《蝶》2
今夜は昨夜ほどの賑わいはなく、午前零時を過ぎた《蝶》は既に落ち着いた風情を取り戻していた。時折酔った客の哄笑が上がる以外は至って静かなものだ。
だが、
「休憩いいわよ。何か飲む?」
小蝶に声をかけられて、はっと我に返ったように柊真は手を止めた。店内を見渡すと、閑散、とまでは行かないが、顔の知れた馴染み客が数名黙って飲んでいるだけだ。
「……じゃあ、ギムレットを」
「あら珍しい。いいわ、待ってて」
幼子を見るような微かな笑みを漏らして、小蝶はカウンターの奥へと消えていった。
しばらくすると、
柊真が久々の酒気におずおずとグラスを傾けたその時、低い声で叶哉が呟いた。
「あんたにも、そういう時があるんだな」
「え?」
思わずきょとんとして、柊真は叶哉を見つめる。そんな呆気に取られたままの柊真に、
「《雨の街》の連中はさ」
みんな金持ちで高慢ちきで悩みのひとつもない奴ばっかだと思ってた、と叶哉が
「確かに僕は《雨の街》に住んでるけど……金も持ってないし高慢ちきなつもりも無いよ。それに悩みゼロって訳でも、無い、かな」
何故かしどろもどろで柊真が答えると、叶哉はふうん、と言ったきり瞼を伏せた。柊真はギムレットを飲み干した。普段飲み慣れない分、いきなりのギムレットは喉が
「–––『神は
リクエストされたのだ、と気付くのにたっぷり10秒はかかってしまった。向こうの席で注文の声が上がったのを機に立ち去ろうとする叶哉の背中に、柊真は確認する。
「え、バッハのカンタータ、の?」
「あんたにはそういう曲のが似合う。透明な、晴れてるのに雨が降ってくるみたいな曲」
叶哉の言葉に、柊真の脳裏で自分が初めて聴いたレコードの旋律が甦った。沁みるように美しい、バッハのミサ曲集。ピアノを弾いてみたい、と思ったはじまりは其処に在ったのだ。
柊真は眼下の鍵盤を見やりながら、指先が震える程、ピアノに対する懐かしさと愛おしさを思い出していた。
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