《蝶》4-1


 今夜の《蝶》は、降りしきる雨に浸されて静かな佇まいを見せていた。《砂の街》とも《雨の街》とも違い、この店が建つ一帯は、まるで神様の気まぐれのように日によって晴れたり降ったりするのであった。


「この曲、頼む」


 客のひとりにふいに肩を叩かれ、柊真トウマは渡された小さな紙切れを開いた。『Moon River/Henry Mancini』と癖のある硬い文字で書かれている。『Moon River』と言えば、古い映画の中で妖精のように愛らしい主演女優が窓際に腰かけて歌っていた歌だ。彼女の味のある優しい歌声が、月明かりに照らされた世界をびろうどの柔らかさでひたひたと浸してゆくように、少年だった柊真には思えたのだった。

 あれから彼女の映画はくまなく見尽くしたっけな、と、柊真は懐かしさに頬を緩めながら、頭の中で昔聴いた旋律を手繰り寄せた。


「あら、懐かしい曲」


 カウンターでレーズンバターを切り分けていた小蝶コチョウが手を止めた。目の前で飲んでいた男が低く笑う。


「だろ? 俺がリクエストしたの」

「珍しいじゃない、映画音楽なんて」

「まあね。あの子、柊真君……だっけ。彼なら"聴かせて"くれる曲だと思ったからさ」


 音を立ててグラスの中で氷が溶けた時、カランと鐘を響かせて《蝶》の扉が開いた。


「……こんばんは」


 するりと入ってきたのは、最低限に照明を落とした仄暗い店の雰囲気にはおおよそ似つかわしくない、小柄で華奢な人影だった。


「え? 睡羽スイハ!? 睡羽じゃない! どうしたの、こんなに雨に濡れちゃって」


 小蝶が驚いた表情でナイフを置き、落ち着かなげに店内を見回す少女を迎え入れた。


「小蝶さん、突然ごめんなさい。来ちゃいけなかった……かな?」

「馬鹿ね、そんな訳ないじゃない。まず座って。それからこれで髪拭いて。……叶哉カナヤは今日此処は休みあげたんだけど、叶哉はどうしたの?」


 言いながらカウンターの内側のスツールに睡羽を座らせタオルを手渡すと、小蝶はてきぱきとライムを絞って作ったジュースを睡羽に手渡した。


「うん。お兄ちゃん今夜は別の仕事なの。もうじき星祭りで、なんだか人手が要るみたい」

「そういえば《砂の街》はもうじき星祭りだわね。……それで睡羽、一体どうしたの? こんな時間にこんな場所まで来るなんて。叶哉にはちゃんと言ってきたの?」


 こくこくと喉を鳴らしてライムジュースを飲んでいた睡羽は、ぴたりと動きを止めて小蝶を見つめた。


「あなたが此処に居る事、叶哉は知らないのね」

「–––ピアノを」

「え?」

「トウマの、ピアノを聴きに来たの」

「柊真の?」

「お兄ちゃんがね、トウマはピアノ弾くと人が変わるって。バッハが似合うって」


 柊真にリクエストした男は、小蝶と睡羽の会話を耳に留めると目を細めて睡羽へと笑いかけた。


「お嬢ちゃん、あんたの兄貴はいい耳してる。ああホラ、今流れてるのも柊真君のピアノだよ。後でバッハも弾いて貰うといい。おじさんが頼んであげよう」

「自分でオジサンだって」


 ぷ、と吹き出す小蝶を余所に、睡羽はピアノを奏でる柊真の背中にじっと見入るのであった。

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