《雨の街》3
慎重な手つきでレコードに針を落とすと、はじめ虫が翅音を立てるような雑音がして、それから、絹のように滑らかなピアノの音が次々と紡ぎ出されていった。
「……先生?」
小さな声と、肩を揺さぶられた振動で柊真ははっと目を醒ました。いつの間にかレコードは鳴るのを止め、部屋はいつもの雨音に包み込まれている。どうやら柊真は、ピアノの音の波に攫われたまま眠っていたらしい。聴き手として正しいのか弾き手として間違っているのかわからないが、こんなに深く音に癒されたのは初めてかも知れない、と柊真はまばたきを繰り返した。
「大丈夫ですか先生」
先刻の声の主が尋ねる柊真はああ、と頷きながらきまり悪そうに手櫛で髪を整えた。
「ごめんごめん、もうこんな時間か」
「まだ二回目のレッスンなのに、先生、また寝坊ですか? 困った先生ですねぇ」
くすくすと無邪気に笑っているのは、先週から柊真にピアノを習いに来ている少年だ。《雨の街》は《砂の街》と比べると裕福な家庭が多く、特に最近は子どもに楽器を習わせるのが一般家庭の間で流行しているらしい。《蝶》以外でも少しは真っ当な(などと言えば
「お茶でも飲もうか」
ピアノ講師の自覚に乏しい柊真の発言に、一瞬少年はぽかんと口を開いたが、彼とてそもそもピアノが大好きで弾きたくて弾きたくてたまらないので習い始めました、という質ではないらしく口端をきゅっとつり上げて微笑んだ。
「お茶なら僕やります」
「え? ああ、じゃあお願いしようかな。ポットとカップはこっち、葉っぱは……あれ、何処にしまったっけ。こないだ貰ったのが確か此処にあった筈なんだけど」
「……適当に探します」
「うん、頼むよ」
鼈甲縁の眼鏡をついっと持ち上げて、少年はキッチンに意志的な視線を送ってから入っていった。
一方、この子の名前は何だったかな、と生徒に対して失礼極まりない事を考えつつ、柊真は少年が持ってきた練習用テキストを手に取った。家では一切開いていないのだろう。テキストには、手垢は愚か折り目すらついていない。男の子なんてそんなもんだよな、と笑いながら柊真が裏表紙を見ると、几帳面な文字で『霞月』と書いてある。カヅキ、だったか、カゲツ、だったか……。少年がお茶を入れて戻ってくるまでには把握しておかねばと、柊真は半ば焦りながら、少年の母親に書いて貰った連絡用の個人票を書架から探り出した。
「ああ、カゲツ、だ」
「何ですか先生」
「わあああ!」
呟いた途端の背後からの返答に、柊真は思わず大声を上げて振り返った。
「お茶、入りましたよ」
にっこりと笑う
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