4.嘘つき女  世の中金よ!金なのよ!

 矢尾やお聡子さとこちゃんは、北高きたこうで保健室の先生をやっている二十七歳、性別女。

 いつも長い前髪と黒縁眼鏡で目元を隠してるし白衣で全身を覆っているので生徒達は知らないが、彼女は実は容姿もスタイルも抜群な美人さんなのだ。


 男子生徒ムシ除けであるその前髪や眼鏡や白衣の向こうにある聡子ちゃんの本当の姿を知っているのは、校内では私だけ。そして同じように、校内で私の本性を知っているのもこの聡子ちゃんだけなのだ。



「あー。荻原おぎわら武士たけし簀巻すまきにしてコンクリ詰めにして海に一発沈めてやりたい」



 私と聡子ちゃん以外誰もいない保健室のベッドにうつ伏せになり、私はそう呻いた。


 

 今日は土曜日。

 あの思い出すのも忌々いまいましい出来事のその次の日である。時間は四限が始まって三十分くらい経ったところかな。私は三限後から、気分が悪いと先生に断って保健室にいた。



 嘘じゃないわよ。本当に気分が悪いの。そう。昨日の夕方からずっともう、胃のあたりがムカムカしてる。内から沸き起こるこれはいわゆる破壊衝動ってやつかしら? もちろんその対象となるべきなのはある一人の男なんだけれども。



「コンクリ詰めは海が汚れるからやめな、佳奈かな」



 聡子ちゃんは、机に頬杖をついてまるで面白いオモチャを見るようにしながら言った。私は枕から顔を引き剥がすと、じとりと聡子ちゃんを睨みつける。



「聡子ちゃんが教えてくれたくせに」



 恨みのこもった私の非難に、しかし聡子ちゃんはにこにこと笑ったままだ。

 ムカツク。この人、完全に面白がってるわ。


 聡子ちゃんが、こんな晴れやかな笑顔を他の生徒に見せることはない。普段は近寄りがたい先生を演じて、生徒がこの保健室に入り浸るのを防いでいる。

 おかげで私も、この保健室でだけは素の自分でいられんだけどね。


 もちろんこうしてがばりと起き上がり、ベッドの上に胡座あぐらをかくことだってできる。


「聡子ちゃんが、荻原はお買い得だって言ったくせに」



 私はさらに非難した。


 そうだ。


 私だって、金持ちなら誰でもいいってわけじゃない。


 最低でも条件は三つ。

 まず私より早く死にそうである事。次に、宗教に入っていない事。最後に、私を誰よりも愛してる事。



 私の野望の最終形態は、自分の自由になるお金で一人のんびりと落ち着いた老後を過ごす事なんだもの。その時は旦那なんか邪魔なだけでしょ? 早く死んでもらわなきゃ。

 あと宗教なんて無駄極まりない事に金をつぎ込んでる人間は、見てるだけで吐き気がしてくる。その金私によこせって感じ。

 それに旦那が私を愛してくれればくれるほど、彼は私に貢いでくれるだろうし苦労はさせないだろうし遺産も多く分配してくれるだろうし。ほらね? 健康、宗教、愛、この三つがキーワードだ。



 最低でもこの三つを満たしていなければ、私のターゲットにはならないわけ。まぁそういうわけで、私は荻原武士が一体この条件に当てはまる人間なのかどうかを知る必要があった。
 

 もちろんその時頼ったのは、こちらの聡子ちゃんだ。保健室の先生である彼女なら、生徒から相談を受けたからとか何とか言って、個人データも見放題。そうしてそのデータを見た上で、彼女は言った。



 つまり、荻原武士は文句なしにパーフェクトだと。



 年は四月生まれの十七歳。性格は温厚。容姿、素行共に極めて平均的で、宗教雑誌よりもエロ本を手に取る健康的な男子高生。

 一年の時は欠席が計十日ちょっとあったらしい。理由はすべて風邪。統計的には多いと言えるので、そういう意味では健康的ではない。

 そして荻原家は資産ン十億の紛れも無い上流階級。



 見、つ、け、た。



 そう思ったわね。
 完璧じゃない?
 すごいわ。怖いくらいよ。



 彼だわ。
 彼こそ私が求めていた人よ。



 あとはそうね、彼が誰よりも私を愛してくれればいいわけだけど、まぁ、これは簡単。問題なし。だって仮にも彼は北高の生徒で、私は北高のマドンナなんだもん。そうなれば、結果は火を見るよりも明らかでしょう?


 本当ならアプローチを重ねて、向こうから告白してくるのを待ちたいところなんだけど、待ってられなかった。

 実は以前にも一件とても優良な物件があったのだけど、私がどうやって落とすかを計画しているうちに他の雌猫にかっさらわれていってしまったのだ。

 別に略奪愛してもよかったんだけど、そういうどろどろはなるべくやりたくない。相手に恨まれたりしたら面倒だしね。


 私はね、一度犯した間違いをくりかえすようなバカじゃないわけ。世界で一番愛してもらうのは、付き合ってからでも遅くないわ。




 そして昨日だ。

 私は積極的に彼に話しかけた。荻原君は少し戸惑ってたみたいだけど、感触は上々。彼もまんざらじゃないみたいで、私はその反応に満足してた。



 荻原君はゴミ捨ての当番だったから、焼却炉の近くで待っていて、彼が一人で現れたところに話し掛けてホームルームの後屋上に来るようにお願いした。

 もちろん少し恥らうのを忘れずに、よ。告白するのに焼却炉の前はないでしょ? そうして放課後、私と彼は屋上で二人きりになった。



 私の演技は完璧だった。愛を告白する人間なんて今まで見飽きてるから(もちろん私がされる側)どういう仕草をすればいいかなんて考えるまでもないこと。頬を染め、視線をあちこちに逸らしつつ、核心を突く時だけ、相手の目を真っ直ぐに見る。



 つまり、『好きです、付き合ってください』って言う時にね。



 私は疑っていなかった。彼の返事はイエス。それ以外にはあるはずがない。
 それが。それがよ。



「あいつ、『ごめん』って一言だけ言って屋上から出て行きやがったのよ!」



 私は怒鳴り、側にあった枕を乱暴に殴った。


 もちろんこれは、聡子ちゃんには何度も話した顛末だ。今思い出してもムカムカする。あの男、よりにもよって、この、私を! ふったのだ! 袖にした!



「ありえないでしょ!」



 そうだ。ありえない。地球がひっくりかえったって、ありえない。いいや、あってはならないことなのだ。



「でも実際起きた事だろうが」
 


 聡子ちゃんが言う。



「だからあいつを簀巻きにしてコンクリ詰めにして海に沈めるって言ってんじゃない!」



 ヤツの存在を抹消して昨日の忌々しい出来事をなかった事にするのだ。
そう息巻く私に、聡子ちゃんは肩をすくめた。



 今日、私は荻原武士がなるべく視界に入らないように授業と休み時間をこなした。

 見たら殴り飛ばしてやりたくなるからだ。私のプライドを傷つけた罪はこの地球の核よりも深い。しかしあんな冴えない男のためにこれまでの私の努力を無にするのもしゃくなので、私は耐えた。耐えに耐えた。

 そして四限が文化祭の話し合いになると知ったので、三限が終わってすぐ保健室に逃げ込んだのだ。



 荻原武士は文化祭委員だ。文化祭の話し合いともなれば、奴が前に出てくるのは必至。

 そうなれば私は真面目に話し合いに参加する限り奴を視界に入れなければいけなくなる。五十分もこの溢れ返る破壊衝動を抑えきれる自信は、さすがの多岐たき佳奈子様にもなかったのだ。



「けどなぁ、佳奈」



 まるでしょうのない娘に言うかのように、聡子ちゃんは言った。



「私はやっぱり荻原はいい男だと思うよ」



 聡子ちゃんは目がいい。

 視力とかそういう事じゃなくて、人を見る目がとてもいいのだ。いい人間と悪い人間の区別が、見るだけでついてしまう。そして時には、少し話すだけでその本質を言い当てる事もある。頭がいいんだと私は思う。


 けど今回ばかりは、聡子ちゃんの意見には反対だわ。私。



「どこが?」



 私は不機嫌にそっぽを向いた。



 あの男のど、こ、が、いい男だって? 頭脳、運動、容姿、性格、全てにおいて平均的なあの男のどこがいい男だというのか。しかも女を見る目もないときた!


 しかし聡子ちゃんは笑いながら言った。



「お前をふった所」


「聡子ちゃん。怒るよ」


 いくら聡子ちゃんでも、許せる発言と許せない発言がある。私は目を吊り上げて、ぎろりと彼女を睨みつけた。もちろんその睨みが、聡子ちゃんを怯えさせることが決してないのはわかってるけどね。
 聡子ちゃんは宥めるように首を傾げた。



「佳奈」



 聡子ちゃんのこの呼び方は嫌いじゃない。心地いい。



「お前は、お前の外見や噂だけにつられて寄ってくるような男共にはもったいない女だよ」



 私は眉をひそめた。



「どういう意味?」


「男は金じゃないって事」



 ストーップ。ちょっと待って、聡子ちゃん。


「聡子ちゃん? いい? この際、はっきり言わせてもらうけど、世の中、金よ。金があれば皆笑うし、金があれば皆幸せ。だから幸せな結婚も幸せな老後も金がないと成り立たないわけ」



 これは真理だ。


 私はベッドの上に立ち上がった。



「地獄の沙汰も金次第って言うでしょ。せっかく女に生まれたんだもの。自分でこつこつ働かなくても、この身体一つで幸せな生活を手に入れてみせるわよ。金持ってる男見つけて貢がせて。恋愛なんてしょせんその手段にしか過ぎないんだから、利用できるだけ利用させてもらうのよ。先人はよく言ったものよね。女は氏無くしても玉の輿こし! 金を手に入れるためなら、私はね、どんな猫だってかぶってやるわ!」



 正直言って、この時私は少し興奮してた。なんていうか、荻原武士への怒りがそのまま金への熱情にスライドした感じ。


 だから失念してた。ここが学校だって事。



「見てなさいよ! 萩原武志のハゲ! ネクラ! 間抜け! オタンコナス! ◯◯! ××野郎!」

「こら佳奈!」


 思わず放送禁止用語まで並べて罵倒を口にした私を、聡子ちゃんが窘めたその時である。


 ガラリ。



 なんと、保健室の扉が開いた。

 授業中なのに。

 私は固まる。


 聡子ちゃんが入り口の方を振り向いて目を丸くしたのがわかった。


 え? 何だれ? 先生? うちの担任?


 私は聡子ちゃんを問いただしたかったが、扉を開けた人物がぺたぺたと室内に入ってきたのがわかったので何も言葉にできなかった。


 保健室のベッドにはカーテンがついていて、ベッドからは直接入り口の方が見えない。

 足音はどんどんこちらに近づいてくる。私は頭の中でジョーズのテーマを再生した。デンデンデンデンデンデン……とか言ってる場合じゃないし!


 足音は、カーテンの向こうでぴたりと止まった。


この時、私は覚悟を決めた。

 なんの覚悟かって? もちろん、シラを切る覚悟だ。

 相手が教師でも生徒でも、この曇りなき笑顔でシラをきり通してみせる。なんといっても、嘘をつくことに関しては百戦錬磨だ。相手が自分の聴覚よりも私を信じるところまで嘘をつきとおしてやる!


 そう心の中で叫んだ時、奴はカーテンをめくってひょいとこちらを覗き込んだ。

 そしてにこりと笑う。



「元気そうだね。多岐さん」



 次の瞬間の私の行動はまさに脊髄せきずい反射。


 今一番見たくないその顔を見たら、シラを切り通そうって決断はどこかへ飛んで行ってしまってとりあえず殴り飛ばそうと全身の細胞が動いたのだ。

 本能ってこわいわね。


 スプリングのきしむベッドの上で低く腰を落としてとっさに拳を繰り出す。目指すは奴の顔面。腰をうまく使ってクリーンヒットすれば女の力でも脳震盪のうしんとうは起こせる。しかしそれはできなかった。



 パシ。



 私の拳は、一歩後ろに下がった奴の手の平に包み込まれるように止められてしまった。


 そしてそのまま手をつかまれた私は、左肩を押され体勢を崩し、ベッドの上に倒れこんだ。私の手を掴んだままの大きな影が追いかけるように覆いかぶさってくる。まるでスローモーション。奴は、唇と唇が接触するするその寸前で近づけた顔をぴたりと止めた。


 奴の前の発言からものの数秒も経っていない。



 なんなんだ。こいつの、この素早い動きは。ありえない。

 だって、体育のバスケだって、そんなに目立って上手なわけじゃなかったのに。
 奴はまだ笑ってる。隣の席の青柳君とおしゃべりしてる時と同じように、楽しそうな顔で。



「さて、どうしてくれようか?」



 なんなのなんなの、荻原武士。


 あんた、一体なんなのよ!

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