《蝶》1


 週末だからなのか何なのか、今夜はいつもより客が多い。この店は《砂の街》と《雨の街》の境界にあり、どちらの街からも関係なく客がやって来る。

 ふたつの街が抗争を繰り返していた時代を知る者、知らぬ者。相手の街を未だ憎む者、密かに好む者、関心の無い者。胸の奥に抱えた想いなど誰ひとり零さぬまま、ただ夜が過ぎるのを待ちわびるように客は語り合う。話の内容など有って無いようなもの。店主の小蝶コチョウがそうであるように、立ち寄る客達もまた、気儘で掴みどころが無いように柊真トウマは感じていた。それがこの店の一番愛すべき点であり、柊真の気に入っている点でもあるのだが。

 そんな話し声がさざ波のように止まない狭い店内で柊真がドビュッシーを弾き終えたところで、客のひとりがリクエストを寄越した。ちょうど飲み物を運んできた叶哉カナヤからグラスを受けとった男は、武骨そうな外見とは裏腹に一言「ショパンなら何でも」と呟き、柊真の胸ポケットにチップの紙幣を捻り込んだ。男にも柊真にもショパンにも興味なさげに立ち去った叶哉の背中を見やると、柊真は一呼吸置いて指先を鍵盤で弾むように動かし始めた。



 夜明けが近付くと共に客はひとり減りふたり減り、最後の客が小蝶と軽口を交わして出て行った後。


「今夜は客入りが良かったわね。叶哉目当ての女の子は集まっちゃうわ、柊真のピアノで酒が止まらないオッサンは居座るわ」


 電卓を叩いて勘定しながら小蝶が笑う。いや、どれだけあなた目当ての男達が毎晩足繁く通ってるか解ってます? と心の中でだけ呟いて、柊真は煙草に火を点けた。細く青い煙が、疲れた脳味噌を心地よく燻してゆく。


「あ、そうだ。叶哉、これお土産。こないだのお客さんがまたくれたのよ」


 黙々とグラスを磨いていた叶哉に、小蝶がパラフィン紙でくるまれた包みを手渡した。


睡羽スイハ、待ってるんでしょ。グラスはあたしが……、いや、柊真が片付けるから、あんたはコレ持ってさっさと帰んなさい」


 え、と一瞬煙草を取り落としそうになった柊真は、弾かれたように視線を上げた叶哉と目が合った。真摯な眼差し。きっと本当に家に誰かを待たせているのだろう。その『スイハ』が誰かは小蝶に尋ねる事にして、と、柊真は叶哉に向かって頷いてみせた。


「恩に着る」


 小蝶と柊真を交互に見つめてただ一言呟くと、叶哉はすばやくスタッフルームへと店内を横切っていった。



 ざあ、と水音を響かせて、柊真は慣れない手付きでグラスや皿を洗う。勘定を終えた小蝶は手伝う素振りも見せずに煙草をくゆらせながら、「ああもう危なっかしい」だの「柊真あんた、ピアノばっかり弾いてないで普段から家事のひとつもやってみなさいよ」だの茶々を入れた。


「……スイハ、っていうのは彼の恋人?」


 小蝶の合格サインが出るまで半ば自棄やけになりながら拭き上げたグラスを棚に仕舞いつつ、柊真はさりげなさを装って尋ねてみた。


「–––柊真、もしや叶哉に気があるの?」

「……な訳ないでしょう、僕は男で彼も男ですよ。ありえません」

「別に関係ないじゃん」

「僕には大いに関係ありますって」


 はぐらかす気だな、と小蝶をちらりと見ると、小蝶はニコリともせず端麗な眉をひそめて煙草の煙を吐き出した。


「妹よ。睡羽は叶哉の」


 そう言った小蝶の横顔がまるで彫刻のように恐ろしく整っていて、柊真は返事を忘れてしばらく見つめていた。


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