《雨の街》2


 雨音が気になって眠れない、などと言っていては、この《雨の街》では暮らしていけない事など百も承知だ。が、それでも今日の柊真トウマは、途切れる事なく屋根を窓を打ち続ける雨に耳が吸い寄せられて仕様がない。

 気分転換にと火を点けた煙草は味気無く、指馴らしにと弾いたピアノは思うように歌ってはくれず、結局柊真は窓際でぼんやりと雨雲を眺めている。



 美しく赤い小蝶コチョウの唇を思い出す。


「–––妹よ。睡羽スイハ叶哉カナヤの」


 紫煙と共に吐き出された言葉を、柊真は何処か上の空で聞いていた。小蝶の次の科白せりふを耳にするまでは。


「血は繋がってないんだけどね」


 ひっそりと呟いた小蝶は、まだ長いままの煙草を灰皿で捻り消して立ち上がった。柊真も後を追うようにして席を立つ。


「え、じゃあ……」


 何で一緒に暮らしてるんですか? と言いかけて柊真は口を噤んだ。きっと叶哉とその妹の間には、柊真が聞いたところで詮ない事が理由として横たわっているのだろう。

 小蝶もそれ以上は何も言わず(というか、さっきの一言がただの独白だったかのように)戸締まりするからあんたも出て、と促されて柊真は慌ててジャケットを羽織った。小蝶が押し開けた《蝶》の扉の向こうは、目映いほど明るい陽射しに包まれていた。


「よし、さっさと買い出し行って帰って寝よっと。あ、柊真ごめん、今夜もお願い出来るかな? 予定あったら無理強いはしないけど」

「大丈夫ですよ。じゃあ、また今夜」


 即答出来てしまった自分が悲しい。確かに今の柊真は《蝶》での仕事しかしていないのだから、暇だけは腐る程あるのだが。



 柊真が窓の向こうの雨滴から視線を逸らした時、静寂を裂くように電話が鳴り響いた。柊真は聞こえない振りを続けようとしたが、柊真の逡巡を乱すようにベルは鳴り続ける。出たくないのは、此処に電話をかけてくる相手がすぐさま思い当たるからだ。今は不愉快なだけの電子音を止めたくて、柊真は溜息を零して受話器を持ち上げた。


『……柊真か』


 解りきった事を問うな、と、心の中でだけ囁く。相手は相手で、苦々しい声で続きの台詞を切り出した。


『まだ戻るつもりは無いのか』

「ありませんよ」

『そうは言うがな、柊真。この先だってピアノじゃ満足に食っていけないだろう?お前ぐらいの腕の人間なら幾らだって居るんだ。……いい加減、目を醒ましたらどうだ』

「そうですねぇ」

『何を暢気な事を、』


 柊真は静かに受話器を下ろした。しばらく、絹を滑らせるような雨音に部屋じゅうが満たされるのを待ってから、いつもの癖で深呼吸ひとつして、ピアノに指を滑らせた。


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