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 私が教会に戻ったのは、教会を出て二時間以上経ってからの事だった。本当はもっと早く帰れたし、もっとあちこちを歩き回ってから帰る事も出来ただろうが、廃墟と化した病院から、たっぷり一時間以上掛けて帰ってくるだけで私には精一杯だった。誰にも会えなかった。何もかもが壊れていた。昨日はこうじゃなかったはずだ。たった一日で。たった一日で。


「分、お帰り。随分遅かった……、……」


 祥吾は私の顔を見ただけで大体を察したようだった。もっとも、私の手のひらにある傷まで察するのは土台無理な話だろうが、帰ってくる間にその事については伝えまいと決心した。毒蛇だと決まった訳じゃない。余計な心配を子供達にかけなきゃいけない理由はない。


「病院の方まで行ってみたけど、人、いなかったよ。みんな何処に行ったんだろうね……」


「分、家の中を調べてみたんだけど、テレビもつかないし、電話も繋がらないんだ。何故か電気はつくしガスも使えるんだけど……」


「電気とガスは使えるのか?」


「うん、あと、水も出る」


 清華は蛇口を捻って水を出した。濁っていない、透明な普通の水が当たり前のように流れている。そう言えば朝は普通に料理が出来ていたな……私はそんな事を思った。


「あと、この家……っていうか門からこっち側、普通にあったかいよね。門から外に出るとすごく寒いのに」


「さむかった! さむかった!」


「なんか、嫌な感じの寒さだよね……天気も妙な感じだし……」


 子供達は次々に違和感を口にした。やっぱりみんな、今の事態を訝しんでいる。当然だ。一体何があったんだろう。みんなは何処に行ったんだろう。どうして電話やテレビは通じないのに水や電気は使えるのだろう。


「そう言えば、食料はまだあるのか?」


「なんでかわからないけど数日分はあるんだよね。でも、昨日もおとといもこんなに買った覚えはないよね。朝は気にも留めなかったけど……」


 清華は困ったように眉根を寄せた。食料があるのはありがたいが、確かに不気味だ。そしてあと数日で食料が尽きるという事は新たな恐怖の種だった。早く対策を練らないといけないけれど、どうすればいいのか思い付かない。


「まあ、とりあえず昼ご飯の準備をするよ。分はどうする? 改めて用意しようか?」


「え、いや、私はお弁当があるからそれで……」


「あまらもおべんとう食べたい! はんぶんこしようよ、分~」


 天良がいつも通りの笑顔で私の顔を見上げてきた。意味のわからない不気味さを拭う事は出来ないけれど、変わらない天良の態度に心が和まない事なんてない。


「うん、そうだね、半分こしよう、天良」


「とりあえず腹に何か詰めておこうぜ。頭に栄養回ってないのにいい考えが浮かぶ訳もないからな」


「そういう事。それじゃあ祥吾、新太、手伝って」


「あ、私も……」


「分はいいよ。ドジだから」


 即答だった。私は項垂れざるを得なかった。天良が私のズボンを掴みながら清華へと視線を向ける。


「あまらは~、あまらは~?」


「天良は分がドジをしないよう見張ってて」


「りょうかいしました~。それじゃあ分はいすにすわってて」

 

 天良は私にテーブルの椅子を勧め、自分もその横にちょこんと座った。非常に情けない思いでいっぱいだったが、私が料理に関して壊滅的なのは言い訳出来ない事実だった。もっとも、壊滅的なのは料理ばかりじゃないけれど……


「ごめん、もう少し、外の様子を見てくるよ」


「え、でも……」


「今度はみんなで見に行こうよ」


「もちろんそれはありがたいけど、お昼ご飯が出来るまでまだ時間があるだろう? 近所をちょっと見てくるだけだ。すぐ戻ってくるよ」


 子供達は顔を見合わせ「気を付けてね」と言ってくれた。私は頷いて、私を心配そうに見上げる天良の頭を「行ってくるよ」と左手で撫でた。外の様子がショックで気落ちしてしまっていたけれど、せいぜい学校とスーパーと病院と市役所と駅とその間にある通りを見てきただけに過ぎないのだ。案外家を探して回れば人の姿があるかもしれない。私は寒さ対策に二階からコートを引っ張り出し、意を決して外に出た。手の傷の事を忘れた訳ではないけれど、一時間以上も経っているのに何ともない。だから大丈夫だ。大丈夫なはずだ。


 とりあえず、と私はひび割れた道路を渡り、路地沿いに左回りに家を見ていく事にした。最初の家の住人は田中さんという老夫婦だったが、塀の中は枯れた雑草が伸び放題で、ドアが半分空いていて、その奥から覗く闇に人の気配はまるでなかった。それでも、もしかしたら……という可能性は捨てきれない。私は意を決して敷地に入り半開きのドアを引っ張った。


「田中さん? 笹明です。いらっしゃいますか? 田中さん?」


 返事はない。「入りますよ」と断りながら靴を脱いで玄関に上がる。田中さんの家に入るのは初めてだったが、初めて訪れたにも関わらず「異常だ」と断言出来る、そんな光景が居間の中に広がっていた。家具は概ね斜めに曲がり、絨毯はぐしゃぐしゃで、その上に少なくない砂埃が積もっている……絨毯の上に何かが落ちている事に気付き、私はそれを拾い上げた。それは割れた写真立てだった。写真の中では田中さんご夫妻が、静かで穏やかな幸福を表すように笑っていた。けれど、この家の中は、強盗にでも入られたように酷く踏み荒らされている。


「一体何があったんだ……」


 それでも、もしかしたら何処かに隠れているかもしれないという可能性はなくならない。写真を棚の上に置き、一応家の中全てを探し回り、二階もトイレもくまなく見て回ったけれど、やはり誰もいなかった。その次の家も次の家も同じように見て回ったが、強盗に荒らされて後数年間放置されたような、ほとんどそんな状態の廃屋ばかりが続いていた。中には小学校のように大きな岩に潰された家や、跡形もなく破壊された家もあった。いずれにしろ、人の姿がないという事には変わりはない。別の地区に行けば人の姿があるかもしれないが……


「とりあえず……戻ろうか……」


 廃墟と化した病院や駅を見た時以上の徒労を抱え、私は子供達の待つ家へと一旦戻る事にした。門の中に入るとじとりと湿った寒さが和らいだが、それだけで生きた心地が戻ってくる事はなかった。


「ただいま……」


「分、遅かったじゃないか。一体何処まで行っていたんだ」


「ごめん、向かい側にある住宅地を見てきたんだけど、やっぱり誰もいないみたいで……」


 言ってから、しまったと口をつぐんだが遅かった。子供達の顔に滲むように不安の色が広がっていった。私は頼りない男だけれど、この子達の保護者だ。その私がこの子達を不安にさせるような事を言ったりしてはいけないのに。


「ご、ごめんよ。不安にさせるような事を言って……大丈夫だよ。なんとかなる。絶対、なんとか……」


 言いながら、なんて頼りない言葉しか言えないのだろうと絶望感に襲われた。大丈夫だなんて、なんとかなるだなんて、一体、そんな、何を根拠に。一体何が起きているのかそんな事もわからないのに。情けない。私はこの子達を守らなくちゃいけないのに、気休めにもならないような事しか口から出てきはしない。今更ながら自分がどんなに役立たずなのか痛切に思い知らされる。


 奥歯を噛み締めたその時、私の膝にぼすりと温かい何かが触れた。視線を落とすと天良が、私の膝を抱えるようにぎゅっとしがみついている。


「分、だいじょうぶだよ、しんぱいしないで」


「分、そんな不安そうな顔をするなよ。俺達だって何も考えていない訳じゃない」


「実は分がいない間にさ、ちょっと話し合っていたんだ。何があったのかわからないけど、もしかしたらとんでもない事が起きているのかもしれない。だからみんな覚悟して、力を合わせてこの事態を乗り切れるよう頑張ろうって」


「あまらねー、くだもののタネもってるよ~、りんごとか~、スイカとか~、メロンとか~、カボチャとか~」


「畑とかさ、作ってみようよ。すぐには何も出来ないけれど、草むらとか探せば食べる物も見つかるんじゃないかと思うんだ。幸い電気と水とガスは使えるみたいだし、だから分、なんとかなるよ」


 新太が、祥吾が、天良が、清華が、私を励ますようにそれぞれ声を掛けてきた。顔を上げると子供達が、思いの外明るい表情で私の事を見つめている。


「分、長い付き合いだからさ、分が何を考えているか大体の所はわかるけど、あんまり気負ったりしないでくれよ。言ってくれたよな。俺達がここに来た時に、俺達は家族なんだって。今日から一緒に支え合って生きていく、俺達は家族なんだって」


「…………」


「分は一人で抱え込み過ぎる所があるけれど、俺達の事も頼ってくれよ。分は俺達を引き取ってくれたけど、俺達はお前に守られているだけじゃなくて、助け合って生きていきたいんだ。だって俺達家族じゃないか。一人で悩んだりしないでくれよ。家族なんだからさ、俺達の事も頼ってくれよ」


「分があたし達を本当に家族だって思っていればだけど」


「まさか家族じゃないとか言わないよな?」


「え~、分はあまらのかぞくじゃないの~? やだよそんなの~。かぞくじゃないっていったらなくんだから~」


 そう言って一層しがみついてきた天良に、私は涙を零してしまった。天良が大きく目を見開いて私の顔を覗き込む。


「ぶ、分~、どうしたの~? どこかいたいの~?」


「ち、違うよ天良……嬉しくてさ……君達と家族で、私はすごく嬉しいんだ……」


「…………、……ったく、そのぐらいで一々泣くなよなぁ、大体分が頼りないってのはすでにわかっている事なんだし」


「料理も裁縫も出来ないし」


「縄跳びだって飛べないし」


「幼稚園児並みの画力だし」


「うっ……」


「でも、あまらはそんな分がすき~」


 ぽすり、と小さくても確かな温かみが私を抱き締め、余計に涙が溢れてしまう。全く何時の間に、この子達はこんなに大きくなっていたのだろう。


 そうだ、どんな状況に陥っても、みんなで力を合わせれば生き抜く事は出来るはずだ。一体私達の身に何が起きたかはわからない。けれど、大丈夫。きっと大丈夫だ。私にはこの子達がいてくれるんだから、それだけで何が起こっても生きていけると確信出来る。


「す、すまない、泣いたりなんてして……そうだね、やろう。みんながせっかくやる気を出してくれているんだから、私も頑張らなきゃいけないね。それじゃあ、……今日はどうしようか」


「とりあえず、まだ分が行っていない所にも様子を見に行ってみようか。電気やガスが使える以上、人が全くいないって事はないんじゃないかと思うんだよな……」


「俺は食べられそうな物があるか探した方がいいと思う。食料があと数日でなくなるのは確実だし、もしこの辺りに人がいるのなら食料を探している間に見かけるんじゃないのかな」


「あたしは新太の案に賛成」


「あまらもあまらも~」


「た、確かに新太の意見の方がいいけれど……」


「祥吾、落ち込まなくていいよ」


 祥吾の肩を叩きつつ、私は思わず笑ってしまった。この子達がまだいてくれるから、私はまだ希望が持てる。希望を持って生きていける。


 そう思った。

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