《砂の街》3


 買い物のおまけで貰った林檎をかじりながら、睡羽スイハはひび割れた硝子窓の向こうを眺めていた。

 瓦礫のような建物。強い風が吹くたび巻き起こる砂塵。午前11時、この街には夜行性の人間しか居ないのかと思うくらい、通りは閑散としている。


「睡羽、俺にも」


 肩越しににゅっと腕が伸びてきて林檎を奪われる。睡羽は笑いながら振り向いた。


「おはよう、お兄ちゃん」


 林檎を一口かじった叶哉カナヤは「酸っぱいな」と眉をしかめてキチネットへ向かう。叶哉がコーヒーを入れる時の、薬缶が五徳とぶつかる音や古びたコンロに火を点ける操作音が睡羽は好きだ。ふと気を抜くと雲の彼方に連れ去られてしまいそうな夜の静寂とは違う。誰かが、兄が居る、という事が、睡羽の耳にはこの上ない幸福のように感じられるのだった。


「もうすぐ星祭りだね」


 睡羽の言葉に、叶哉はふと暦を思い浮かべるように指先で自分の頭をつついた。夜中心の毎日では、曜日感覚さえもおかしくなるらしい。


「ああ、もうそんな時季か。そう言われてみれば、赤い星が鋭く見える気もするな」


 赤い星とは蠍座のアンタレスの事だ、と、睡羽は遠い昔に叶哉から聞いた事を思い出す。


 《砂の街》では毎年、赤い蠍が夜空から世界を睨みつけるこの季節に星祭りと呼ばれる一夜限りの祝祭が催される。何処からともなくやって来た隊商キャラバンがテントを並べ、飲み食いさせる店から未成年お断りの見世物小屋までありとあらゆる屋台を出す。爆竹の派手な音と花火の鮮やかな色合いに彩られた街で、人々は普段の鬱屈を撥ね飛ばすかのように囃子に合わせて歌い踊り、夜を徹して飲み明かす。そんな凄まじいまでの熱に浮かされた狂騒に乗じて、人攫いが暗躍するらしい、とさえ言われる(だから当夜は「子を持つ親は我が子と自分の首を鎖で結わえろ」と老練の者は言う)のが、《砂の街》の星祭りなのだ。


「お兄ちゃん、今年も一緒に行こうね」

「仕事じゃなければ、な」


 もう、と膨れる睡羽に意地悪な笑みを寄越すと、叶哉はコーヒーカップを手にソファに身を沈めた。

 睡羽はというと、自分で拾ってきたらしいラジオの周波数を合わせようと、叶哉が教えた通りにつまみを左右に動かしている。が、何処に合わせても雑音まじりの音声が流れるだけだ。


「気にするな。ノイズがあった方が味が出るんだよ。……ああ、その局がいい。俺はこの曲が好きなんだ」


 叶哉が言って、睡羽はそのままで手を止めた。聞こえてくるのは、ガサガサした雑音に乱されてはいるが、透き徹るような美しい音をした旋律だった。その音色が気に入った睡羽も、叶哉の隣に座ると、静かに瞼を下ろしその音楽に身体を委ねた。


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