はじめての②


「うわああああああっっ!」


 へたり込んでいた上級生達が悲鳴を上げ、我先にと岩場から逃げていく。

 あ然と炎の行方と砕けた空を見上げていたリトは、繋いでいた小さな手から力が抜けるのを感じハッと視線を落とした。

 するりと華奢な指が離れそうになり、慌てて掴み直す。

 糸が切れたように気絶したエリルがくずおれ、リトは素早くその背を受け止めた。

 無人となった静かな岩場に一人立ち、意識を失った少女をまじまじと見つめる。

 腕の中にすっぽり納まりそうなほど小柄な身体と、柔らかそうな金色の髪。

 印象的な青空色の目は閉じられているが、リトの側にいるのはまぎれもなく上級生のエリル・レヴィスだ。


「……な、なんで……!?」


 いるはずのない少女と今しがた起こった出来事が信じられず、リトは呆然とつぶやいた。



 リト・クローウェルがこのパンディア国立連術士学園に入学してきたとき、在学生は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

 精霊王の祝福を受けた属性は〝火〟。

 だが、彼は地水風においても破格の力を持ち、学園始まって以来の天才と絶賛された。

 それだけでも話題性があるのに、大陸五大国の中でも特に大きなオルティス王国の貴族の生まれ、さらに端整な容姿を持っていれば騒がれないはずがない。

 

 しかし学園の熱狂をよそに、彼はあまり同級生の皆と打ち解けず、入学当時から特定の友人とだけ行動を共にしていた。

 話しかけてもろくに返事をせず、いつも機嫌が悪そうな、つまらなそうな顔をしている。入学当初は一生懸命まとわりついていた取り巻きも、四カ月ほど経った今ではあきらめて距離を置いていた。そしてついた綽名が〝氷の王子様〟だ。

 彼を初めて見たとき、エリルの親友はその綽名を鼻で笑った。


「祝福は火なのに氷の王子様? 見たまんまなら氷像でいいんじゃないの?」


〝像〟という言葉に、遠くから眺めたエリルも確かにとうなずいたものだ。

 十六歳と思えない均整の取れた肢体は、美しい神や英雄の彫刻を思わせた。

 漆黒のさらさらとした髪に、深い海をそのまま凍らせたかのような紺碧の瞳。美形と呼ぶにはどこか野性味があり、幼さの残る顔なのに妙に大人びた雰囲気を持つ少年だった。

 上級生がわざわざ一年生の学棟まで見に来るほどだったが、当の本人はむっつりと押し黙り、周囲の騒ぎにも一言も発しない。

 そんなところも〝像〟のようで、エリルの同級生は面白がり、皆して声をかけてきたものだ。


「学園長も初めて見るほどの天才だってさ。エリル、お前とも連禱できるかもしれないぞ」

「久しぶりに『連禱練習お願いします!』の突撃してみたら? あなた三年になってからおとなしかったもの」


 からかっているのか本気で心配してくれているのかは分からないが、同級生達の勧めにエリルは曖昧に笑った。

「そうね。機会があれば」

 そう答えたものの、お願いする気はあまりなかった。

 天才少年にとっては迷惑だろうし、そもそも相手にされないだろう。


 それに、怖かった。


 学園始まって以来の天才と言われた彼と連禱できなければ、自分は本当に連術士になれない。その事実を突きつけられるのが怖かったのだ。

 全世界の精霊術士が集まるこのパンディアで、誰とも合わせられない。それだけでも怖くて怖くて、毎日心の中で「なぜ、どうして」と自問しながら過ごしていたというのに。


 ――――きっと、自分は連術士になれないのだろう。


 そう思っていた。

(そう思っていたのに……!)

 覚醒していく意識の中で、エリルはふわふわと宙を浮くような心地だった。


(やっぱり本物の天才なんだわ。だって誰とも連禱できない私としてくれたんだもの――!)


 自分も誰かと繋がることができる。

 誰とも連禱できないわけじゃない。力を合わせられる人が存在していた。

 もちろん、たった一人とできたぐらいでは連術士の資格はもらえない。そんなことは知っているし、よく分かっている。

 でも、十分だった。

 それに、リト・クローウェルは冷たい子なんかじゃなかった。

 落ちこぼれのエリルを邪魔者扱いせず、連禱を呼びかけてくれたのだから。

 間近で見た彼は氷像なんかじゃない。人間味に溢れ、絶対にエリルに怪我をさせてなるものかという気迫に満ちていた。


(噂と全然違う。すごく、優しそうな子だった……)


 もう連禱ができないという息苦しさに耐えなくてもいい。私にもできたと胸を張って言える。

 そう、もう苦しくはない。


(もう、苦しくは……………………)


 ない――……………………


 はずなのに、なんだか妙に息苦しい。

 まるで何かに口を塞がれているようで息ができない。

 不自由な呼吸に優しい夢の世界が薄れていき、どんどん意識がはっきりしていく。


「ん……」


 あまりの苦しさにもがき、伸ばした手が何かに触れた。

 がっしりとしたそれを掴み、エリルは思いっきり固定されていた全身で叫んだ。


(苦しい――――――!)


 唐突に目が覚め、瞬きで意識を戻したエリルはぴたりと動きを止めた。

 額が触れ合うかと思うほどの至近距離に、人の顔がある。

 唇に熱い息がかかり、目を瞬けばエリルの上に覆いかぶさっていた人物も目を瞬いた。

 数秒青い海のような瞳と見つめ合い、距離と唇の感触から、ああこれはキスをされていたんじゃ――――


「ぎゃあああああああああああああああああっっ!」


 と認識した瞬間、エリルは絶叫していた。

 響き渡る悲鳴に、相手が我に返ったように身を起こし距離を空ける。


「あ……」


 零れ落ちそうなほど大きく、綺麗な紺碧の瞳を見開いたその顔は。

(リト・クローウェル!?)

 驚いたのはリトも同じらしく、呆然としている。だがすぐにハッとし、勢いよく身を乗り出してきた。


「せ、先輩……!」


 のしかかられそうになり、エリルは「ぎゃっ!」と悲鳴を上げて身を躱していた。

 転がるようにベッドから飛び下り、混乱したまま一目散にドアに向かって走りだす。


「先輩、待ってくださいッ!」


 背中に切羽詰まった声が聞こえたが、足は止まらない。

 状況を冷静に見るとか相手を問いただすとか、そんな発想は全く浮かばなかった。

〝とりあえず逃げろ!〟という脳の指令そのままに脱兎のごとく駆けだす。


(なんなのよ、これは――――――――――っっ!!)


 夢の中で感じていた喜びと幸福感が遥か彼方に吹っ飛び、エリルは後ろを見ることもなく走り続けた。



 聖山の麓に建つ五つの学舎のうち、最も東に位置する女子寮。

 一度も足を止めることなくそこまで駆け戻り、エリルは叩き壊すように自室の扉を開いた。


「いま何が起こってるのか全然分からないんだけどッッ!?」


 肩で息をしながら絶叫すれば、机に向かっていた長い髪の少女が振り返る。

 まっすぐに背中まで落ちた、艶のある漆黒の髪。その黒さに透き通るほど白い肌と細い輪郭がよく映える。

 眉の下あたりで揃えられた前髪と、切れ長の黒い瞳が生真面目な印象の少女は、可憐な唇からうんざりした声をもらした。


「あたしの方が分かんないわよ。遅かったじゃない、何してたのよエリル」


 上品な容姿に似合わず砕けた口調の美少女は、学生寮でエリルと同室の親友ターニア・イムセントだ。

 全力疾走のせいで乱れた息を必死で吞み込み、エリルはぐるぐる回る頭を抱えた。


「ちょ、ちょっと待って、何してたか自分で考えるから……!」

「は? 何言ってんのあんた、おかしいわよ?」


 怪訝そうなターニアに答える余裕はなく、エリルは今さっき起こったことを反芻してみる。


(そ、そうよ、おかしいわ私! ちょっと、落ち着いて考えて!)


 いつものように立ち入り禁止区域で憂さ晴らしをしていると、一年の天才少年リト・クローウェルが上級生に因縁をつけられていた。

 なので、仲裁に入ったら彼と連禱することになった。

 そしたら、できた。

 できたけど気を失ってしまって、目が覚めたらベッドの上でリト・クローウェルにキスされていた…………


「って嘘よ――――――――――っっ!」


 冷静に考えれば考えるほどありえない。


(連禱のところからしてないわ! しかもリト・クローウェルとキスって!!)


 天才で大国の名家のお坊ちゃまが、わざわざエリルに手を出すとは思えない。女なら誰でもいいという野獣ならともかく、彼はそうではないだろう。

 落ち着いて思い返すほどに現実味がなくなり、エリルはへなへなと床に座り込んだ。


「どうしよう、ターニア! 連禱あたりから私の白昼夢だったのかもしれない……!」

「連禱? どういうことよ?」


 眉をひそめたターニアだが、不審そうにエリルの全身をじろじろと眺めた。


「白昼夢とかよく分かんないけど、あんた靴は? リボンどこやったの? ブラウスのボタン外れてるけど?」


「え!?」

 

 ぎょっとして足元を見下ろせば、確かに白い靴下のままだ。襟元に結んでいた深紅のリボンがなくなり、白いブラウスの第二ボタンまで外されている。よくよく確かめれば上着もない。

 今更ながらに靴もなく激走した足裏が痛みだし、エリルは愕然とした。


(夢じゃない……!?)


 疑いをかけるのは失礼だが、脱がせた相手は例の一年生では……と思うと全身の肌が一気に粟立つ。


「う、嘘よ、誰か夢だったって言って!」


「とりあえず今は夢じゃないわ。あんたの靴と上着とリボンがないこともね。いい

から落ち着いて、とにかく話を聞かせなさいよ」

 

 様子が尋常ではないと気づいたのか、珍しく優しい声をかけてくれるターニアに励まされ、エリルはこくりと唾を吞み込んだ。


「う、うん、あの、私、一年の天才少年リト・クローウェル君と……」

 途端にノックの音が響き、力を抜きかけていたエリルは悲鳴を上げて背筋を伸ばした。

 開いた扉から顔を覗かせたのは、三年生女子の寮長だ。


「エリル。ベネット副学長がお呼びよ」

「ひっ!」


 学年主任でも指導部の教員でもない。

(ふ、副学長――!?)

 エリルを呼び出したのは、普通の在学生なら直接話をするようなこともない人物だった。


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