをやめた。それからあのひとの部屋へやってくるのは、食事を運びにくる家政婦だけとなった。
父の妻、つまり今の僕の義理の母だという人は、よくあのひとを呼びつけては家政婦の真似事をさせた。あのひとは何も言わずに、それに従っていた。
あのひとは狂っていたのかもしれない。
僕を抱きしめる時の聖母のような顔も、僕を殴る時の悪鬼のような顔も、どこか狂気を秘めていたのだから。さっきまで子守唄を歌っていてくれたあのひとに抱擁を求めて手を伸ばして、次の瞬間には頬をひどく殴られていた事が何度もあった。
もし彼女が僕を育てるためにこの呪わしい家の敷居を跨ぎ、そのためにその心を狂わせたのなら、彼女を狂わせたのはきっと僕なのだろう。
日に日にやせていくその身体の生気を吸い取るように僕は成長していった。
そして結局あのひとは死んだ。
★ ★ ★
門をくぐり、そこに停められた車を見て僕は軽く顔をしかめた。
父が帰っている。
あの男は、気まぐれのように早く帰ってくることがある。もしかしたら見張っているつもりなのかもしれない。僕や
「おや、お帰りなさいませ」
車磨き用のスポンジで鏡のようなボンネットにさらに磨きをかけながら、運転手の
彼は僕や勝にも普通に接してくれるいい人だけれども、父には限りなく忠実な人である。こうして僕に笑いかけてくれていても、父が僕をこの家から追い出せと言うのなら眉ひとつ動かさずそれをするだろう。
「
それでも僕が彼を嫌いになりきれないのは、普段の彼は僕にまるで自分の息子か何かのように親しく接してきてくれるからだ。まるで年の離れた友人にするように、岩崎さんは悪戯っぽく笑いながら僕の耳に口を寄せた。
「勝君が女の子を連れてきたよ」
彼は言った。
「今度の子はなんだかいつもと違う雰囲気の子だったなぁ。見たことあるかい?」
「へぇ。知らないですよ」
僕は答えた。
勝はこれまでも何度か、恋人を家に連れ帰って来たことがある。それが同じ人間だったのはせいぜい二、三回かな。たぶんあいつはモテるんだろう。何故だかはまったく理解できないけど。
「うーん。彼女じゃないのかもなぁ。なんだか様子も変だったし」
「勝がただの友達を家に連れ帰ってくるのも初めて聞く話ですけどね。まぁ、会ったら紹介してもらいますよ」
僕は言って、玄関に向かった。
もちろん、勝の部屋へ行く気はなかった。だって襖を開けて、ラブシーンの真っ最中だったら気まずいじゃないか。
家の玄関は、小さな旅館くらいの大きさだ。それを開けると、やっぱり小さな旅館くらいの大きさの土間がある。そして仲居さんのような家政婦さんがにっこりと笑って僕を出迎えてくれる。
「お帰りなさいませ」
この家への出入りは基本的に門の所のインターホンで制限されるので、そこで僕は帰宅を告げ、家政婦の一人 (大抵はいつも、この古参の家政婦である
三宅さんは僕が生まれる前、彼女が十代の頃からこの家にいるらしい。具体的な年齢までは知らないが、四十は過ぎているはずだ。何を隠そう、彼女はこの屋敷の当主の愛人でもある。
つまり三宅さんは実に二十年近くも、この家の雑事をするかたわら、〈父の愛人〉を勤めているというわけだ。ご苦労様ですと言ってやりたいが、僕は彼女を好きではないので、いつものように無視して自分で靴を脱ぎ鞄も渡さずに部屋へ向かった。
三宅さんが昔、僕の母にいやがらせをしたのを僕は覚えていた。もちろん三宅さんも、勝の母親、つまりこの家の奥方に命令されてやっていたのだろうが、それでも好意を覚えるはずがない。
だから僕が彼女に話かけることはない。それを彼女は、ただ笑顔で受け止める。
この家の奥方はもちろん三宅さんが父の愛人であることをご存知だ。その上で、彼女にあらゆる命令をする。彼女はその負い目のせいで、ただ唯々諾々と奥方に従う。それも笑顔で。三宅さんもきっと、どこか狂っているのだ。
磨き上げられた廊下を行きながら、僕は思った。
この家に関わる人間は皆狂ってしまうのかもしれない。
母も。三宅さんも。岩崎さんも。父も。奥方も。そして僕さえも、どこかがきっと壊れている。歪んだ家に押し込められる人間が、真っ直ぐに生きていけるはずがないのかもしれない。
それはきっと、彼女であっても。
僕は
美しもたくましい彼女を。
距離を置こうと決めていた。
彼女はどうやらそれを望んでいるし、落ち着いて考えてみてもそれがベストな気がする。僕が、本気で彼女を好きなのだとわかった以上、彼女をこの家に近づける気はゼロだ。ナッシング。ネバー。
彼女を手に入れるということは彼女のこの家に引き入れることで、それは決してやってはいけないことだからだ。
きっと、彼女も狂う。
それだけは見たくない。
勝とは違って、僕は外での友人や知り合いのたぐいをこの家に入れたことはなかった。それだけ僕の中では、この家と外に明確な境界線が存在するのだ。
歪んだ世界と、そうでない世界と。
あるいは多岐さんは狂わないのかもしれない。
嫣然とその逆境に立ち向かう彼女は強い。たくましい。時に見惚れるほど、自分に正直だ。
でもその彼女さえも壊れてしまったら、それは世界に希望がないことと同義だ。だから僕は敢えてその危険を冒したくない。
希望のない世界でなんてきっと生きてはいけない。
そんな賭けに出る勇気は、僕にはないのだ。
《広すぎる!》
僕ははっとして立ち止まった。
声がしたからだ。
肉声ではない、心の声。
僕が心を奪われるたった一人。
《部屋どこよ! 広すぎよこの家! トイレ行って迷うなんて馬鹿みたいじゃない!》
心臓が一気に跳ね上がった。
廊下の角の向こうから足音が聞えた。この家の人間は皆静かに歩く。あんなにあからさまに足音を立てて歩くということは、その足音の主がこの家の人間ではないということだ。
まさかだ。
まさか。
けれどあの声。
嘘だ。
どうして。
僕はその場所から動くことができなかった。
ただ廊下の角をじいと見つめる。
まず青い靴下が見えた。
そして綺麗な白い足が見えた。
膝下の黒いスカートに紺のシャツを着た彼女は、いつもの制服に身を包んだ彼女とはやはり違って平生の僕ならどきりとときめいてるところだが、今はそれどころじゃなかった。
心臓がぎゅうと絞られるようだ。
彼女だ。
多岐さんだ。
何故だ。
何故彼女がここにいる。
僕は凍りついたように動けなかった。そして廊下の角を曲がって僕の存在に気付いた彼女もまた、驚いたように目を丸くした。
彼女の口が何かを言おうとするように開く。
僕はそれを見て、次の瞬間には追い立てられるように怒鳴っていた。
「どうして君がここにいるんだ!!」
僕の大声に多岐さんはまた驚き、口をつぐんだ。
僕はつかつかと彼女に歩み寄ると、その手をがしりと掴んで今僕が来た道を引き返し始めた。何がなんだかよくわかっていない様子の彼女は、半ば引きずられるようにして僕の後をついてくる。
「え? え? 何? どういう事?」
多岐さんらしくもない。
僕は舌打ちをした。
「多岐さん。君が勝に何を言われたかはわからないが、ここは僕の家だ。勝は僕の兄」
この時にはもう僕は確信していた。勝が連れ帰ったという女の子は多岐さんのことだったんだ。勝には多岐さんの写真を見せていた。どこでどう会ったのかは知らないが、彼女を見つけた勝は面白半分で多岐さんを家に連れ帰ったに違いない。
僕は勝を殴ってやりたくなった。
彼女と縁を切ろうと決めたばかりなのに、余計なことを。
「ちょ、放して」
「黙って」
僕は彼女の抗議を切り捨てるように言った。
「頼むからこのまま何も言わずに帰ってくれ」
「だからちょっと放してって、わけわかんな……はっなせって!!」
ついに彼女の堪忍袋の緒が切れたらしい。
ばし!
「った」
彼女の手を掴んでいた右の手首に激痛がはしり、僕は思わずぱっと手を放した。振り向き、左手で手刀の形をつくっていた彼女に、それで打たれたのだと知る。驚いた。手刀をする女の子なんて、そういないに違いない。
「何? どうなってるの? どういうこと? ここってあんたの家なの?」
多岐さんは身構えながら、僕に聞いた。僕は目を細めて答えた。
「そう。表札見なかったの?」
見ていないだろう。見ていたら、彼女のことだ。きっとすぐにこの家が僕の家である可能性を試算し、決して踏み入れはしなかったはずだ。何せ彼女は、僕との接触を避けているのだから。
「ここは僕の家。だからここでは僕の言うことにしたがってもらう。今すぐ出て行ってくれ」
そう言うと、僕は再び彼女の腕を掴もうと手を伸ばした。けれども一歩後退した彼女によけられた。
僕は焦燥を感じていた。
彼女と話していたくなかった。その口から、言葉を聞きたくなかった。おかしな話だ。少し前まで、僕は彼女のこの声をずっと切望していたというのに。
多岐さんはすっと目を細めた。
怒った顔だ。僕にはわかる。
「何? 自分の領域だからちょっと強気なわけ? 私の領域には土足で踏み込んでおいて自分の領域には入るなって? なめてんの?」
やめろ。
「それなら多岐さん、これは僕の三つ目の願い事だ」
僕は遮るように言った。それは切り札だった。僕が彼女に行使できる、唯一の。
「この家から出て行ってくれ」
心からの言葉だった。
もう少しも彼女と対峙していたくなかった。どうしようもない恐怖といたたまれなさに苛まれる。逃げ出してしまいたい。いっそ彼女の前から。そう思う。その目にさらされていたくなかった。怒りを込めた、彼女の双眸の前に。
「出て行ってくれ」
僕はもう一度言った。
多岐さんが、一瞬傷ついたような顔をしたような気がしたけれど、錯覚だ。
彼女は僕を嫌っている。僕の暴言に傷つくはずがない。
彼女を正視していることができなくて目を伏せると、多岐さんが動く気配がした。殴られるかと思って一瞬身構えたが、彼女はただ僕の横を走って通り過ぎただけだった。彼女が僕の横を通り過ぎた時、ふわりと甘い香りがした。
多岐さんの足音が遠ざかるのを聞いて、僕は安堵すると同時にどこか胸に大きな穴が開いたような気分になった。
彼女はもう僕を許さないだろう。
決して。
「何やってんだよ」
僕は顔を上げた。
勝が立っていた。奴の言葉には答えず、僕は言った。
「何で多岐さんがここにいたんだ」
胸に再び怒りが湧いてきた。
「勝手な事をするな」
僕は低く言った。
勝にはわからないのだ。僕の母を見ていないから。あのひとがどんな風に狂っていったか、見ていないから。
「僕は多岐さんをこの家に関わらせるつもりはない。彼女は僕に近づいてはいけないんだ」
狂ってしまうから。
あのひとのように、狂ってしまうから。
勝はため息をついた。
「違うだろう?」
勝はじっと僕を見ていた。ムカつく目だ。こいつはいつも、全てを見透かしたような目をするんだ。
「違うだろうがよ、タケ。お前が彼女を拒絶する理由は、そんなんじゃないよ。彼女が狂うのが不安なんじゃない」
不安よりも恐怖。
彼女をこの家から追い出したいというよりも、僕が彼女の前にいたくなかった。
「怖いんだろ? お前は」
やめろ。黙れ。
「彼女に拒絶されるのが。手を伸ばして、払われるのが怖いんだ。だから先に拒絶したんだ。違うか? お前はただたんに自分を守るためだけに彼女を傷つけた、最低野郎……」
最後まで言わせなかった。勝はふっとび、家の柱にしたたかに身体をぶつけた。もし障子にぶつかっていたら、障子が破れるか倒れるかしていたかもしれない。それくらいの強さで僕は勝を殴っていた。
「……」
僕は肩で息をしていた。握りこんだ拳が痛い。
勝を殴ったのは、初めてだった。
口を切ったのだろう、勝は口の端から流れる血を乱暴に拭いながら、まるで肉食獣のように笑った。
「だからお前はまだガキなんだよ」
目が熱い。
一瞬だけ見た多岐さんの傷ついたような顔が、脳裏に焼きついていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます