《蝶》7-2


「でも柊真」


 お湯が注がれるごとにコーヒーの薫りが柔らかに立ち昇る。柊真は痺れたようにただ小蝶の手元を凝視した。


「あんたがそれをあたしから聞き出して………そしてそれからどうするの? 睡羽に何もかもぶちまけて叶哉と引き離して、あの子が天涯孤独になったところで然るべき施設にでも放り込むつもり?」

「小蝶さん、睡羽は」

「何よ」

「睡羽は知ってましたよ。–––自分と叶哉に血の繋がりがないって事」


 矢継ぎ早に捲し立てた小蝶を遮って発せられた柊真の言葉に、小蝶はふつりと口を噤んで瞠目した。


「知ってた……?」


 やっと口を開いた小蝶に、柊真は「ええ」と短く一言だけ答えた。


 《砂の街》の鐘楼で打ち鳴らされた鐘の音が遠くに響き、辺りの空気を微かに震わせる。


 しばらく黙した後、あたしにも一本頂戴、と小蝶が柊真の煙草を指して言った。小蝶の咥えた煙草に、柊真は静かに火を点けた。


「あの星祭りもね、今でこそ楽隊呼んだり移動遊園地引っ張ってきたりしてお祭りムード一色だけど」


 薄暗い空間に煙草の火が朱く浮かぶ。柊真は自分の煙草を灰皿で捻り消すと、差し出されたコーヒーをゆっくりと啜った。


「一昔前は酷かったのよ、『祭り』なんて名ばかりで。スリに火事に刃傷沙汰、空き巣に強盗、果ては人攫いにその売買まで……お祭り騒ぎに乗じた犯罪の温床よ。警察もね、この夜起きた事件は基本的に見て見ぬ振り。睡羽の件だって、新聞に小さな記事が載ったけどその一度きり。星祭りの夜に女の子が一人消えてしまった事件なんて、世間はあっという間に忘れて去ってしまった」


 柊真は今夜の星祭りの様相を思い浮かべる。頭の芯が痺れるような激しさで響き渡る鐘楼の鐘の音、弾かれたように跳ね上がる子ども達の哄笑、酔った男達の下卑た怒声に野次。

 まるで自暴自棄と隣り合わせの狂騒だ、と、睡羽の手を引きながら柊真は感じていた。この場所でなら、この空気を纏ってさえいれば、誰が何を仕出かしてもおかしくない、と。率直にそう告げた柊真に、小蝶は悲しいような諦めたような眼差しで頷いてみせた。


「僕は過去に何があったのかを掘り下げたい訳じゃないんです。ただ、叶哉は……睡羽は、これで幸せなのかなって」


 それは第三者が決める事じゃないでしょう、と小蝶が俯き加減に笑う。


「たったひとつ言えるのはね、柊真。あの頃どうしようもなく真っ暗で虚ろな目をしてた叶哉を救い上げたたのは、いつも一番側にいたあたしじゃなく、あの夜『妹』になった睡羽だった……って事よ」


 ああ、と柊真は密やかに息を漏らした。溜め息は、宙に融けて、儚く消えた。


「さて、コーヒー代に一曲聞かせて貰おうかしら。何でもいいわ」


 まだ長い煙草を灰皿に沈ませると、小蝶は立ち上がってピアノ周辺の照明を灯した。え、ああ、コーヒー代か、とあたふたしながら柊真はピアノに向かう。響く靴音。


「じゃあ、バッハのコーヒーカンタータから『お喋りはやめて、お静かに』」


 小蝶に向かって微かに笑みを寄越して呟くと、柊真は指先で優しく鍵盤に触れた。

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