《雨の街》1
苔むした緑の庭にふと目をやると、
外は今日も雨らしい。柔らかに煙る庭の木々は、降りしきる雨に倦んだように項垂れ滴を地に落としてゆく。この街では、一度降りだした雨は緩慢にいつまでも続き、上がったとしても雲が垂れ込めたまま晴れる事はない。太陽の恵みが稀にしか得られないのがこの《雨の街》なのだ。
耳を傾ければ眠くなるような遠い遠い昔の話、この一帯で起こった紛争が終結して以降、元より小さかったこの国はふたつの自治区に分かれてしまったのだという。ひとつは、未だ紛争後の復興が進まず砂塵と瓦礫に埋もれる《砂の街》、そしてもうひとつは柊真の住むこの《雨の街》だ。互いの街には表立ったいさかいがない代わりに親しい交流もない。ただ、目には見えない溝が深く静かに横たわっている。
「……時間だ」
時計を一瞥すると、灰皿に煙草を押し付けて柊真は立ち上がった。美しい漆黒のピアノの蓋を丁寧に下ろす。艶やかな黒に自分の憂鬱そうな表情が写って、柊真はふいっと目を逸らした。
《蝶》とだけ書かれた錆び付いた看板が風に揺られて軋んでいる。柊真が専属ピアニストとして働くバーだ。傘を閉じて分厚い扉を開けた柊真を、この店のオーナーである
「ああ柊真、お疲れ様」
「お疲れ様です」
「もう、相変わらずボケッとしてるわね柊真は。今日は一段と顔色悪いじゃない。どうした、気分でも悪い?」
笑って言いながら、「気付けに飲む?」と自分の飲みかけのブランデーを差し出してくる辺りが小蝶らしい。柊真は丁重にお断りすると、普段どおりスタッフルームへと向かった。
更衣室なのか物置なのかわからない雑然とした部屋に入ると、バーテンとして働く叶哉が着替えているところだった。この《蝶》を切り盛りしているのは、オーナーである小蝶自身とこの叶哉のふたりで、柊真はというと小蝶の呼び出しに応じて臨時に出勤するだけである。だから彼とは殊更親しんだ事も話をした事もない。そもそも叶哉には、年が幾つだとか何処に住んでいるのかとか、そういう生活感溢れる質問を受け付けない雰囲気が漂っていて、ずっと柊真は話しかける事が出来ずにいるのだ。
実際今とて、黙々と着替えを済ませた叶哉は、柊真をちらりと見ただけで部屋を出ていってしまった。
だから淋しい、という訳でもないのだが、と、柊真はガラクタの嵩張る部屋で煙草に火を点けた。
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