《蝶》5


 高く昇った太陽に睨まれて、小蝶コチョウは浅い眠りから抜け出した。仕事に出る迄にはまだだいぶ時間がある。

 小蝶はベッドから滑り降り、冷蔵庫から取り出した炭酸水を口に運んだ。乾いた唇が濡れる。小蝶はぼんやり霞む夢の破片かけらを拾い集めるように瞼を閉じた。モノクロームの夢。遠いような、でも未だ胸の奥で燻る、鮮烈で近い記憶。


「……10年、か」


 カレンダーを指先でなぞりながら、ふと唇から零れた言葉に自分でハッとする。小蝶は炭酸水を冷蔵庫に戻すと、本棚の古びた聖書に挟まれた新聞の切り抜きを手に取った。


『当局は、何らかの事件性があるものとして捜査を進めるとともに、行方不明の女児(4)を捜索する方針を発表した』


 それはもう擦り切れる程に何度となく繰り返し眺めた文章で、初めに目にした時以来、小蝶の心に細く長い影を落としている。深い溜め息をついて切り抜きを元の位置にしまうと、小蝶はバスルームに向かった。


 - - -


「で、生徒Aはちゃんと家に帰った訳?」


 《蝶》に着いて最初に入れたコーヒーを飲みながら、小蝶は床のモップ掛けにいそしむ柊真に尋ねた。


「それがですね、一曲弾き終わったら寝てたんですよ彼」

「はあ? ……成程、そりゃ柊真センセイ狙いの確信犯ってやつね」

「何ですかそれ」


 呆れ笑いを投げてモップを壁に立て掛けると、柊真は「とりあえず、小蝶さんが喜ぶような展開にはなってないですからね。すぐさま彼のお家に電話入れて、今朝ちゃあんと帰しました」と、息を吐き出すように疲れの滲んだ声で言った。


「……叶哉、遅いですね」


 胡桃の木製の振り子時計をちらりと見て柊真が呟く。


「ああ、今夜も星祭りの準備があるから遅くなるって。星祭りって言ったら《砂の街》唯一の行事らしい行事だからね、参加しないと古株連中が煩いらしいのよ」


 小蝶の言葉に、柊真は昨夜見た鐘楼を思い起こす。乾いた砂塵風、朽ちかけ錆び付いた建物、割れた窓硝子。その部屋の中、ギシギシと軋むソファに腰掛けて、柊真に「雨が似合う」と言った少女は–––睡羽は、今夜もひとり兄の帰りをただ待つばかりなのだろうか。


「すみません、煙草吸ってきます」


 小さく言って、柊真はモップを手にスタッフルーム(という名の物置)に向かった。


 今すぐあの部屋に飛んで行って睡羽にピアノを聴かせてやりたい。柊真は自分でもせない程の激しい衝動に駈られた。ああでもあの部屋にはピアノがないんだっけ、……それなら歌を口遊くちずさむでもいい手拍子を重ねるでもいい。暖かな音を誰かあの少女に、そして昨夜霞月がそうであったように、彼女が満ち足りた寝息を立てて眠れますように、と、灼け付くように柊真は願った。


 しばらく宙に融けてゆく紫煙を見つめてそんな事を想うと、柊真は携帯灰皿に短くなった煙草を押し付けて立ち上がった。

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