《雨の街》5
《砂の街》を離れてしばらく歩くと、
あの建物を曲がれば自分の部屋が見える、という位置で柊真はポケットから鍵を取り出した。そして角を曲がった時、柊真は部屋の玄関扉の前に何かが
「–––
素っ頓狂な声を上げて柊真は扉の前に立ち尽くした。現つと眠りの狭間を行き来していたらしい少年は、その声にハッと覚醒して頭を振った。
「おかえりなさい、先生」
にっこりと笑う霞月は珍しく制服姿で、足元には学校鞄も放り出されている。柊真は頭の中でぐるぐると考えを巡らせる。霞月は学校から家に戻らずそのまま此処へ来たのだろうか。という事は、これはまさか、もしかして。
「大正解。僕、家出しちゃいました」
懊悩する柊真の背中を押すように霞月が微笑む。更に、こんな所で立ち話もなんですからどうぞ中へ、僕がお茶でも入れて差し上げますから、と、饒舌な霞月に言われるがまま、柊真は鍵を開けて室内へと少年を招き入れたのだった。
「……で、なんでまた君は家出なんか?」
そう問うた柊真の舌で、熱い紅茶がほどける。勿論、霞月の入れたものだ。
「家に帰りたくなかったからです」
それを聞いた柊真は、ああ、と気が付いて質問を変えた。僕が聞きたいのはそんな事じゃない。
「それはともかく、僕が聞きたいのは君の選んだ家出先がどうして此処なのか、って事だよ」
他にもあるだろう、おじいさんの家とかお隣さんとか友達の家とか……と、
「だって、先生のピアノが聞きたかったから。他の場所じゃ、あの臆病な小鳥みたいなベートーベンも、恋に
いや聞きたいとか言っといて
「だから、僕はバッハ弾きなんだってば」
これは特別授業ね、と片目を瞑ってみせて、柊真は先刻、《蝶》で睡羽に頼まれて弾いた曲を奏ではじめた。一歩ずつ階段を踏みしめるような、祈るような敬虔な心持ちで。
どさり、と背中に重みを感じて柊真は手を止めた。胴に、霞月の華奢な腕が回されている。
「この曲が終わったら帰ります。それまでこのまま、……どうか、このままで」
涙声で呟く霞月をいたわるように、柊真は出来る限りテンポをスロウに落としながら、曲の続きを演奏してやった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます