《砂の街》4


 夕暮れの柔らかな陽射しが、音も立てずに砂の一粒一粒に降り注ぐ。窓の外から視線を戻すと、睡羽スイハは膝の上に広げた絵本にそっと指を触れた。何度も繰り返し読んでいるせいで、かさついた紙はしっくりと睡羽の手になじんでいた。


「お兄ちゃん」

「ん」


 睡羽の声に、壁に凭れ床に足を投げ出した格好でタブロイドを読んでいた叶哉カナヤが顔を上げた。


「ラジオ、聴いていい?」

「俺にいちいち断りなんか入れなくたって、ラジオぐらい好きに聴けばいい」

「うん。でもお兄ちゃん、やけに真面目に新聞読んでたから」


 にっこりと微笑む睡羽に「別に真面目に読んじゃいないよ」とひらひら手を振ると、叶哉はタブロイドの紙面を捲った。


 睡羽のつけたラジオからは、ザザ、という砂嵐のような雑音に混じって伸びやかなピアノの旋律が聞こえてきた。


 蕾がほどけるような柔らかな低音、鳥の羽ばたきのような高音。話に聞くのみの、未だ見た事の無い青く深い海が、途切れる事無く寄せては返すという透明な波が、身体の奥を浚ってゆくような美しい音色だ。睡羽はしばらく立ち尽くしたままその音楽に聞き入った。


「……あいつの曲だな」


 ぽつり、叶哉が呟く。


「誰?」

「《蝶》のピアニストだよ。柊真トウマって言って、バッハを弾かせたら人が変わる面白い男」

「トウマ……」

「そいつ、ピアノ教室の先生もやってんだとさ。自分こそまだ学生みたいにトボけてる癖に」


 言いながら、叶哉は柊真を思い浮かべて喉の奥からくつくつと笑う。


「こんな綺麗な音を作れるの? その人」

「ああ。本気になれば、多分」

「いつも本気じゃないの?」

「解ってないからな、あいつは」

「何を?」


 尋ねた睡羽に、叶哉はふと翳るような表情を浮かべると「さあな」と笑って返した。


「自分で言った癖に、もう」

「悪ぃな。俺も自分で言ってて何言ってんだかわかんなくなってきたんだよ」

「……変なお兄ちゃん」

「おい睡羽、そんな事言ってると」

「言ってると?」


 何事かを思い出したように、叶哉は壁に掛けたブルゾンの懐をまさぐった。


「せっかく睡羽にって貰ってきてやったのになあ」


 などと軽口を叩きながら叶哉が睡羽にぽんと投げて寄越したのは、馴染みの客から貰った包みだった。小蝶コチョウの話によると、「叶哉目当てで自称常連になった女で、叶哉に年の離れた妹が居ると知ってそちらから囲い込もうとしている客のひとり」が、来るたび叶哉(とその妹)宛に何かしら置いて帰るのだと言う。小蝶からは「あんたの事だから易々となびいたりはしないでしょうけど、大事なお客様なんだからうまくやってよね」とも言われてあるのだが。睡羽には、その辺は伏せておきたいのが叶哉の兄としての心情である。


「お兄ちゃんさ、最近いつも何か貰って来るけど……お返しとかしなくていいのかな」

「お返しって」

「だってこれ、本当は女の人からお兄ちゃんへの贈り物なんでしょ?」


 あたしが貰うのって、いいのかなぁ……と複雑な面持ちで呟く睡羽に、叶哉は「お前、ちゃんと解ってたんだな」と乾いた笑いを零すしか無かった。

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