《雨の街》4
煙草の灰をとん、と軽く落とすと、
昨夜また実家から電話があったらしい。《蝶》から帰宅した柊真は、電話機の赤い点滅を見てとりあえずメッセージの再生ボタンを押した。いつもと同じ苦々しい声でいつもと同じ説教が流れ出す。柊真は無言のまま息を吐くようにひっそり笑うと、説教の途中で消去ボタンを押して煙草に火を点けたのだった。
「まあ、でも」
朝未だ来の仄暗い庭を眺めながら柊真は独り呟く。
「どんな形にせよピアノで食ってくって決めたんだって……ちゃんと話さないとな」
表舞台で脚光を浴びたい訳でも、ピアノ弾きとして名前を世に知らしめたい訳でも無い。単に、鍵盤が、弦が織り成す音の世界から柊真自身が逃れられなくなってしまった。だからこのままピアノを奏でて生きていくと決めた–––父親に話したいのは、たったそれだけの事、なのに。
「長期戦覚悟で行きますか」
灰を落として煙草を捻り消すと、柊真はカーテンを引いてベッドに倒れ込んだ。波のように緩やかに流れくる睡魔に、柊真の意識は、なだらかになだらかに、優しく引きずり込まれて行った。
「ねえ
柊真のかしこまった口調に、ソファで文庫本を手にくつろいでいた霞月がふと顔を上げた。
「嫌です」
「ええっ」
「……嘘ですよ。そろそろ先生が『さあピアノのレッスンを真面目にやろうじゃないか霞月君!』とか言い出す頃だろうと思ってたんですよ」
ふふ、と含み笑いを零して霞月がソファから起き上がった。読みかけの本を鞄にしまうと、代わりに初日に柊真が渡したテキストを取り出した。
「あれ、違うんですか先生?」
「や、僕が言いたかったのは今君が言った通りの事ではあるんだけど」
困惑顔の柊真の手を引いて、霞月はピアノの前の椅子に柊真を腰掛けさせた。
「その前に先生。僕、先生のピアノが聴きたいです。僕が好きなのはね、この曲」
言いながら、霞月は書架から柊真の書き込みが施された古い楽譜を引っ張り出してきた。そんな物いつの間に見つけたの、と慌てる柊真を余所に、霞月は丁寧に
「ドビュッシーの『月の光』」
「ああ」
「静かなのにサラサラと光って見えるところが好きなんです。でも、今の先生が弾いたらちょっと物憂げな感じになるのかな」
「君って」
何者? と見つめる柊真に、霞月は「僕は元々聴く専門ですよ。此処に通い始めたのも、母が流行に乗って我が子にも楽器を習わせたがっただけですから」といつか小蝶が言った通りの事を嘯いた。
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