《蝶》3
開店前の《蝶》には、何処かのんびりした空気が流れている。
と、ふと小蝶が顔を上げて言った。
「そういえば柊真、自分ちでピアノ教室始めたんだって?」
小節の終わりまで弾き切ってから指を止めた柊真は、「小蝶さんは耳が早いなぁ」と困ったようにはにかんだ。
「まあね。此処一帯の噂は、あたしが求めなくたって誰かが耳に入れに来るもんなのよ。……で、首尾はどうなの、柊真先生?」
「首尾と言われても」
「生徒は何人? 筋の良い子は居る?」
「いやいや、生徒ったってまだ一人ですよ。中学生の男の子で……… 筋も何も、真面目にピアノ弾いてるとこ見た事無いし」
「……は?」
「もう毎週ほとんどお茶会状態で」
だってあの子、お茶いれるのなんか僕より上手なんですもん、と柊真が言ったところで叶哉が吹き出した。
「つまり柊真先生は、親に仕方無く通わされてる生徒がピアノを弾かずにレッスンの時間をやり過ごそうとでっち上げたお茶会作戦に毎週まんまと嵌められてる、って訳ね」
「……ドンマイ、柊真センセイ」
小蝶が半分呆れたように言うと、叶哉も笑いを噛み締めながら呟いた。
「ま、生徒の当てなら幾らだってあたしが見繕ってあげるからさ。その子が辞めたら言っといで」
「え? 辞めたら? いや辞めないですよ彼は! ……でもまぁ、その時は小蝶さんにお願いしますね」
「……ドンマイ、柊真センセイ」
柊真が、横を通り過ぎがてら叶哉にぽんと肩を叩かれた時、《蝶》の扉がカランカランと涼しげな鐘の音を響かせながら開いた。
あの日以来、
「ハラシェヴィチのショパン、アシュケナージのラフマニノフ、レーグナーのラヴェル、」
呪文のように呟いていた霞月が、ふいに「このあいだ先生が聴いてたのはこれですか?」とレコードの回転台を指差した。あの日から暇を見つけては聴き込んでいたせいで、入れたまんまになっている。
「バッハのミサ曲ロ短調」
「うん、そう」
「先生と似てますね、雰囲気が」
「え?」
「透明で静かで、少し手厳しい」
たった数回会っただけの少年にそんなふうに言われた事に驚いて、柊真は黙ったまま彼を凝視した。霞月の榛色した睛は真っ直ぐで、結局は、柊真の方から逸らしてしまったのだが。
「–––聴きたいな、柊真センセイのバッハ」
回想に耽ってぼんやりしていた柊真に、客から注文を受けてカウンターの小蝶に告げに戻る叶哉が言った。
「……叶哉か。ビックリした」
「なあ、弾けよ?」
こんな強引なリクエストは初めてだな、と忍びやかに笑って、柊真は一呼吸置くとゆったりと鍵盤に向き直った。
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