3.心を読む男 なんてこったい最悪の一日だ。


 今朝の夢は最悪だった。


 全長五メートルはあるだろう巨大なカエルに追いかけられる夢だった。

 そのカエルは巨大なだけではなくいかにも毒々しい赤い色に黒い斑点を持っていて、ぬるぬるとした粘液のようなものが体躯からにじみ出ていた。たぶんあれは、触ったら皮膚が焼けただれてしまうタイプの粘液だろう。

 絶対触っちゃいけないやつだ。


 そんな最悪な夢のせいか朝食もあまり腹に入らず、ぐったりとした気分のまま家を出る。駅に着いた時には既にヒッチハイクでアメリカ縦断をしている途中のような倦怠感けんたいかんが身体中にまとわりついていた。

 巨大ガエルに追いかけられる夢を見たのなんて、生まれて初めてだ。

 気持ち悪かった。少なくとも今日一日だけは、カエルを見ずに過ごしたい。


「ようっ!」

 校門をくぐった所で、後ろから声をかけられた。振り返るまでもない。元々友達の少ない僕に、朝からこんな親しげに声をかけてくる奴は限られるのだ。

「……おーす青柳あおやぎ

「んだよ荻原おぎわら、なんか元気なくねぇ?」


 カエルのせいだ。カエルの。


「夢見悪くてさ」

「あー偶然! 俺も今朝ひっでぇ夢見た。ナナの胸がさー実は偽乳だったの」

 ナナっていうのは、青柳が最近はまっているグラビアアイドルだ。いや、あの乳が偽だってのはないだろう。全国の健康な男子諸君が泣くぞ。


「お前は? どんな夢?」

 夢は誰かに話せば本当にならないと言うし、一瞬青柳に話してしまおうかとも思ったが、僕は思い直して手を振った。

「馬鹿らしくて話す気にもならん」

 あの夢が現実になるとも思えない。五メートルもの巨大カエルが現実に現れたら日本警察だけでなく国際的な研究機関なんかが動いて捕獲作戦が始まって大騒ぎだ。その場合、僕にもいくらかお金が入るだろうか。第一発見者であるからには、命名権だってもらえるかもしれない。

 そうしたらなんて名前にする?



 タキ=カナーコなんてどうだろう。

 彼女は怒るだろうか。


「おはよう、萩原君」


 どきりとこちらの心臓を飛び上がらせるタイミングで、彼女は僕にそう声をかけた。

 いや、声をかけただけではない。すれ違いざまににこっと微笑みかけ、あまつさえ手を振りさえしたのだ。そしてそのまま小走りで昇降口へと去っていった。


 僕は何が起きたのかわからず呆然とした。

 そして今起きた出来事に衝撃を受けたのは僕だけではなかった。


「お、おい!」

 青柳が少々興奮気味に僕の肩を叩く。

「今の、多岐たきさんだぜ。ミス北高! 何お前、いつの間に朝の挨拶されるほど仲が良くなったわけ?」


 こっちが聞きたい。


 通常の多岐さんであれば、僕や青柳のような教室の隅にいるような男子生徒と登校時間がかち合っても、気付かない振りをして通り過ぎる。いや、ほとんどの場合が本当に気付いていないのだ。何故なら僕らなど眼中にないからだが。悲しいことに。


 誰かと勘違いしたのだろうか。

 いや、確かに彼女は僕の名前を呼んだ。

 むしろ彼女が僕の名前を知っていた方が驚きかもしれない。一年の時から考えても、僕らが直接言葉を交わしたのはほとんどないのだから。

 ……。

 なんなんだ。いったい。


 まさかまさか、多岐さんにも僕と同じように人の心を読む能力があるというわけではないだろう。

 僕は昇降口に消えた彼女の鞄にぶら下がっていたキーホルダーを思い出していた。


 黒い斑点のある赤いカエル。


 僕が夢に見たあのカエルは、間違いなく多岐さんの登校鞄で揺れているあのキーホルダーのカエルに所以するものだ。

 あのおぞましいキーホルダーは、多岐さんがクラスの仲良しグループの女子から誕生日プレゼントにもらったものだった。いやその趣味ちょっとどうかと思うよ、と突っ込まれかねないそれを彼女は嬉しげに受け取り毎日鞄にぶら下げていた。


 もちろん心の中では、

(売っても大したお金にはならなさそうだし、壊れて落ちるまではつけとくか)

 と血も涙もないようなことを思っていたのだけれど、真実を知っているのはこの僕だけだ。



 夢判断というものはよく知らない。けれどあのカエルに追いかけられる夢を見た僕はつまり、多岐さんに追いかけられる夢を見たということになるのだろうか。

 まさか。多岐さんが僕を追いかける? そんなこと起きるはずがない。


 彼女の理想はスカイツリーよりも、富士山よりも、エベレストよりも高いのだから。


 ★ ★ ★


 突然だが僕の生家の話をしようと思う。

 荻原家は、今の当主が築き上げた成金一族だ。

 こんな言い方をしたら元も子もないけど、事実だししょうがない。資産もそれなりに持ってるし、家だって門構えからして立派なもんだ。お金持ちの世界で馬鹿にされないためには、まず外見から磨き上げるのが大切だったんだろう。


 僕は荻原という姓を持っているが、かといって別に次の当主になるわけではない。

 僕は当主の第三子だし、いわゆる妾腹ってやつだ。次の当主としては腹違いの兄が教育を受けている。もちろん僕は彼を補佐すべく教育されてきたのだけれど、あくまで補佐。

 僕が自由にできる荻原のお金ってのはほとんどないのだ。


 だから僕は自分にお金があるという認識を持ったことは一度もなかった。

 そのせいで、自分が多岐さんのターゲットになるとは夢にも思わなかったのだ。


 結論から言おう。


 今朝の夢は正夢だった。

 その日多岐さんは何かと言うと親しげに僕に話しかけ、僕と青柳を戸惑わせた。青柳などは、これが昨日までと違うパラレルワールドなのではないかと疑ってそわそわしていた。ほらあの、本屋のラノベコーナーでよく見るタイトルみたいな奴だ。


 そしてあろうことか、彼女は放課後になると僕を屋上へ呼び出した。

 嫌な予感はしたのだ。

 頬を染めた彼女はとても照れくさそうで、そしてとても可愛かった。


「あのね、突然でびっくりするかもしれないんだけど……」


 おい、嘘だろ。

 僕は心の中でうめいた。


「荻原君。好きです、付き合ってください」


 彼女は確かにそう言ったが、僕には映画の字幕のようにその心の声が見えていた。


《荻原君。あなたの【お金】が好きです。未来の遺産相続を前提に付き合ってください》


 遺産相続まで視野に入れてんのか。

 えげつねぇな。


 ★ ★ ★



「おータケおかえりー」

 家に帰った僕を迎えたのは、荻原家次期当主様ご本人だった。

「……ただいま」

「んだよ、不機嫌だな。どした? 学校で苛められたか? お兄ちゃんがボコってきてやろうか?」


 まさるは僕より四つ上の大学生だ。有名大学に入っていい成績を保つかわりに、その他の素行の悪さには目を瞑ってもらってるらしい。今日も授業のはずだけど、さぼりだろうか。


「別に。不機嫌じゃないけど」

「嘘つけ。なんだ。お前が妖怪だってばれたか?」

 勝は元々よろしくない目つきをさらに意地悪そうに細めて、にししと笑った。


 僕の能力について知ってるのは、荻原家ではこいつだけだ。

 父は僕にあまり興味を示さないし、愛人だった母は本妻のいじめに耐えられずすぐに死んでしまった。勝の母親にあたる本妻にいたっては、僕のことなど庭の石ころのように思っている。


 うまくこの世界で生きたいのなら、その能力を隠せと勝が言った。

『そしてそれを俺とお前のためだけに使え』と。


 勝は僕に隠し事をしない。彼の野心もすべて僕にさらけ出している。

 僕は靴を脱ぎ、鞄を持って自分の部屋に向かった。後ろから勝がついてくる。


「んだよ。言えって。俺様の好奇心を満足させろって」

 離れの僕の部屋までは少し歩く。それまでこいつのしつこい追及を聞かなきゃならないのかと思うとうんざりしたので、僕は立ち止まると、くるりと振り向いて吐き捨てた。


「ああ、最悪だよ。史上最低に最悪な気分だ」


 勝の中に、好奇心という名の光が宿るのが見えるようだった。みるみるうちにきらきらと目が輝き、口元ににやにやとした笑みが広がる。ほんと腹の立つ顔だな。

「え、なになになんで? どうしたの? お兄ちゃんに言ってみ? 相談してみ?」

「うるさい。黙れ馬鹿」

「なんだよー相談しろよー。俺はお兄ちゃんだぞー」

 僕は不満の声を上げる勝を置いて再び歩き出した。さすがにもう追いかけてはこない。僕を怒らせると面倒であるということをよく承知しているからだ。


 そう、僕の気分は最悪だった。

 気分がムカムカして仕方なかった。

 彼女の顔が思い出される。僕の返事に、多岐さんは驚いて目を見開いていた。まるで地球外生命体でも見たかのような様子だった。そりゃそうだろう。僕の返事は、彼女の予想を大きく裏切ったものだっただろうから。


 僕は廊下の途中でぴたりと立ち止まり、低く呻いて頭を抱えた。


 なんてことだ。

 僕はふってしまったのだ。

 学校一のマドンナを。


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