9.心を読む男 嘘だろ。
浴衣喫茶というのはつまり、女子が浴衣を着て接客し、男子が裏方をする喫茶店のことだけれども、うちのクラスでは一部の男子も女子用の浴衣を着て接客させられることになった。
一部の男子とはつまり、『女の子並に可愛い』男子である。
「元気出せよ、
会議を終えて教室に戻った僕は、喫茶店の内装づくりに活気付いた教室の片隅で頭を抱えている青柳を見つけ、その肩を叩いた。すると青柳は、今にも泣きそうな様子で顔を上げた。
「
青柳は僕にしがみついてきた。その悲壮な様子は、まるで怪談に出てくる幽霊のようだ。
「助けてくれよぅ。やだよ俺、女装なんて」
「そんなこと言われても、投票で決まった事だし……」
先日、クラスで誰が女装して接客するかどうかの投票が行われた。こういう場合、候補者は大体決まっている。
今回は青柳と、クラスで一番背の低い
「諦めてクラスのために身を捧げろ。な?」
僕はそう苦笑しながらもぽんぽんと青柳の背中を叩く。
すると青柳はまるでひどい罵倒を受けたかのようにのけぞった。
「……う」
「う?」
僕は首を傾げた。すると次の瞬間。
「裏切り者ぉおおおお!!!」
ガタン、ばたばた、ピシャン!
それは電光石火であった。青柳は叫びの余韻を残し、教室を出て行ってしまった。耳元で叫ばれたせいで僕の鼓膜がわんわんと鳴っている。
突然室内を駆け抜けた旋風に、ざわついていた教室が一瞬静寂に包まれた。
「青柳、涙目じゃなかったか?」
言ったのは、テーブル装飾係りの斉藤だ。女装の難を逃れた彼は、自分の代わりとなった青柳を幾分気にしているような所があった。いい奴なのだ。
「いや」
僕は答えた。
「ただのサボりと見た」
青柳はちゃっかり自分の鞄も持って行ったので、どさくさに紛れて家に帰ったに違いない。したたかな奴だ。
僕は息を吐いた。
あんな調子なら、そんなに心配することもないだろう。
ふと、僕は窓の外を見た。
グラウンドを囲む木の葉が黄色く色づきはじめている。
秋は好きだ。
枯葉を踏んで、かさかさと音をするのが好きだ。人目を気にしないなら、枯葉の絨毯に寝っころがってしまいたいくらいに好きだ。
けれど、今の僕の思考は、そんな秋の到来よりも、一人の女性に占められている。
もちろん
《馬鹿じゃないの!》
これは多岐さんの声だ。文化祭実行委員の会議中に僕に聞こえた、心の声。
突然の怒号だったので、思わず僕はびくりと肩をふるわせてしまったけれど、自分の物思いに沈んでいたらしい彼女に気付かれることはなかった。
多岐さんは、どうも怒っているようだ。
しかも恐らく僕に。
理由はわからないが、いつからかはわかる。先週の、多岐さんが囲碁部の五十嵐君に告白されたあの次の日からだ。あれから彼女は、どうも僕にそっけない。
原因をさぐろうと彼女の心を読もうとしても、僕を拒絶している人間の心は、僕に興味を持ってる人間や僕に無関心な人間のそれよりも覗くのが難しい。ここ数日聞いた彼女の心の声といえば、『ムカつくっ!』とか『殴りたい』とか、そんなようなものだ。
僕は何か彼女にしてしまったのだろうか? 守銭奴の彼女を怒らせるくらいなのだから、お金に関することかもしれない。例えばお金を粗末に扱ったとか。そう考えて自分の行動を思い返してみるが、どうもそういう記憶はない。
お手上げだった。
僕が彼女に嫌われるような何かをしてしまったのはわかるが、何をしてしまったのかがわからないのだ。
「……最後の手段かな」
その理由を解明する方法は、僕にはもう一つしか思い浮かばなかった。
☆ ★ ☆
「どうしたらいいと思う?
こういう時、この四つ上の兄に頼るのは、本当に不本意だった。心から不本意だった。この上なく不本意だった。
けれど、勝には僕よりも女性経験がある。合理的に考えるのならば、自分ひとりで考え込むよりも、少しでも経験のある人間の意見を仰いだ方が、よほど生産的だと言えるだろう。
勝は畳の上であぐらを掻き、僕に背を向ける形で漫画を読んでいる。
ここは勝の部屋だった。机に本棚があるだけの僕の部屋とは違い、漫画が床に散乱し、壁にはビールのポスターが貼ってある。水着姿の女性が手に持ったビールは、どう贔屓目に見ても美味しそうには見えなかった。
僕は、まるで癌の検査をした患者が医師の診断結果を聞くときのような気持ちで半ば身を乗り出した。
「勝」
急かすように名前を呼ぶ。
するとやっと、勝がこちらを振り向いた。片眉をあげて、相手を窺うように。
「お前、本気で言ってんの?」
「当然だろ」
嘘でお前に助けを求めるか。
僕の切実な様子がわかったのか、勝は漫画を閉じると僕の方に向き直り、 「いいか」 と言って戦略を立てる武将のように畳に手を置いた。
「多岐さんは怒っている」
僕は頷く。
「何故か?」
「それがわからないから聞いてるんじゃないか」
僕はあからさまに顔をしかめた。何を言ってるんだお前は。
すると、勝はため息をついた。
「だから、いつからだよ。多岐さんの機嫌が悪くなったのは」
「先週の水曜」
「何があった?」
記憶をさぐるまでもなかった。彼女の怒りの原因を突き止めるために、僕はここ最近なんどもその一日に何があったのかを思い出そうとしたのだから。
「多岐さんが囲碁部の五十嵐に告白されて、プリントを運ぶのを手伝った。婚約者がいることを話した」
特筆すべきはそれくらいだ。
婚約者は一年の女の子で、偶然階段ですれ違ったのだ。お互いに顔を覚えていたので会釈した所を、多岐さんが見咎めた。
「で?」
「次の日、おはようと挨拶したら、無視された」
それはもう見事な無視っぷりだった。
あの日登校した僕は、靴箱の所で同じように登校してきた多岐さんと鉢合わせした。たとえ普段話さない相手であろうとも、靴箱でクラスメートと会えば 「おはよう」 くらい言うだろう。まして多岐さんと僕は同じ文化祭実行委員だ。朝の挨拶をしても何の問題もないはずだった。
僕は、 「おはよう、多岐さん」 と言った。
名前まで呼んだのだから、他人への挨拶だと勘違いすることもなかったはずだが、彼女はまるで僕という人間などそこにいないかのように靴を履きかえると、何も言わないまますたすたと教室に向かってしまったのだ。
しかしその時は、僕はまた彼女が面白い思索にふけっているのだと思った。
多岐さんは集中力があるので、僕の声が聞こえなかったのはそのせいだろうと考えたのだ。今度は何を考えてるのだろう。何かの拍子にその物思いが聞こえてこないかと僕はわくわくしたが、何故かその日は全く彼女の声が聞こえてこなかった。
それどころか、その日だけで僕は四回、彼女に無視された。
「何で突然僕がそこまで嫌われなくちゃならないんだ」
しかし勝は、ため息をついて首を振った。
「……なぁ、いつも勘のさえてる武士君はどこへ行ったわけ? こんな簡単な問題も解けないなんてさ」
僕はむっとした。
「お前なら多岐さんを理解できるとでも?」
「わかるだろ! お前、彼女くらい単純な女ってそういないぜ? わかんない方がおかし……」
そこまで言って、ふと、勝は何かを思いついたように視線を落とした。
「待てよ。そうか。"だから"、わからないのか」
「僕にはお前がわけわからない」
僕は言った。
けれど一つわかった。こいつに相談したのが間違いだったんだ。
僕はため息をついた。
こんな放蕩大学生に、多岐さんの思考を理解しろという方が無理な相談なのだ。彼女は並の女性ではないのだから、並の女性とばかり付き合ってきた勝には、彼女を正確に理解する事などできないに違いない。
僕は立ち上がった。
「もういい。お前は漫画でも読んでろ」
「だぁ、待て待てって!」
部屋を出て行こうとした僕の腕を勝が掴んだ。引っ張られ、無理やりもう一度座らされる。
「いいか、確認するぞ?」
勝は人差し指を立てた。
「お前、初めに多岐さんのことを俺に説明する時、何て言った?」
僕は片眉を上げた。
月初めに、僕が多岐さんに告白をされてそれをふってしまった日、僕はこの上なく不機嫌なまま帰宅し、勝にその理由を吐かされた。
「『クラスに面白い女子がいる。彼女の心の声を聞いた僕だけが彼女の秘密を知っている。今日その女子に告白されたけど、彼女は僕の金が目当てだったし、よりにもよって僕に嘘をついたからムカついてふってしまった』といった風なことを言ったと思う」
「うん。確かにそう言ったな。あとお前、『多岐さんの分際で』とか言ってたぞ。いや、最低な男だよなお前も。本当に」
勝はうんうんと頷いた。
僕は目を眇めた。
「何を言いたいんだお前は」
初めて会った時はどきっとした。不覚にも恋をした。
そして彼女の心の声を聞いて、恋が興味に変わった。
いや、何ていうか、恋を超越したっていうか、どきどきよりわくわくしたって言うか。
だってレアでしょ? あんな人間。
「でも」
勝は言った。
「本当にそうか?」
口の端をあげて、にやりと笑っている。知っている。これは僕をからかう時の顔だ。
何を言い出すんだこいつは。
僕は失笑した。
「なにを……」
「いや、間違いないね」
勝は僕を遮って言った。そしてびしり、と僕に人差し指を突きつける。
勝は勝ち誇っていた。片膝をつき、僕を見下ろして、まるで神からの訓示を与える霊能力者のように、おごそかに言った。
「お前は、多岐さんに、惚れてんだよ」
……。
はぁ。
僕は盛大にため息をついた。
立ち上がり、突き出した人差し指を間抜けにも空中に浮かせた勝の横を通り過ぎる。
「もういいや、お前。まぁ、ありがと」
そう言って僕は勝の部屋を出て行った。
廊下は毎日家政婦によって埃一つない状態に仕上げられている。僕はその上を歩き、自分の部屋に向かった。
季節は秋だ。
紅葉の季節。
その時、いきなり、僕は転んだ。
ずだん!!
今までにない見事な転び方で、僕は磨き上げられた廊下で顔をしたたかに打った。
認めたくはないが、僕は動揺していた。
相当、動揺していたのだ。
顔が熱いのは、打ったからだけではないだろう。今自分の顔は茹蛸のように赤くなっているに違いないと僕は思った。
悔しいけれど、勝はいつも的確な所をつく。
僕が、彼女に何だって?
廊下にうつ伏せになったまま僕は頭を抱えた。
「……嘘だろ」
僕のうめき声はぴかぴかの廊下にあたって消えた。
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