《蝶》4-2
忍びやかに降り続く雨に浸されてゆく《蝶》で、睡羽は真っ直ぐに、柊真の背中を、後頭部を、敏捷に鍵盤を這う指先を見つめた。
穏やかに流れる旋律に、かの映画を知る聴き手は皆、主演女優のふわふわと柔らかな歌声を思い出し、水の上をたゆたうような穏やかな時間の流れに誰もが身を委ねていた。
柊真は、やがて弾き終えると、肩の荷が下りたような風情で顎を天井に向けてふーっと息を吐き出した。
「で、お嬢ちゃん。彼に弾いて貰いたい曲は? 題名が解るならそれを頼もう」
カウンターで静かに酒を傾けていた男が睡羽に尋ねた。
「『主よ、人の望みの喜びよ』」
かぼそい声で、睡羽が呟く。
「いいね」
男は小蝶から受け取ったメモ用紙にさらさらと書き留めると、席を立って店内を泳ぐようにして柊真の元へ向かった。
「ねえ睡羽」
小蝶の声に、睡羽は「何?」と顔を上げる。
「もし叶哉が家に先に戻った時にあんたが居なかったら、大騒ぎになるんじゃないの?」
「……たぶん」
睡羽の答えに大袈裟にため息をついて見せてから小蝶は言った。
「じゃあ、この曲聞き終わったら帰る事! ……って言ってもあたしは店あるし、柊真に送らせるから」
「ええ? 柊真君に? 頼んでくれれば俺が送ってくのに」
「却下」
「あっそ」
席に戻った男と小蝶の軽快なやり取りに小さく笑うと、睡羽は再び柊真の背中に向き直った。
「–––という訳で柊真。道中この子に何かあったら叶哉に殺される覚悟で、きっちり送り届けるように」
睡羽のリクエスト通りの曲を弾き終えた柊真をカウンターに呼ぶと、小蝶はくっきりした笑顔を浮かべて言い放った。
「いやあの小蝶さん、という訳でっていうか叶哉に殺されるってつまり彼女は何者なんですか」
小声で早口に問いながら小蝶の袖を引っ張る柊真に、睡羽はすっと立ち上がって小蝶と柊真を交互に見上げた。
「大丈夫、あたし一人で帰れます」
強く掴んだら壊れてしまいそうな華奢な体躯に似つかわしくない、揺るぎない光を宿した双眸に柊真は一瞬たじろいだ。
「睡羽、いいから柊真に送って貰って。雨も降ってるっていうのに、あんた傘持ってないでしょ?」
「スイハ……って事は叶哉の妹?」
「そゆ事」
「ああ、君が!」
目の前の少女が誰か判明した途端、柊真は炭酸水が弾けるように微笑んで、初めまして、と手を差し出した。
「じゃあ、叶哉に殺されないように責任持ってご自宅までお送り致します、スイハお嬢様」
「あ、ありがとう、ございます」
握手を交わした手から先程の音が紡ぎ出されたのかと思うと、睡羽はその手をもっとまじまじと凝視したい感情に捕らわれた。離れた指先が名残惜しいような気さえして、睡羽はきゅっと自分の手を握りしめた。
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