第一章 はじめての
はじめての①
一人で泣くのはよくあること。
授業を終えた放課後、午後三時。
いつものように足場の悪い岩場の上まで登り、エリルは青い空を見上げた。
崩れた崖が形成する立ち入り禁止区域の岩場からは、澄んだ空を背景に、剣の切っ先のように尖った白い嶺が見える。
空に突き刺さるように聳えるのは、霊峰パンディア。
どんな人間なら到達できるのか分からない険しい頂は万年雪が積もり、特別な者以外は登頂が禁じられた聖なる山だ。
夏でも冷たい風の吹く麓から頂上を見上げ、エリルは静かに語りかけた。
「精霊王様。今日も来てしまいました」
少し強い風に結った金色の髪が揺れ、晴れた空のような瞳がしっかりと切り立つ頂を捉える。
短いスカートの裾から腿がのぞくのもかまわず、エリルは力強く岩に片足をかけ――――
「笑われたっ!! 今日も笑われました――――ッ!!」
嘘か真か、三百年前から山頂に幽隠しているというパンディア国王――通称〝精霊王〟に向かって絶叫した。
わらわれましたぁぁぁ――ましたぁぁ――――ましたぁぁぁ、たぁぁぁ…………。
内容に反して可愛らしい声は、眼下に広がる森と山肌に反響してこだましながら消えていく。
無人の岩場にモヤモヤをぶちまけすっきりとしたエリルは、一息つくなり盛大にまくし立てた。
「聞いてください、精霊王様! 今日の午前は専攻科主任のフィロ先生が特別授業をしてくださったんです。知ってます? フィロ先生って。オルティス王国で二十年間連術士協会長として仕事して、今年からパンディアに帰ってきたすっごい偉そうな人! 実際偉いのかもしれませんけど、授業が嫌みッたらしいんです! 私が誰とも
朝っぱらから行われた不快な授業を思い出せば、どうしようもない怒りが全身に漲ってくる。
「ターニアがぶち切れして『その程度の連禱、あたしなら一人で相殺できますけど? オルティスの協会長ってたいしたことないんですね』って言ってくれてものすごくスッキリしました! しかもターニアの態度が悪いって散々叱ったあとで、学園長の孫娘だって気づいて青くなってたんですよ!? 学園長の孫だからって慌てるなら最初から言わなきゃいいんじゃないですか――――――ッ!?」
かああぁぁぁああ、かあぁぁぁ――、かぁぁ――――…………
思う存分叫び倒し、肩で息をしたエリルは気持ちを静めるために大きく深呼吸した。
聖山パンディアの麓を取り囲むように、半円形に造られた学園の端も端。
村に繋がる西側と違って、エリルのいる東側は巨大な階段状の岩が連なり、滑落すれば深い森しかないという立ち入り禁止区域だ。
多少叫んだところで人が来るわけでもなし、広い訓練場を挟んでいるので学舎にいる人間にも聞こえない。
こだまが消えれば、荒れた岩場に再び静寂が訪れる。
虚しくなったエリルは力なくつぶやいた。
「……私だって、できるものなら連禱がしたいんです」
したくなくてしないわけじゃない。
ひとしきり叫べば、怒りで紛らわせたはずの涙が滲んできた。
泣かないために叫んでいるのに、ちっとも上手くいかない。
目を瞬かせて涙を追い払うと、エリルは精霊王の眠る白い頂を見上げた。
「精霊王様。どうして私だけ誰とも力を合わせることができないんでしょうか」
みんながエリルを馬鹿にする気持ちも分かる。
地・水・火・風という自然界にある四つの元素の力を借り、人肉を喰らう魔物と戦う
精霊術士として力に目覚めた人間は、不可視の精霊達を讃え呼びかける〈
さらに決められた祝詩を二人で交互に詠唱する――〝
ここ、パンディア国立
しかしエリルはこの学園でただ一人、誰とも連禱ができなかった。
(……ううん、学園だけじゃない。過去にもそんな精霊術士の話は聞いたことがないわ)
加えて、エリルは地水火風どの属性の力も話にならないほど弱い。
精霊術士は基本的に四属性全てを扱えるが、いずれかの属性が抜きんでていることが多く、人はそれを〝精霊王の祝福〟と呼んでいた。
エリルはその祝福すら与えられておらず、炎の術は指先に小さな火が灯るだけ。水の術は「雨でも降ってきたかな?」という程度の水滴を散らし、風は誰かの服の裾を揺らすことがせいぜい。地にいたってはミミズが出るような穴を開けるぐらいだ。
精霊術は術を掛け合わせる連禱で倍の効果を生み出すものなのに、エリルと組んだ術士は例外なく力を弱めた。
弱まるどころか術を全く出せなくなった相手すらいた。
連禱のできない精霊術士などエリル以外に存在しないし、全ての属性の力も弱いならいったい自分に何ができるのか分からない。
「どうして私に精霊術士としての力を与えてくださったんですか? こんなに何もかも弱い……。本当は力を持つはずのない人間だったんでしょうか」
エリルは空を見上げ、静かにささやいた。
「あきらめないといけないのは分かっています。でも――」
なぜ自分だけが異質なのか。ただ、その理由が知りたい。
悲しみを忘れてしまわないように。辛いことがあってもくじけないように。
何があっても連術士になるのだ、と決意してこのパンディアへ来たのに――――。
そっと目を伏せた、そのとき。
「ここなら誰も来ないだろう」
「!?」
だしぬけに男の声が聞こえ、エリルはその場で飛び上がってしまった。
慌てて周囲を見渡すが、荒涼とした岩場に人の姿はない。
(なに!? 空耳!? ここは立ち入り禁止区域よ!?)
自分のことは棚に上げ、エリルは声の主を探す。
先ほどの叫びも聞かれていたのでは、と思うと恥ずかしさのあまり顔から火が出そうだ。
(いったい誰が――)
「悪いな、お前をへこませるのに人目についたら厄介だからな」
またしてもニヤニヤと嘲笑うような声が聞こえ、エリルは岩陰から足元に目線を移した。
エリルが立っているのは聖山の東壁に繋がる岩場の最上部だ。
慎重に身を乗り出して見下ろしてみれば、すぐ下の比較的平らで広い場所に三人の男子生徒が集まっていた。いや、二人と一人が距離を置いて対峙していると言うべきか。
いったい何をしているのだと目を凝らし、エリルは眉を寄せた。
(制服が違う……。上級生だわ)
二人は三年生のエリルが着る黒とは違って、白を基調とした上着を着ている。つまり三年間の基礎科を卒業し、専攻科に進んだ四年生か五年生ということだ。
さらに二人と向き合う少年の横顔を眺め、エリルはあっと口許を押さえた。
(あの子、一年生の……)
襟足にかかるほどの黒い髪とはっきりとした紺碧の瞳。背が高く大人びたたたずまいだが、十六歳でエリルの二歳年下だ。
現在、パンディアで一番注目されていると言っても過言ではない一年生。
地水火風、全ての属性の術を桁外れの力で操り、学園始まって以来の天才といわれるリト・クローウェルだった。
リトは面倒そうに青い目を伏せ、投げやりな口調で返事をする。
「なんですか、話って。理由もなく痛めつけられるなら抵抗ぐらいしますよ」
「まあそうだろうな。お前がやり返すって分かってるから、俺達はこうして二人で来たんだよ――」
茶色い髪と赤髪の上級生二人は小さく目配せを交わし、リトに向かって息を吸い込んだ。
「―――
「
一人の祝詩詠唱に続き、もう一人の上級生が応えるように叫ぶ。
前触れもなく始まった二人の詠唱が何であるかに気づき、エリルは驚愕に身を強張らせた。
(まさか、連禱!?)
連禱祝詩は概ね四行から八行の詩の形を取り、上級生達が唱えたものはその序詞だ。二人は何のためらいもなく次々と交互に祝詩を紡いでいく。
「
「我が手を取りて 寄り添いて!」
(連禱九十一番、風――!)
詩句はまともにぶつかれば怪我は免れない中位術であり、下手をすれば命に関わる。
(ありえないわ、人間に対して連禱を使うなんて!)
学園内において私用で精霊術を使うことは禁止されているし、人に対して連禱を放つのは重い懲罰対象になる。よほどリト・クローウェルの反撃を警戒しているのだろうが、人々を守る連術士の卵がすることではない。
黙って見ていることはできず、エリルは一目散に岩場を駆け下りリト・クローウェルの側に飛び込んだ。
突然現れたエリルに上級生達は目を剥いたが、詠唱を止めるようなことはしない。不測の事態があっても、深手を負っても死にかけていても連禱を繋げるのは精霊術士の基本中の基本だからだ。
威力も範囲も敵わない連禱術に、単独で詠唱する祝詩が唯一勝るもの。
――――それは素早さだ。
上級生達が結びの句を口にする前に、エリルは結界の祝詩を叫んでいた。
「
「――
ほぼ同時。
連禱が完成する間一髪のところで、エリルが創り出した光の障壁に実体を持った風の刃が次々とぶつかる。
目に見えるほど凝った風は重い唸りを上げ、結界の激しい振動を感じ取ったエリルは恐怖にすくみ上がった。
(ひいいいい!)
自分の結界はある程度の連禱なら耐えられる。
自信があった。
確信していた。
しかし訓練で魔物と戦ったり基礎の連禱を受けることはあっても、中位以上はない。威力が強すぎて危険だからだ。
教師に「お前の攻撃術は何の意味もないが、結界だけは中位の連禱も防げるほど強い」と太鼓判を押されていたが、実際に術を受け止めるのは初めてだった。
結界で防ぎきれない風圧に顔を背ければ、エリルと同じく単身で対抗しようとしていたのか、あ然と口を開いたままのリト・クローウェルと目が合う。
唱えようとした祝詩が途中で止まってしまったらしい。
「なんだと……!?」
「おいッ、一人で来たんじゃないのか!」
連禱を耐え切ったエリルの結界を見て、上級生達が目に見えて狼狽する。
その隙にエリルは突っ立ったままのリトの腕を引いた。
「逃げるわよ! こんなのまともに相手しなくていい!」
喧嘩で人間に向けて中位の連禱を放つなど、懲罰どころか退学処分ものだ。
まだ混乱しているらしいリトは青い目を何度も瞬き、「え? え!?」と転びそうな足取りでエリルのあとを追う。
わけが分からなかろうが何だろうが、とりあえずあの二人から離れることが先決だ。強引にリトを引っ張り岩場を駆け下りるが、背後から嬉々とした叫びが聞こえた。
「おい、やるぞ! 相手は落ちこぼれのエリル・レヴィスだ!」
しまった、と思ったがもう遅い。
エリルは悪い意味で有名人だった。
特に上級生でエリルの顔を知らない者はいない。
学園に入学したエリルは、精霊術士として力を与えられたなら自動的に連術士になれると思い込んでいた。
事実、エリル以外の人間はそうだろう。
だから連禱のできない自分が信じられなくて、どこかに一人ぐらい組める人がいるはずだと在校生に練習をお願いして回ったのだ。
学園の教員や、すでに卒業した生徒。学園長の口添えで相手をしてくれた国の行政機関〈精霊庁〉の連術士。そして、定期的に他国から戻ってくる各国在中の連術士協会員達。
二年間、五百人以上の精霊術士に協力してもらい試し続けたが、誰一人としてエリルと連禱できた者はいなかった。
当然そのことを知っている上級生の動きは速い。
「あいつの結界が防げるのは中位の連禱までだ! それ以上なら壊せるぞ!
――――一切を動かし 矢のごとく貫け!
「空を
すぐさま始まった詠唱にエリルはぎくりと凍りつく。
(二百八十一番、風の上位術――!)
エリルの結界を吹き飛ばす気だ。
上位術にはエリルの結界も、いくら天才とはいえリトも単身では敵わない。
(どうする!? 連禱が完成する前にクローウェル君に戦ってもらって――!)
連禱は唱えるごとに術者を守る壁を造り上げていく。
リトが単身でそれを破れるかどうかにかかってくるが、完成した上位術をエリルが結界で受け止めるよりはましだ。
そう判断した瞬間、突然力強く手を引かれた。
「俺と連禱してください! 相殺します!」
驚いて振り返れば、やっと事態を吞み込んだのかリト・クローウェルが真剣な顔でエリルを見つめていた。
先ほど上級生が叫んだ名前か顔、そのどちらかでエリルが連禱のできない三年生だと気づいたはずだ。それなのに気迫のこもった瞳で押し返すリトに、エリルはぎょっとして首を振った。
「駄目よ! だって私は連禱が――!」
「大丈夫です、やってください! 絶対俺が守ります!」
年下とは思えない大きな掌が、エリルの震える手を包み込んだ。
そこから広がるように、じんわりと全身が温かくなっていく。
錯覚でもなんでもない。
確かな熱と勢いを増した炎の気の流れを感じ、エリルは目を見開いた。
(も、もしかして……!)
学園始まって以来と言われた〝天才少年〟。
――この子となら連禱できるかもしれない……!
それがたとえ、誰一人として合わせられなかったエリルとでも――――!
「連禱十二番!」
連禱するなど思ってもいなかったため、祝詞の主導者となるリトは宣誓を上げる。何番の詠唱か序詞で判断することもできるが、とっさの連禱は意思の疎通なくして成功はない。
「天をしろしめす
まったく怖れることなく堂々と始まったリトの連禱に、覚悟を決めて副奏者であるエリルが応じる。
「汝の輝きは一切を照らし 蒼穹を渡る!」
(足を引っ張ってはいけない!)
これに全身全霊、全てを懸けるつもりで――――!
「
「不死の
連禱は
詠唱の合いの手のようなもの。
必然的に詩句の長くなる中位術と違い、リトが選んだ連禱は簡潔な火の基礎だ。 詠唱を始めたのは上級生の方が早かったはずなのに、リトとエリルは流れるように追い抜き先へと進む。
「並ぶ者なき
「
まるで一人が全てを謳うように。
途切れなく滑らかに祝詩を紡ぎ、エリルとリトは手を重ね合わせ、ありったけの力を放出するように全身で叫んだ。
「―――― 我は
呼吸を合わせることなど、何もしなかった。
それでも二人の言葉は、寸分違わずぴったりと重なったのだ。
しかし。
「――――――――――――――――!」
最後の句を言い切った途端、凄まじい熱がエリルに襲いかかってきた。
太陽に近づいてしまったかのような熱波が全身を覆い、悲鳴を上げたがあまりの衝撃に声にならない。
体中が燃え上がるような暴力的なまでの熱さに、辺りがどうなっているのか目を開くこともできなかった。
全身がバラバラになってしまいそうで、自分を繋ぎとめるので精一杯だ。
このまま死んでしまうのではないか――――。
そんな不安が頭をよぎった瞬間、ふいにその苦痛が不思議な昂揚感へと変わった。
何かの一線を越えたかのように呼吸が楽になり、頭の中が真っ白になる。
身体が浮き上がるような感覚に襲われ、エリルは大きく目を見開いた。
(すごい――――!)
まるで魂ごと持っていかれそうだ。
リトと自分の力が混ざり合い、一つの術へと昇華されていくのを感じる。
(誰かと連禱するって、こんなにすごいんだ……!)
身体が輪郭を失くし、そのまま空気に溶けていくような気がした。
このまま気を失えれば気持ちいいだろう。そんな誘惑に負けて目蓋が落ちそうになったが、ふと辺りが真っ赤に染まっていることに気づき仰天した。
(な、何この炎――!?)
リトが選んだ祝詩は、一年生が最初に習う基礎中の基礎。
一番威力が低いと言ってもいい連禱術であり、風の上位術に対するには明らかに弱い。
それなのにリトとエリルの全身は激しく渦巻く真紅の炎に取り巻かれ、それらが生き物のように上級生達に向かって奔っていたのだ。
「空へッ!!」
上級生の術を相殺するどころではない。確実に命まで奪うような強さに危機を感じたリトが叫び、我に返ったエリルも上空へ視線と手を掲げた。
リトの声に従い、上級生達を吞み込もうとしていた炎の嵐は凄まじい勢いで方向を変え、轟音と共に空へ駆け上がる。
世界を真紅に染めて岩場からまっすぐに屹立したそれは、空を穿つ火柱だった。
炎は火の粉をまき散らしながら聖山パンディアを超えていき、あとには不思議な、硝子の破片のような輝く透明の欠片が降り注いでくる。
言葉もなく見上げる四人の目に映るのは、美しい青い空。
そして、まるでその青空に穴が開いたかのように、ある一部分を通るときだけわずかにずれて映る白い雲――――――。
空は〝破れて〟いた。
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