はじめての③



「失礼します……」


 おずおずと大きな木製の扉を開き、重厚な内装の学長室へと入る。

 とたんにリト・クローウェルの姿が目に入り回れ右をしたくなったが、そんなことは許されない。逃げようとしたエリルを、声、というには少し不自然な音が止めた。


『レヴィスさん、帰っちゃダメだよ。こっちにおいで』


 二つの音が同時に響くようなその声に、エリルは安堵のあまりぱっと顔を輝かせた。

 エリルを呼んだのは、癖のある短い銀色の髪と水色の瞳を持つ穏やかな面差しの青年だ。白を基調とした清潔感のある上下に、肩からは地の祝福を示す薄い緑のケープを羽織っている。


「ハイヤーン先生! 先生が来てくれたんですね」

『まあ、レヴィスさんのことだからね。やっぱり僕が来ないと』


 ふふん、と若干得意げに胸を張るのは三年生の語学教師グレイ・ハイヤーンだ。

 ハイヤーンは入学当時から連禱のできないエリルを気にかけてくれ、学年の皆が実戦演習に出ている間はいつも二人きりで居残っている。そのため、エリル個人の担当のように見なされている教師だった。

 学生に間違われるほど若いハイヤーンは、水色の瞳を細めてエリルを招き入れる。


『今日は学園長がいないからね。副学長からお話があるよ』


 彼の声が不思議な響きを持つのは、声帯を傷つけ声を失くしているためである。他の術士に風の術をかけてもらい、吐息のような音を増幅し声に変えているのだ。

 日常の会話に不自由はないが、精霊への呼びかけに自身の声は必須であり、他者の術を通した声では精霊は応えてくれない。ハイヤーンはもう、術を使うことができない精霊術士だった。

 信頼する教師の姿にほっとして扉を閉じたとたん、奥から苛立った声が聞こえた。


「ぐずぐずせずにさっさと並ばんか。これだから連禱もできない落ちこぼれは」


 見れば、椅子に座る副学長の隣に、白髪交じりの黒髪を撫でつけた痩身の教師が立っている。


(うわぁ、フィロ先生も呼ばれてるんだ……)


 年齢は六十歳ほど。専攻科主任のセルマン・フィロには本日の朝、三年生の特別授業にお越しいただき大いに笑われたばかりである。問題を起こしたのが専攻科生であるため呼ばれたのだろう、あきらかに不機嫌そうな顔だ。

 口答えしても面倒なことにしかならないので素直に頭を下げようとしたとき、リトの隣に立つ若い男性教師がそれを遮った。


「フィロ先生。レヴィスは気を失って倒れていたのです。そのような言い方はするべきではないでしょう」


 口調は穏やかだが、声は低い。

 非難を滲ませエリルを庇ったのは、一年生の実技指導長官を務めるアラン・ロッシだった。


 二十六歳と若いながらも学園随一の実力を誇るロッシに諫められ、フィロは怯んだように黙る。そんな彼を一瞥し、エリルの目礼を受け止めたロッシも静かに口を閉ざした。

 ようやくエリルとリト、そしてそれぞれの担当教員が揃ったのを見て、副学長はおもむろに居住まいを正した。


「待っていたわよ、レヴィスさん」

「すみませんでした!」


 副学長の声の重さに、エリルは反射的に謝罪してしまった。呼び出しの具体的な理由は不明だが、絶対に愉快な内容ではない。

 磨かれた木目調の大きな机に向かうのは、まだ三十代半ばの美女、今年教員から副学長に昇進したばかりのメリン・ベネットだ。栗色の長い髪はきっちりと一つにまとめられ、前髪も横に流されているので当惑の表情がやたらとハッキリ見えてしまった。


「レヴィスさん、残念だけど謝ってすむことじゃないのよ……。とりあえずあなたの上着とリボンと靴。医務室に置いてあったのに忘れて帰ったでしょう」

「あ、ありがとうございます……」


 結局誰に脱がされたのかは不明で、エリルはこわごわと服と靴を受け取った。靴はすでに違うものを履いてきていたので、手早くリボンを結んで上着を着る。

 エリルの身なりが整うと、副学長はとりあえずというように少し表情を和らげた。


「レヴィスさん。クローウェル君から聞いたけど、あなた彼と連禱れんとうしたそうね」

「え!?」


 エリルは動転して目を剥く。

 すぐさまハイヤーンがぱちぱちと嬉しそうに手を叩いた。


『やったね、レヴィスさん! おめでとう!』


 フィロは鼻白むように目を眇めただけだが、過去にエリルの連禱練習に付き合ってくれたロッシも無言で拍手してくれる。

 ロッシはぼさぼさとした赤錆色の髪に目つきが鋭く、一見怖い雰囲気だが実はとても誠実で優しい。連禱できないエリルにため息をついたり嘲笑ったりせず、根気よく相手をしてくれた。

 その人が、拍手をしてくれている。


(ほ、本当に――!?)


 白昼夢だったのでは……と疑っていたのに、突然の現実宣言だ。目を合わせるのを避けていたが、食い入るようにリトを見上げてしまった。


(本当に本当に本当に本当!?)


 自分と連禱できる人が現れたら飛び上がるほど嬉しいだろうと思っていたのに、いざ目の前に現れると全く身体が動かない。本当に夢じゃなかったのか、と何度も聞きたいのに、身体どころか口すら動かせなかった。


 リトは平然と前を見据え、エリルに視線を落とすことすらしない。これまで誰とも連禱できなかったエリルとしたのに、驚きも不思議がる様子も一切なしだ。

 まるで、相手が学園一有名な落ちこぼれだろうがなんだろうが、自分とは連禱できると信じ切っていたように見える。


(た、確かに連禱を呼びかけてくれたときは自信満々に見えたけど……!)


 とんでもない自信だが、実際にやってのけたのだからすごいと言うしかない。

 固まったまま一言も発しないエリルを気遣い、副学長は柔らかな笑顔を向けた。


「本当によかったわね。あなたのことは私達教師全員が気にかけていたし、クローウェル君と連禱できたならとても素晴らしいことだわ」


「あ、あり、がとう……ございます。ちょっと、今も信じられないんですけど……」


 しどろもどろで礼を述べれば、副学長はそれもそうだろうと大きくうなずく。


「だからあなたとクローウェル君の連禱自体はいいのよ。ただ、その結果がね……」

「あの……、何があったんですか? 私、すぐに気を失ってしまって」


 単純に学園内で人に対して連禱術を使った、ではすまされない雰囲気だ。上級生が怪我をしないよう直撃は避けたはずだが、掠ったのかもしれない。

 おそるおそる切り出したエリルに、副学長は長い沈黙のあとに口を開いた。


「結界が破れたのよ」


「結界が……」


 なんの? ……と聞きたいが聞くのを憚られる。

 いまいちよく分かっていないエリルに気づいたのか、ロッシが言葉を添えてくれた。


「このパンディアの結界だ。三百年前、魔物の侵入を防ぐために今の精霊王様が張られた」

「三百年前に張られた、パンディアの結界…………?」


 精霊術士達の総本山、聖地パンディア。

 その王は三百年前に、大陸最高峰である霊山パンディアに入り、かの頂――〈蒼穹〉の神殿で眠りについている。

 実際に国を動かすのは〝長老〟と呼ばれる、この連術士学園の学長を含めた四人の国務大臣、そして行政機関〈精霊庁〉の官人達だ。

 領地は聖山の周囲一帯だけという極小国家だが、パンディアはその小ささを補って余りある権威を有している。


 ロッシは低い声で説明を続けた。

「この大陸に生息する魔物達は、剣で心臓を突き刺そうが頭蓋を砕こうが蘇生する。息の根を止めることができるのは精霊術、中でも連禱のみだ」


 大陸のいたるところに現れる魔物の多くは獣の姿を持ち、好んで人肉を喰らう。

個体によって多少の違いはあるが知性はないに等しく、餓えれば山地の村や平原を通る人間を襲い、餌がなければ市街地に入り込むこともあった。


「言うまでもなく連禱は我々精霊術士のみの業であり、聖地パンディアは大陸全ての精霊術士を管理している」


 精霊術士でも連禱ができないエリルにはぐさっとくる話だが、これは一般常識である。

 この大陸で生活する者にとって精霊術士と連術士は同義語なのだ。単純に学園を卒業して資格をもらったか、まだ学生であるかの違いだけで。

 微妙に沈んだエリルに、ハイヤーンが急いで言葉を引きついだ。


『レヴィスさんも、精霊術士として目覚めるのは十二歳から十八歳ぐらいまでだって知ってるよね? たまに二十歳過ぎに覚醒する人もいるけど、まあだいたいは子供だね。力に目覚めたなら、それこそ王子様だろうがお嬢様だろうが、平民だろうが孤児だろうが、翌年の春にはこの学園に入らないといけない』


 例外は認められない。これは強制であり、大陸にあるパンディアを除いた四カ国共通の絶対の掟だった。


『力を持つ者の隠匿や逃亡はどんな理由があろうとも許されないし、もし意図的にこの禁を犯した国は聖地パンディアから見捨てられる。――要するに、連術士が派遣されなくなるってことだ』


 魔物に対抗できるのが精霊術だけなのだから、精霊術士に守られない国は滅びるしかない。

 大陸中の精霊術士がパンディアに集められ、なおかつ各国がこれを認める理由は二つ。

 

 一つは、精霊術士に力を分け与える精霊王がこの国に眠っているため。

 各国で精霊術士として目覚めた子供達は、パンディアに来ることでその才を開花させる。

 祝福を受けた属性が何であるかが分かるのも主に入学後であり、精霊王に近づくことによって触発されるのではないかと言われていた。

 

 そしてもう一つの理由が、パンディアが一切の世俗権力と武力を放棄した永世中立国であるためだった。

 これには、大陸全土を巻き込んで起こった過去の大戦が関係している。


 古来より精霊術を巡る戦は絶えず、パンディアは常に争乱の種だった。


 特定の国に侵略され奪われるたび、魔物の脅威に曝された各国が戦いを挑む。こんな歴史を飽きるほど繰り返し、人々はようやく中立国であるパンディアに精霊術を管理させ、互いに公正な立場を保つことが平和の礎になると気づいたのだ。


『だから、パンディアには大陸の人々の生命を担う連術士の卵が集まっている。そんな大切な彼らを守るため、精霊王様は代替わりごとに聖山の周りに強固な結界を張って眠りにつくんだ』


 聖山を囲んで張られた六角柱の結界はあらゆる魔物の侵入を拒み、現在の精霊王が眠りについた三百年間聖地パンディアを護ってきた。


「それを、私とクローウェル君の連禱が…………」


 教師陣に厳かにうなずかれ、エリルの全身からさあーっと音を立てて血の気が引いていく。


「破ったですってえええぇぇぇ――――――――――っっ!?」


 気づけばとんでもない悲鳴が喉から飛び出していた。

 絶叫するなり絶句したエリルに、副学長は落ちた肩をさらに下げる。


「そう。今のパンディアは穴あき状態よ……」


 魔物が入り放題だ。

 当然、精霊庁が修復に当たっているだろうが、張った人間が特別なのだから簡単に戻せる代物ではない。


「クローウェル君の力は本っ当に素晴らしいと思うのだけどね……」


 パンディアの国籍所有者となり、世界に散らばる学園の卒業生は約二千人。五大国、幾百という都や町、村を守る精霊術士がたったの二千人程度しかいないのだ。

 これは目に見えて増え続け、更に〝異種〟と呼ばれる進化した存在まで現れだした魔物に対応するには、かなり心もとない数字である。


 世界は常に、力ある精霊術士を求めている。

 だからこそ、リト・クローウェルのような不世出の精霊術士は、何をおいても守られなければいけないのだ。

 凄いんだけど対処に困る、と沈んだ副学長にリトはやや困惑したように頭を下げた。


「本当にすみませんでした。俺、結界得意じゃないからたぶん直せないし……」


 精霊王の張った結界など、結界術が得意なエリルもお呼びではないだろう。

 他人事ではないのだが、心の中で副学長の苦悩に同情してしまった。


(確かにものすごい力だわ……)

 聖都を三百年守ってきた結界をぶち破るなど。

(これって、クローウェル君の力が精霊王様を超えてる……ってことになるのかしら)

 そんなに単純な構図ではないかもしれないが、可能性は十分だ。


「とにかく、結界を破った罰については学園長が戻り次第、精霊庁と話し合って決めます。なので、レヴィスさんとクローウェル君にはまず校則違反の罰を。校内で私的に術を使って喧嘩するなど本来なら停学相当ですが」


「副学長!」


 突然、リトが険しい表情で遮った。


「エリル……レヴィス先輩は俺の喧嘩に巻き込まれただけなんです! 罰なら俺だけにしてください!」


 庇ってくれるのは嬉しいが、しっかり姓名まで言ってくれた後輩にエリルはどっと疲れが出た。


(へこむわ……)


 自分の存在が一年生の間にも浸透していることは知っていたが、目の当たりにした気分である。在校生には連禱練習の突撃をかましたものの、新入生に迷惑はかけていないつもりだったのだが。

 身を乗り出したリトを制し、副学長は重々しくうなずいた。


「その点は考慮します。でも、お咎めなしにはできないのよ。事件を起こした上級生は捜させていますから、あなた方は罰として放課後に二週間の資料室掃除を」


(二週間資料室掃除ですって!?)


「待ってください!」


 エリルは間髪容れず叫んでいた。

 副学長の眉が上がったのを見て、叱られるより先にエリルは素早く口を開く。


「あの、私一人でやります!」


 リト・クローウェルと連禱できたのはとっても嬉しい。

 エリルを守ろうとしてくれたし、悪い人ではないというのも分かる。



(でも二人きりはちょっと待って!)



 とりあえず、寝ている女に勝手にキスをしてくる男とは一緒にいたくない。

放課後の誰もいない資料室などもっての外。まずは人のいる、明るいところで話し合うべきだろう。

 しかしそんな理由を述べられるはずもなく、エリルは必死で言い訳を捻り出した。


「その、だから、クローウェル君は悪くないんです! 私が割って入ったから仕方なく術を使うことになって」


「……先輩……!」


 リトが驚いたように紺碧の目を見開く。

 こぼれた声には喜びと尊敬の響きがあり、リトの頬が紅潮していくのに気づいたエリルは顔を引きつらせた。


(誤解されてる!?)


 庇っているわけではないのだから、そんな感動の面持ちはしないでほしい。


「ち、違うの、私は別にクローウェル君のために言っているわけじゃなくて」

「いいえ! 俺も資料室掃除やります! 絶対絶対絶対やります!!」


(ひいいいいいいいっ!)


 異様なほどの熱意と気迫が逆に怖い。罰を申し渡されているのにやたらと嬉しそうで、エリルは戦慄を禁じえなかった。


(嘘よね夢よね? 私の服を脱がせたのはこの子じゃないわよね!?)


 誰でもいいからそうだと言って安心させてほしい。


「では明日の放課後から二週間。資料室を任せましたよ」


 しかしエリルの怯えなど理解してもらえるはずもなく、満足そうな副学長の言葉で締めくくられてしまった。

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