第2話 疾病発生


「お前んとこは、酒っ気が一つもないなあ」


 キッチンの棚を掻き回しながら、チャーリィはライルに文句を言った。

 彼も勇もいったん家に戻って、窮屈な制服からラフな服に着替えていた。今の彼は黄と黄緑の縦縞のシャツを着、緑のコットンパンツを穿いている。


「食い物もさっぱり無いぞ!」


 黒のTシャツと着古したジーンズ姿の勇が冷蔵庫に鼻を突っ込んで不満そうに声を上げた。


「だから、私のアパートには何もないと言ったでしょう。」


 ライルが素っ気無い口調で答える。こっちはいつもの紺のTシャツとカーキ色のチノパンだ。


「人の話はちゃんと聞くものです。いつも君達は……」

「ほら、飢えた子犬さん達、買って来たわよ」


 シュッという自動ドアの開閉音とともに、ミーナが入ってきた。

 装飾の全く無い殺風景なリビングを抜けてキッチンに現れると、大きなレジ袋をどすんとテーブルに置く。買い物ついでにアパートに寄って着替えてきたらしい。赤い地に細かい花がプリントされたフレンチ袖のコットンドレスの背に、早くも汗が滲んでいた。


「勇を荷物持ちに連れて行けば良かった」

「そうしたら、この倍の荷物になっていたぜ。ライル、皿は?」


 チャーリィが袋を開きながら聞くと、皿を2枚出す。


「まさか、これだけって事はないだろうな?」


 ライルはけろりと答えた。


「私には、これ以上必要ない」

「誰だよ! ライルのとこでやろうって言った奴は!」


 喚いたチャーリィの手にコップを乗せた盆を渡して、ミーナが非難するように言った。


「ドンチャン騒ぎができるからいいって言ったの、あなたじゃない。あなたの所は、今日はお父様が居るから駄目だって言うし、勇のアパートは、この頃苦情が出ていて使えないって言ったじゃないの」

「君んとこでも、良かったんだけどなあ」


 チャーリィが未練たらしく言うと、ミーナは赤い舌を出す。


「酔っ払いなんか、お断りよ。レディの部屋に気安く来て欲しくなんかないわ」


 そして、ライルに意味ありげなウインクをして言った。


「ライルなら、何時でもいいんだけれど」


 ライルはきょとんとした顔をしている。


「言うだけ無駄さ。この唐変木には通じないよ」


 ふん、と、豊かな金髪を振ってそっぽを向くと、ミーナは声を張り上げた。


「ちょっと! 勇。摘み食いしないで! リビングに運んでちょうだい!」


 勇と同じ年であるにもかかわらず、ミーナはいつも彼には強気の態度である。いや、誰にでも強気だなと、チャーリィは心の中で訂正した。


 思えば彼女とも、勇に劣らず腐れ縁だった。勇には親同士で決めた許嫁がいる。今時信じられないことであるが、本人は一向に気にしていないところが勇らしい。

 その許嫁、高峰順子がミーナの幼馴染であったことが、そもそもの縁だった。順子はひどく内気な子で、小学校時代から――幼児部からかもしれない――ミーナがあれこれお節介していたもので、すっかり勇の姉気取りだった。話下手の勇は、口の減らないミーナに逆らえない。いいように振り回されていた。

 結果、中学部で勇と知り合ったチャーリィまでが、ミーナに振り回される破目になったのだ。その頃からずば抜けて美人だったので、まあ、彼も喜んで付き合ってきたわけだ。

 チャーリィが中学・高校・アカデミーへと学年をジャンプしていくと、勇とミーナも一緒にジャンプしてきたのでずっと同期のまま現在に至っている。


 だが、いまだに彼女は落ちない。彼がてこずる唯一の女だった。

 そしてある日、彼女は彼の前にライルを連れてきて、衝撃の告白をした。

 ちょうど一年前、今日のように暑い夏の日だった。


(紹介するわ。私のボーイフレンドのライル・フォンベルト博士よ)


 何の表情も浮かべていないその若い科学者は、まるで美しい人形のようだった。


 ***


「火星基地特別実習訓練、ご苦労様」


 ソファでくつろぎ、コップをチンと鳴らして口に運ぶ。三つのコップはオンザロックだったが、ライルのだけはレモネード。彼は決して酒を口にしないのだ。

 ライル・勇・チャーリィの三人は、アメリカ・スペースアカデミーの三年次を終えて、期末休暇期間中にもかかわらず、火星基地での特別実習訓練に強制参加させられた。三人はLICチーム――このチーム名は三人の頭文字からつけられた――と呼ばれ、訓練でも実習でもいつもともに行動をすることが多い。アカデミーのみならず軍やNASAにも目をつけられていて、何かと常に難易度の高い特別メニューを押し付けられていた。


「でさ、勇のやつ、そこに並んでいた料理を全部平らげちまったんだ。ところが、それは、基地に来ていたお客用ので、コックが気づいた時には、後の祭りってわけさ」


 無口なライルを無視して、酒宴は盛り上がっていた。実習訓練の話に花が咲く。

 そのライルに身を寄せるように座ったまま、ミーナはころころと笑いこけた。


「よく、あんた達を軍が置いとくもんだわ。しかも最優秀チームですって? とんでもないわ。問題児チームよ」


 ミーナの笑いが止まらない。チャーリィはローテーブル越しに身を乗り出して、彼女のコップを覗いた。


「飲みすぎだよ。もう、止めとけよ」

「大丈夫よ。まさか、あなた達がLICチームなんて呼ばれるチームになるなんて思わなかったわ。まして、あなたがね? チャーリィ?」


 ミーナが意味ありげに見てきたので、チャーリィは視線を逸らす。

 自分でも、チームを組むほど親しくなるとは、全くの想定外だったのだ。ミーナがライルを紹介してきた時は反感しか覚えなかった。目をつけていた彼女を横から奪ったくせに、そ知らぬ顔をした箸にも棒にも引っ掛からない嫌な奴のはずだった。

 正直、今でも、時々どうしてチームを組んでいるのかわからなくなる時がある。だが、なぜか、気が付くと彼を目で追っているのだ。


 もっぱらチャーリィとミーナで会話が進行する中、ライルは相も変わらず無関心におとなしくレモネードを飲んでいたが、ふと向かい側の勇を見て目を見張った。じっと見る彼の身体にわずかに緊張が走る。

 ひたすら飲み食いに忙しかった勇が、その手を止めていた。

 何か戸惑った表情を浮かべていたが、急に胸を掴んだと思うや、前のめりに倒れる。テーブルにぶつかる前に、ライルがその身体を抱きとめていた。


「いったいどうしたんだ?」


 チャーリィがびっくりして訊いた。

 ライルは返事もせず、ひどく緊張した顔で勇を診ていた。

 脈を診、目を調べ、シャッツを開いて胸や腹に手を当てる。滑らかに動く指の動きにチャーリィは見惚れた。診察しているはずなのに、なぜかなまめかしさを感じてごくりと唾を飲んだ。

 やがて、ライルは隣室に立つと採血器具を持って戻ってきた。

 勇の腕から専門家の手際の良さで採血すると、また隣室に引っ込んでしまう。


「おい、勇をベッドに運ぶぞ。……ミーナ、頼む」 


 チャーリィは返事を期待していなかった。こうなると、ライルは今手がけている対象しか眼に入らなくなるのだ。もちろん勇を運ぶ手伝いをしようなんて気も回らない。

 チャーリィはミーナに手伝ってもらって、ずっしりと持ち勝りのする勇を隣室のベッドまで運んで寝かせた。

 机に向かっているライルを、息を切らせながら振り返る。彼は電子顕微鏡を小型にしたような変わった機器を一心に覗いていた。


 チャーリィは肩を竦めて、部屋を見回す。

 相変わらず、大学の研究室にベッドを持ち込んだような部屋だった。机にコンピューター、薬品や小型器材が並ぶ収納棚。それに、電子機器類が、広くも無い部屋に効率よく納まっている。

 彼の収入の殆どが、この頭の痛くなりそうな機器類に注ぎ込まれているのは確かだった。他には何もない。装飾の類も一切なかった。

 昨年、ミーナがクリスマスのプレゼントで贈ったペアの白猫と黒猫のぬいぐるみが、パソコンの上の棚で居心地悪そうに身を寄せ合っていた。


「ライル! 勇の呼吸が止まりそうよ!」


 ミーナがベッドの側から叫んだ。ライルではなく、チャーリィが駆け寄って覗き込む。


「いったい、どういうことなの? 身体が固く強張っている上に、体温がどんどん下がっているわ。意識は戻らないし。こんなの、私、初めてよ」


 俺だって初めてだと、チャーリィは深刻な顔で勇を見守る。

 あのライルが夢中になっているというだけでも、充分悪い兆候なのだ。

 その彼がやっと勇の所に来た。高圧注射器を手にしている。中には、不吉な赤い液体。まるで……。

 彼は、しかし、何のためらいも無く勇の腕にそれを打つ。それから、チャーリィ達のほうへ向くと、表情も変えずに言った。


「君達も注射しておいたほうがよい。既に感染しているはずです。このままでは、死ぬ可能性もあります」

「死! 伝染するの?」

「私が見た限りでは、伝染しないという保証はありません」

「なんて病気なのか、解ったのか?」

「いや、解りません」


 ライルは正直だ。あっさりと答える。


「そんな! じゃあ、さっき勇に注射した薬は?」

「とりあえずの応急処置です。しかし、効果は保証します」


 ライルが、さあ、と注射器を出すのを、チャーリィはためらった。その液体はなんともぞっとする感じなのだ。


 その時、いきなり息が詰まった。重い大気に押し潰され、身体が固まる。

 胃も腸も動かない。固まった! 肺も心臓も固まる! 脂汗がどっと噴き出した。

 頭の中でごんごんと重い響きの鐘が鳴る。

 目の前が暗くなって。

 意識を手放す……


 辺りがぼんやりとにじむ。はっと意識が鮮明になった。

 床に倒れていた。

 ぜいぜい息をしながら、間近に覗き込んでいるライルの美しい顔を見た。

 腕を見て、またライルを見る。じっと見つめていた紫色の目が、ほっとしたように細まった。

 どきりとする胸を隠すように、チャーリィはライルから目を離して勇を見た。彼も意識を取り戻して、起き出そうとしているところだった。

 注射を済ませたミーナが、ベッドの横から嬉しそうに言った。


「ああ、良かったわ。勇も気がついたし。チャーリィまで倒れた時は、本当にどうしようと思ったのよ」

「いったい、何の薬なんだ?」


 痛くも無いのに、チャーリィは腕を擦りながら訊いた。

 驚いたことに、ライルがためらった。


「知らないほうがいいこともあります」


 と、視線を逸らす。いつも真っ直ぐ人の目を見て話す彼らしくなかった。

 それから、彼は気遣わしげに言った。


「私はアカデミーに戻ります。多分、これから同様の患者が続けて出てくると思われます。早く正体を突き止めなくては、たいへんなことになるでしょう」

「俺達にやってくれた薬があるじゃないか」


 すると、今度はあきらかに動揺した。彼には異例なほど珍しいことだった。


「そう、でも、それは一時的なものでしかありません。効力が切れれば、再び発症します。それに量的に限りがあります。君達も、なるべく早いうちに入院したほうがいいでしょう」


 彼は単刀直入に語る。チャーリィはその事実に愕然とした。


 ***


 ギアソンが椅子に座りなおして落ち着くと、スレンダーはA版サイズのパーソナルタブレット式携帯用端末パソコンのP-Tbを取り出し、ファイルをギアソンに転送した。


『一昨日、火星基地内に大量の病人が出ました。ひどく変わった症状で、病名は解りません。だが、伝染性であることは確かで、あっという間に広がり、そして、今日こちらの呼びかけに全く応答しなくなったのです』

 

 ギアソンがこれを飲み込むのを待って、スレンダーは続けた。


『NASAでは、全員絶望と考えています』

 

 ギアソンの額に汗が滲んだ。震える手で手元のP-Tbに送られてきたデータをスワイプする。


「他の基地や、町からの隔離は、万全なのだろうな? 近日中に出た船はあるまいな?」


 質問というより、祈りに近かった。

 スレンダーは、いっそう苦しい顔になった。


『宇宙アカデミーの士官候補生の訓練が二週間入っておりまして、二日前基地を出発し、月基地で二泊後、本日付で帰国しております』


 ギアソンは絶望を感じた。


「何人だ? 名簿は入ってるか?」

『そこに。二十名です。最優秀クラスの3年次特別実習訓練課程でした。また、その間他の基地やシティとの交流も計画されていましたし、それ以外にも当然ながら、人々の行き来は、結構ひんぱんにありました』

「解った。直ぐ、他の基地やシティの様子を調べよう。そして、これは大統領に最優先で報せねばなるまい。全て、杞憂に終わればよいのだが……」


 だが、スレンダーの表情は、楽観を許すものではなかった。



 NASA長官とのTELを切ったあと、ギアソンはCIA長官のアレックスに連絡を取り、詳細な調査を要請した。しばらくして、アレックスからTELが入る。

 ギアソンは、TELの向こうのアレックスを眺めた。何も見逃さない鷹のような風貌。いつも有名ブランドのスーツをぱりっと着こなす中肉中背の40台半ばの男。撫で付けた茶色の髪はだいぶ薄くなっていた。本人もそれをだいぶ気にしている。

 その手元には、膨大なデータが暗号化されて詰められたP-Tbがあるのだろう。アレックスは目線を上げると、重々しく口を開いた。


『ヘラス市も、ほぼ全滅。そう考えるしかあるまい。他の基地も同様と判断すべきだ。月基地や、ルナステーションでも、患者が出始め、しかも記録的な勢いで増えている』


 彼は一息つくと、また続けた。


『そして、ここ、地球でも、患者が出始めている。今のところは、火星や月から戻ってきた者たちだが……。とにかく、彼ら全員を隔離するよう手配した。更に、彼らと接触のあったと思われる者も全員』

「膨大な人数になるだろうな」


 ギアソンは、重いため息をついて、自分のP-Tbのデータを読んだ。火星基地で特別訓練を行った士官候補生の名も連なっている。

 ライル・フォンベルト、近藤勇、チャーリィ・オーエン。LICと呼ばれるチームだ。まだ、三年次を終えたところなのだが、彼も密かに注目している卓越した連中である。何れもジャンプして来ているから、年も若い。まだ、二十歳になったばかりなのだ。

 ライルに至っては、たった十八。

 ドイツの日立ルクセンブルク研究所から、異例の抜擢によるアカデミーの量子力学講師、かつ士官養成訓練コースに席を置く。アカデミー付属病院病理部でインターンも兼ねているから、凄まじい仕事振りといえる。

 だが、士官の適性はともかく、科学者としての彼の才能は測り知れない。彼の博士号論文の慣性吸収構造理論は、既に実用化され、今では殆どの機種がこれを用いている。医学博士論文の再生治療法の恩恵も大きい。

 しかし、今では常識的なほどに一般化されているこれらのものが、たった十八の一人の若者の功績であることは、不思議なくらい知られていなかった。

 まるで、わざと知名を避けているかのようだと、ギアソンは思った。確か、ドイツの著名な科学者が論文発表に関与していたはず。実は、彼をアカデミーの講師にと、強く押したのはギアソンだったのだ。

 彼らの名前の上には、まだ発症の印は記入されていない。だが、時間の問題のはずだ。彼らはもう隔離されたのだろうか?


 アレックスCIA長官のポケットで、小さなシグナルが鳴った。


『失礼』


 ギアソンに断って、画面の外のほうに顔を向け耳を澄ます。ややあって、視線をこちらに戻してきた。


『たった今、アカデミー付属病院モリス博士の著名で、特A級隔離が提言されたそうだ。病原体は不明。しかし、全米の病院が直ちに対処に入った。全米医療協議会も特A級疾病発生を確認。大統領声明も間もなく公布されるだろう』


 アレックスが続けた。


『隔離処置には、NASAも積極的に協力し、全米衛生局は、対処を全世界に呼びかけている。今日中にも、世界保健機構も動き出すだろう』

「それで、ライル君は、今、何処にいるのかね?」


 この迅速な提言には、彼が関与しているとの予感がある。


『アカデミー付属病院から、患者と一緒にネバダの宇宙病理学研究所に移っている』


 ギアソンは、ふと彼ならば、と思って頭を振る。もちろん今頃はもう、彼も患者の一人になっているはずだった。彼は、火星から帰ってきたのだ。

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