12.嘘つき女  だからベンツって嫌いよ。

 ああ、なんていい天気なのかしら。

 空は雲ひとつない青空。柔らかな日差し。周りには閑静な住宅街。日光浴を楽しむ犬。


 そして迷子の私。


「おーい。こーこどーこでーすかー」

 道の真ん中で、私は途方にくれていた。


 ダンボール生活を開始して一夜が明け、私はとりあえず家とバイト先を探す旅に出た。前のバイト先はここから電車で一時間かかる場所(一昨日まで暮らしていたじじいの元愛人の家の近く)にあるので、とても続けて行く気にはならない。それにずっと節約してバイト代を貯めていたから、安いアパートなら借りられるくらいの貯えはあるのだ。

 いや、さすがにダンボール生活はないよ。本当。これから冬だし。一応私女子高生だし。

 玉の輿乗るのにその経験値いらないし。


 で、地理もよくわからないまま公園からずんずん離れてうろついてたら、いつしか私はこの閑静な住宅街に入り込んでいた。

 家は一軒一軒が上等で、恐らくここら辺に住んでいるのは中流階級からそれ以上の家庭だろう。つまり世にいう高級住宅街という奴だ。ああ、憎ったらしいったらありゃしない。


 私は玄関前の犬小屋から上半身を出し、ぽかぽか陽気の中で穏やかそうに目を瞑っている犬を恨めしく見た。

 家もない仕事もない道もわからないの"ないないづくし"のこの私に対して、この犬の幸せそうな顔はどうよ? もしかして今私って犬以下なんじゃないの?

「う。いかんこれくらいで泣くわけにはいかん」

 私はぐいと目尻をぬぐった。

 しかしこの年で住む家なくして挙句の果てが迷子って泣いてもいい状況なんじゃない?

 えーん。とりあえずここどこよー。

 そう思いながら、私は再びとぼとぼと歩き出した。


 路地の多い住宅街は、さながらダンジョンのようだ。私は魔王を倒しに城を目指して行く途中で道に迷った勇者。なんて情けない。

 こんなことならさっきすれ違った親子に道聞いておくんだった。なんか変なプライドが邪魔しちゃったのよね。もういいこの際次に現れた歩行者が幼児だろうが痴呆症の徘徊老人だろうが道を聞こう、とこの時私は心に決めた。


 すると後ろからチリンチリンと自転車のベルの音が聞えた。ほとんど反射的に横へ除けると、小学校中学年くらいの女の子が二人、私の横を通り過ぎていく。

 これはチャンス! と思い、手を挙げた。

「待っ!」

 「て」と続ける前に、女の子が悲鳴をあげる。

「きゃ」

 路地の右手から、車が現れたからだ。

 右側を走っていた女の子がバランスを崩し倒れ、それに巻き込まれる形でもう一人の女の子も横倒しに倒れてしまった。

(あららー)

 第三者の目から見ても、それは余所見をしながら走っていた女の子に過失があった。車はゆっくりと制限速度を守って走っていたし、一時停止もきちんとしていた。

 周囲を見ていなかったのは、彼女達の方だ。


 けれど次の瞬間、私はムカっとして走り出していた。

 車が、転んだ彼女達を無視してそのまま右折し、何事も無かったかのように通り過ぎようとしていたからだ。


 それがベンツだったのがまた高飛車な風でよろしくない。中に乗っている人間のためかそれとも住宅街だからか、あまりスピードを出していないベンツに私はすぐに追いつき、その後部座席の窓をバン! と叩い た。

 うわ、なにこれ中が見えない。スモークガラスってやつ?


「ちょっと、降りて様子見るくらいしなさいよ!」

 それが常識ってもんだわ。たとえ車側に過失がなくてもね、車と人の事故なら車側にはどうしても責任が生じるはずだ。


 すると車がピタリと動きを止めた。ちょうど、女の子達から十メートルも離れてない位置。

 少しして開いた窓は十五センチほど開いて、ぴたりと止まった。私は眉をしかめた。私から見えるのは、後部座席に座る男の横顔だけ。

 年は五十くらいだろうか。顔全部が厳しい雰囲気を醸し出している。そう、エリートの典型みたいな雰囲気だ。男は前を向いたまま、ピラリと窓の隙間から一枚の紙切れを放り出した。


 その紙切れは、この私には、一瞬見ただけでもわかる存在だった。縦七十六ミリ。横百六十ミリで表には福沢諭吉大先生の印刷された、恐れ多くも一万円札様だ。

 それはひらひらと舞うように地面にたどり着いて、男は言った。


「治療費ならそれで事足りるだろう」


 後から思い返してみてもいい声だったわ。うん。ダンディってこんな声よね。たぶん。

 でも何度思い返してみても、私は胸の内から沸き起こる不快感ってやつが我慢できなかった。ムカムカムカってね。

 この時の自分の行動は、どう考えても脊髄反射だったのだと思う。


 用件は終わったとばかりに閉まり始めた窓に腕をねじ込み、窓が閉まりきるのを阻止する。ガッと痛そうな音をたてて窓が閉まるのをやめた。というか痛い。いや本当に、やばいねじ切れるってゆーか折れるイタタタタ。

 そう思いながらも、私はキスせんばかりに顔を窓に近づけて、言った。


「あんた、」

 その時男は初めて私を見た。

「最低」


 ウィィンという機械音と共に、窓が少し開く。すると車が突然動き出し、窓から腕がするりと抜けた。

 ああ、折れなくてよかったと安堵する間もなく、ベンツが静かに去っていく。

 車が再び走り出す前に、私は男が運転席に向かって短く 「行け」 と言うのを聞いた。


「……本当、最低」


 男は笑った。

 私が罵倒したその時、あの男は口の端を上げて笑ったのだ。

 その笑顔が脳裏に焼きつく。


 私は、人は誰しも自分の正しさを信じて行動しているものだと思っていた。いいことをする人間も悪いことをする人間も、本人にとってそれが正しいから行っているのだと。つまり善悪というのは個人の価値観の問題だ。

 しかしそうではない人間がいるのだと、この時私は思い知った。

 自分が最低であるのだと自覚しながらも、その生き方を変えようとしない人間がいるのだと。


 車はやはりあまりスピードを上げることなく道を走っていたが、ふと気付いたように右折のランプを点滅させて、私が立っている位置から三十メートルも離れていない家に入っていった。でっかい日本家屋だ。

「いや、近っ!」

 思わずつっこんでみた。

「ぶふっ」

 すると背後で何か噴出すような音が聞こえた。


 振り向くと、倒れた自転車を立てようとしている女の子達の手前に、いつの間にか一人の青年が立っている。大学生くらいの茶髪で全体的にチャラい雰囲気だ。

 青年は、耐え切れないとでもいう風に腹をおさえ、身をよじるようにして笑っていた。


「ぶっ、くく、くくくく」

 何かしら、最近の私。

 そんなに面白い行動してるつもりもないんだけど、荻原おぎわら君といい、この男といい。


 私はとりあえず、男につかつかと歩み寄ると、その脛を思いっきり蹴り上げてやった。

「ってぇ!」

「そりゃ痛いでしょうよ」


 飛び上がった男を無視して、私はその向こうの女の子達の方に歩み寄った。彼女達に目線を合わせてしゃがむ。女の子の可愛らしい膝っこぞうが擦り切れて、少し血が出ていた。

「あらら、痛そう。大丈夫?」

 聞くと、女の子達は答えた。

「うん」

「大丈夫」

「そ。よかった。家に帰って消毒しておいで。そのまま遊んじゃだめよ。ばい菌が入るからね」

「はい」

「ありがとう、お姉ちゃん」

 どこか照れくさそうに笑う女の子達を見て、私の心のなかはほっこりとした。

「じゃあね」

「ばいばい」

「はい、ばいばい。今度は気をつけてね」

 再び自転車に乗った女の子達を見送って、なんだかさわやかな気分になる。忘れよう、さっきのベンツのことなんて。どうせもう二度と関わらないだろうし。今日はそう、あの女の子達に癒されるために迷子になったのだ。そうに違いない。


 そう考えて、再びこのダンジョンから脱出しようと歩き出した時、

「おい待てって」

 呼び止められた。


 振り向くと、さっきのチャラ男が、私の蹴り飛ばした脛を指差してにっこりと笑いながら言った。

「俺、大丈夫じゃないんだけど、脛」

 私はつんと無視すると、歩き出した。こういう失礼な通りすがりのチャラ男は無視するのに限る。相手にしても、なんの益もないからだ


 しかしあろうことか、チャラ男は実力行使に躍り出た。

 すたすたすたとこちらに歩み寄ると、私の細腕をがしりと掴む。

「まぁまぁまぁ」

 何!? と思って振り向くと、チャラ男はにこにこと笑っていた。

 何こいつヤバい。

「ちょ」

 なんとかつかまれた腕を取り返そうとするが、チャラ男の腕はびくともしない。いやこいつヤバいヤバいヤバいって!


「まぁ、俺んちでお茶でも飲んで行ってよ。ご馳走するからさ」

 チャラ男は私の腕をつかんだまま、すたすたと歩き出した。

「ちょ、ま、待ってよ! 放しなさいよ! 変態!」

 なかば引きずられるように歩きながら、私は叫んだ。


「大丈夫、俺変態じゃないから。安心して」

「できるかっ! 放せ!」

「いやーだってあんた面白いんだもん。最高。ちょっとお友達になりたい」

「変態の友人はいらない、放してよ!」

 いやだ! このままこいつのゴミの吹き溜まりみたいなぼろっちい家に連れ込まれてやらしい写真とか撮られて脅されて堕落していくのは真っ平ごめんだわ!


「ちょ、放せって……!」

 いい加減額に青筋浮かべながら、残った左手でこのチャラ男を殴り飛ばしてしまおうと振りかぶると、チャラ男がぴたりと足を止めた。

「ここ、俺の家」


 私を振り向き、チャラ男は言った。

 時代劇にでも出てきそうな檜造りの立派な門構え。でっかい敷地。高級住宅地に突然現れた日本家屋。

 それは、さっき私が記憶から抹消しようとしたベンツの入っていった家だった。


「あ、ちなみにさっきの最低じじいは、俺のオヤジね。俺はまさる。よろしく」

 彼の容貌には似つかわしくないくらいに厳しい家の前で、チャラ男はそう言った。


 この後、私は後悔することになる。どうしてこの時私ってば拉致される前にこのお屋敷の表札を見ておかなかったのかしら? そうしたら私の明晰な頭脳はすぐにここがアイツの自宅である可能性を試算してなんとしても一時撤退したわ。

 ああ、でも表札を見てても結果は変わらなかったかも。

 だって私はもう、知っていたからだ。


 どうして私が荻原武士たけしを見るとムカムカするか。


 そんな簡単な問題も解けないほど子供じゃないの。私はね。ただちょっと、それを認めるのにプライドが邪魔をしていただけよ。

 それより大変。

 諭吉大先生を道に放りっぱなしだわ。ああ、私が帰る時まで残ってるといいけど。

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