7.心を読む男 時々君が奇跡のように思える。

「あの、好きです。もしよければ……付き合ってください」



 さて、多岐たき佳奈子かなこさんの告白の部屋。


 今回の挑戦者はおっとー、囲碁部のプリンス、五十嵐いがらし幹男みきお君です。まだ一年生の五十嵐君は、その端整な容貌のおかげで女子の多い囲碁部ではアイドル兼マスコット的存在の男の子。まさか彼も多岐さん狙いだったとはねぇ。囲碁部のお姉様方の反応が怖いな。



「ごめんなさい、今、私誰とも付き合う気がないの」



 にっこりと、多岐さんはいつのも笑顔でばっさりと切る。



《顔がいくらよかろうと、金がなきゃね。というか、自分より美人の恋人っていうのも何だか嫌だし》



 だそうだ。


 ……ちょっと五十嵐君には同情する。



「あ、あの、お友達から……とか、でも!」



 お、食い下がった。顔に似合わず根性あるな五十嵐君。


 けれど、根性があるないで言えば多岐さんの右に出る者はいないだろう。残念ながら。



 多岐さんは微笑んだ。



《うざい》



「ごめんなさい」


 最後通告にも似た一言。



「……」



 五十嵐君は俯いて少し黙り込むと、そのまま何も言わずに多岐さんに頭を下げ、見ているこっちが悲しくなるくらいに肩を落として屋上を出て行った。



《暗いわねー。やだやだ》



 僕は五十嵐君に同情した。


 深く同情した。


 同情するあまりに肩が震えるくらいだ。



「……ちょっと、何笑ってんのよ」


 こっちに背を向けていた多岐さんは、屋上の扉の上、給水塔の方から聞こえてきたククク、という笑い声に顔を険しくして振り向いた。



「……いや、もう、なんか、本当に詐欺だよね」


 可笑しすぎる。あまりに辛辣な彼女の言葉が、どうしても笑えてしまう。


 給水塔の横、屋上の扉の上に腹ばいになった形で、僕は多岐さんを見下ろしていた。



「悪趣味ね。荻原おぎわら武士たけし君」


 両手を腰にやり、彼女は顔をしかめて僕を見上げた。僕は立ち上がると屋上に降りるためのはしごに手をかける。


「僕が先客だよ。多岐さん達が後から来たんじゃないか」


「そんな言い訳が通用すると思ってるの? 紳士ならあそこで聞こえないふりでもするもんよ」


 彼女の言い様に、僕は笑った。


「ごめんね。僕、別に紳士じゃないからさ」



《金持ちのくせに!》



 彼女の悪態が聞こえる。笑える。



「……それより、もったいないんじゃない? 五十嵐君、結構人気あるよ」


 はしごを下りきった僕は肩をすくめて聞いた。


 五十嵐君に限らず、この間多岐さんに告白していたサッカー部の佐藤さとう君も、その前の美術部の種田たねだ君も女子の中では結構評判のいい男子だ。

 けれど彼女はオーケーとは言わない。金持ちじゃないから。理由はただその一つだけ。


「……」


 多岐さんのその怪訝そうな視線に、僕は首を傾げた。


「どうしたの?」


「……別に」


 冷たくそう答え、彼女は振り切るように踵を返す。多岐さんの黒髪が流れるように風に揺れた。触ってみたいとたまに思う。翠の黒髪っていうのは、きっと多岐さんのような髪の毛を言うのだ。



「理由ならあんたは知ってるでしょ」


 彼女は言った。


 僕は笑う。



 そうだね。僕は知ってる。


 君の秘密を。

 だから君は、僕だけには嘘をつけない。



 多岐さんは肩越しに僕を振り向き、片方の眉を上げて咎めるように僕を見た。そんな仕草だって、優等生多岐佳奈子にはないものだ。それが嬉しい。


「次の授業の準備、先生に頼まれてるの。もちろん、手伝うわよね? 出歯亀した罪滅ぼしよ」



 断る理由なんか、どこにもありはしないのだ。



 ☆★☆




 次の授業は世界史で、担任の授業だった。持たされたのは巨大な世界地図と授業用のプリントだ。僕がクソ重い世界地図を持ち、多岐さんがプリントを持った。



「ごめんね荻原君。ありがとう手伝ってくれて」


 ほんのクラス人数分しかないプリントを持ちながら、優等生な彼女は微笑む。


「……いえいえ」



 どうでもいいけど本当に重いんだけど、この世界地図。こんなもん多岐さん一人に運ばせるつもりだったのかあの担任。

 ……いや、なんだか多岐さんなら片手でひょいと持ってしまいそうな気もするけれども。



 職員室から教室までは、渡り廊下を通って靴箱の前を横切り、階段を二階に上がらなくてはならない。

 その階段を上っている時に、向こうから女の子が歩いてくるのが見えた。知った顔だったので、軽く頭だけ下げる。向こうも僕を見てぺこりと軽くお辞儀をすると、僕の横を通り過ぎて行った。



 多岐さんは物珍しそうに後ろを振り返りながら聞いた。


「今の子、一年生でしょ? 部活の後輩?」


 上履きの色で学年がわかる。僕は一応コンピューター部というものに所属しているが、幽霊部員だ。一年の時にノウハウを習得してからは行く意味がなくなった。


「ううん」


 僕は否定した。


「じゃあ何繋がり?」


 彼女は興味深々に僕を見た。



 多岐佳奈子さんは、本当に不屈の精神の持ち主だ。彼女がこんなにも僕に興味を持っているようなのは、あるいは僕の秘密を握れやしないかと期待しているからだ。


「別に、特別なものは何もないよ。親同士が知り合いなだけ」


「なんだ。つまらないのね。秘密の婚約者とかだったら面白いのに」


 彼女は唇を尖らせた。


「正解」


 僕は笑って答えた。

「すごいね多岐さん」


 彼女は目を見開く。冗談だったのだろう。そりゃそうだ。親の都合で学生の内に婚約なんて時代錯誤もいいところである。


「別に秘密じゃないけどね。公にしてないだけで。本人とはまともに話したこともないよ。親ぐるみで御飯とか食べた事があるくらい。全然現実的な話じゃないしね。僕らにとって」



 ただたんに、父の知り合いの金持ちに、僕と同じ年頃の女の子がいたってだけのこと。そんでたまたま、縁組の話が持ち上がったってだけのことだ。そんなのはほんの些事に過ぎない。少なくとも、僕の父にとっては。



「うそ、ほんと?」



「本当」


 僕は言いながら、



 ガラリ



 教室の扉を開けた。まるでお姫様をエスコートする従者のように、そして一歩後ろに下がる。


「前世紀の遺物みたいな話でしょ?」


 僕の言葉に、多岐さんは何故か不満げに顔をしかめた。



 ☆★☆





 父は僕に無関心だ。


 何故なら僕は三男だし、愛人の子供だし、上の二人の兄ほど出来がいいわけではなかったからだ。


 

 長男は有正ありまさと言った。優秀な人だった。一族の期待は全て兄にかかり、彼は将来有望な後継者だった。彼のすごい所は、まさるや僕にも掛け値なしに優しかった所だ。

 実の弟である勝だけでなく、腹違いの弟という、本当なら嫌悪してもいいはずの僕に対してさえ、彼は頼れる兄として接してくれた。



 荻原が彼を失ったのは、一人の女性によってだった。

 彼女は大磯おおいそ薫子かおること言った。

 勝の同級生で、有正兄さんの恋人だった。婚約者として彼女を父に紹介した兄は、結婚を反対されたあげく家を出て行った。あんなにも感情を表に出した彼を見たのは、あれが初めてだった。



 兄は言った。



『何故わかってくれないんだ。彼女はそんな人じゃない!』


『お前はまだ若いからわからんのだ。あのようなどこの馬の骨ともわからんような女……後で自分の首を絞めることになるだけだ』



 そう吐き捨てた父が、僕の母のことを言っているのだとすぐにわかった。


 一人で僕を産み、一人で育てる事に限界を感じて父を頼った母。彼女の死は、父にとって、彼の背負ういくつかの荷物が少し軽くなったに過ぎなかったのかもしれない。



 兄は家を出た。父は勝への後継者教育を始めた。


 その頃からだ。


 僕と勝は、父との戦いを計画し始めた。


 まずは、ネットで小さな会社を立ち上げる。そして何十年か後に、大きくしたその会社で荻原を乗っ取るのだ。簡単ではないが、出来ないことはないはずだった。

 勝はいずれ、荻原の経営の一部を任される。そうなれば、中に協力者のいる建物に忍び込むようなものだ。父の目さえごまかせれば、きっとうまくいく。



 勝は、有正兄さんと同じように頭がよかった。

 ただし彼のように真面目ではなかったから、父はどこか勝を嫌っているように見えた。髪の色を染めるなどというのは、それこそ前世紀の遺物とも言える父の目には、馬鹿な所業にしか映らないのだろう。

 それでも父は、勝の優秀さを認めた。後継者として、有正兄さんに代わる人間として、勝は今、荻原にとって価値を持つ。



 そして、そういう意味での価値は、僕には欠片も存在しなかった。


 父は僕に無関心だ。


 彼にとって僕という人間は、『どこの馬の骨ともわからんような女』が産んだ、汚い子供でしかないだろう。



 多岐さん。


 君はなんと言うだろう。あの男に会ったら。


 あの男は、きっと君も侮辱する。けれど君は屈さない。


 前を見て、微笑み、心の中できっとこう言う。



《腐れじじいが》



 時々、君が奇跡のように思える。
 その強さが、眩しくも妬ましい。

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