《雨の街》5


 《砂の街》を離れてしばらく歩くと、柊真トウマは夜半の雨を受ける傘の下で煙草に火を点けた。ライターの掠れた音が響いた後、指に挟んだ煙草からゆらゆらと煙が立ち上る。雨脚は強くも弱くもならないまま、霧が世界を覆うようにして降り続けていた。慣れた感覚の筈なのに、なんとなく煙草が湿気たように感じられて、柊真は長いままの煙草を持て余した。


 あの建物を曲がれば自分の部屋が見える、という位置で柊真はポケットから鍵を取り出した。そして角を曲がった時、柊真は部屋の玄関扉の前に何かがうずくまっているのに気がついた。猫、だろうか。それとも不在の間に何か小包でも届いたのか。柊真は僅かに警戒しながらそれに近付いてみた。


「–––霞月カゲツ!?」


 素っ頓狂な声を上げて柊真は扉の前に立ち尽くした。現つと眠りの狭間を行き来していたらしい少年は、その声にハッと覚醒して頭を振った。


「おかえりなさい、先生」


 にっこりと笑う霞月は珍しく制服姿で、足元には学校鞄も放り出されている。柊真は頭の中でぐるぐると考えを巡らせる。霞月は学校から家に戻らずそのまま此処へ来たのだろうか。という事は、これはまさか、もしかして。


「大正解。僕、家出しちゃいました」


 懊悩する柊真の背中を押すように霞月が微笑む。更に、こんな所で立ち話もなんですからどうぞ中へ、僕がお茶でも入れて差し上げますから、と、饒舌な霞月に言われるがまま、柊真は鍵を開けて室内へと少年を招き入れたのだった。



「……で、なんでまた君は家出なんか?」


 そう問うた柊真の舌で、熱い紅茶がほどける。勿論、霞月の入れたものだ。


「家に帰りたくなかったからです」


 それを聞いた柊真は、ああ、と気が付いて質問を変えた。僕が聞きたいのはそんな事じゃない。


「それはともかく、僕が聞きたいのは君の選んだ家出先がどうして此処なのか、って事だよ」


 他にもあるだろう、おじいさんの家とかお隣さんとか友達の家とか……と、くすぶる暖炉の灰のようにゴニョゴニョ言い募る柊真に、霞月は自分のカップに二杯目の紅茶を注ぎながら言った。


「だって、先生のピアノが聞きたかったから。他の場所じゃ、あの臆病な小鳥みたいなベートーベンも、恋にんでしまったモーツァルトも聞けないでしょう?」


 いや聞きたいとか言っといてたとえが最悪だよ君、と肩を落としつつ、柊真は笑ってピアノの前に腰を下ろした。


「だから、僕はバッハ弾きなんだってば」


 これは特別授業ね、と片目を瞑ってみせて、柊真は先刻、《蝶》で睡羽に頼まれて弾いた曲を奏ではじめた。一歩ずつ階段を踏みしめるような、祈るような敬虔な心持ちで。


 どさり、と背中に重みを感じて柊真は手を止めた。胴に、霞月の華奢な腕が回されている。


「この曲が終わったら帰ります。それまでこのまま、……どうか、このままで」


 涙声で呟く霞月をいたわるように、柊真は出来る限りテンポをスロウに落としながら、曲の続きを演奏してやった。

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