3
「分~、ぶん~」
私が密かに葛藤しているととてもよく聞き慣れた、しかし今聞くはずのない声が聞こえて私は神書から顔を上げた。ギイッという音と共に扉が開いたので視線を向けると、そこには天良を連れた祥吾、清華、そして新太が、心なしか青ざめた表情で立っていた。
「どうしたんだ。何か忘れ物でも……」
「学校、なかった」
「あれ? 今日は休みだったかな」
「ちがうよ~、学校自体ないんだよ~」
「学校が……なくなってたんだ……分、何か知らないか……?」
祥吾の一言に、私は耳を疑った。祥吾が何を言っているのか全く理解が出来なかった。
「学校が……なくなっていた? 祥吾、それは一体どういう意味だい?」
「なくなってたんだ。学校だけじゃなくって、その……とにかく、ちょっと来てくれよ!」
冷静な祥吾には珍しい、何かを怖がっているような声だった。清華も新太も、まるで幽霊でも見たような表情で私の事を見つめている。私は意味が分からないまま、とりあえず四人の後をついて教会の外へと出ていった。先程少しばかり花を手折った花壇には、残りの花が先程と全く変わらぬ姿で咲いていた。
しかし、一歩門の外に出た私の前に広がっていたのは、まるで映画のセットのように荒廃しきった風景だった。目の前の一軒家には枯れた枝が無数に巻き付き、ガラス窓が割れ、塗料が剥げて落ちている。視線を下げれば道路がひび割れ盛り上がり、割れ目から生えたらしい草木もすでに変色し萎れている。
廃墟の町。そう呼ぶに相応しい風景が荒涼と広がっていた。私は首を巡らせた。どの家も薄暗がりが覗くばかりで、ところどころ窓が割れ、壁が剥がれ落ち、人の気配がない。まるで私達五人だけが取り残されてしまったようだ。
「こ、これは一体……」
「やっぱり、分もわからない……?」
祥吾が震える声で尋ねてきた。私は頷く事しか出来なかった。だって本当にわからなかった。なんだこれは。一体何が起きたと言うんだ。
「外に出たらこうなっていて、とりあえず学校まで行ってみたんだ」
「そうしたら学校もボロボロで、小学校なんて隕石でも降ってきたみたいな大きな岩に潰されていて……」
「人がいないか探したんだけど、誰も見当たらなくて……」
子供達の説明は私の理解の範疇を超えていた。いや、多分子供達も、一体何が起こっているのかわからず混乱しているに違いない。私は何と声をかけるべきか迷い、それでも何とか辛うじて方針らしきものを絞り出した。
「とりあえず、私が様子を見てくる。みんなは家で待っていてくれ」
「分一人で行くのか? 俺も一緒に……」
「いや、何があるのかわからないし、祥吾には家でみんなを守っていて欲しいんだ。清華はしっかりしているけれど、女の子だし、何かあった時に不安だろう? 私がいない間、祥吾にはみんなを守っていて欲しい。頼めるね?」
私の言葉に、四人は不安そうに私を見つめた。私はみんなを安心させようと精一杯の笑みを形作る。
「大丈夫、心配しないで。ちゃんとここに戻ってくるから。少し時間がかかるかもしれないけれど、絶対戻ってくるから」
「……気を付けて」
「分、はやくもどってきてね」
清華と天良の声に頷き、心配そうな新太に手を振って、私は長らく住んでいるはずの町へと向かって歩き始めた。道路も歩道もアスファルトがひび割れ盛り上がり、もう数年も人の手が加わっていないような雰囲気を醸し出している。けれど、昨日もここを買い物のために歩いていたはずなのだ。自転車も車も歩行者も普通に通っていたはずなのだ。それなのに人影なんて微塵もなくて、空は一部の隙も無く分厚い雲に覆われていて、何故だか妙に肌寒かった。教会にいた時はそんな風には感じなかったが、何か、湿った空気が中途半端に凍り付いて息をする度に肺から全身に回り込んでいくような、そんな嫌な寒さが体全体を蝕んでいくようだった。
十数歩歩いた程度でみんなの元に帰りたくなってしまったが、もちろんそんな訳にはいかない。一度帰るにしても、もう少し様子を見てからにしよう。私は人影もない風景へと再び歩を進め始めた。少し行った所にあるコンビニは、もう何年も前に潰れたように空っぽの店内を晒していた。少し離れた所に立っている信号機は、光を失くし錆を浮かせて少し斜めに傾いていた。道路を挟んだ歯医者の窓はゾッとする程真っ黒で、右を見ても左を見ても人の姿は見当たらない。形容しがたい不気味さに、それでも何とか我慢して歩き続け、教会から十分の所にある中学校に辿り着いたが、校庭は枯れた雑草に覆われていて、時計は壁から落ち掛けていて、やはり人の気配は微塵もなくて、その奥に見える小学校の校舎は巨大な岩に潰されていた。清華の言っていたそのままに。
けれど、こんなはずはないのだ。昨日まではこうじゃなかった。いつものように子供達を学校へと送り出して、私は人が来るか来ないかも分からない教会で細々と勤めを果たしていて、清華の作ったお弁当を食べ、新太と天良が戻ってきたら近所のスーパーに買い物に行って、清華に食事を作ってもらって、祥吾が帰ってきたらみんなで食べる……昨日だってそうだった。その前だってそうだった。その前も、その前も、ひたすらにそんな平凡な毎日の繰り返しだったはずなんだ。それなのに、……湧き上がる恐怖を必死で抑えて、私は中学校より先へと我慢して歩いていった。けれど歩く程に寒気と怖気が酷くなる一方だった。人気のない中華料理屋。錆びついている橋の欄干。盛り上がった駐車場。馴染みのスーパーに灯りはない。お決まりのようにガラスは割れ、その奥には気味の悪い薄暗がりが広がるばかり。ここに来るまで住宅だって数え切れない程あったと言うのに、ここに辿り着くまでにただの一人も出会わなかった。
「すいません! 誰か! 誰かいないんですか!?」
私は声を張り上げたが、帰ってきたのは耳の痛くなるようなシンとした静寂だけだった。もっとも、たかだか十分十五分歩いただけで結論を出すのは早計過ぎると思うのだが、平日の午前九時近くに、人っ子一人歩いていないなんて事があるのだろうか。昨日までは何もなかったはずなのに、一夜にして住み慣れた町が廃墟になっているなどあるのだろうか。私は先にそびえる歩道橋に視線を向けた。歩道橋を渡れば駅と市役所と病院がある。とりあえずそこまで行って、もしそれで人が見つからなかったら……見つからなかったら……
「すいません……そこの方……ちょっと……お時間頂いて……よろしいですか……?」
唐突に声を掛けられた気がして私は首を巡らせた。確かに、誰かに声を掛けられたような気がしたのだけれど……
「気のせいか……?」
「すいません……」
「ひっ!」
「ああ……すいません…………驚かせて……」
いつの間にそこに立っていたのか、黒いローブのようなものに身を包んだ人影が済まなそうに頭を下げた。本当に、いつの間に傍に来たのだろう。ほとんど左隣にいるのに全く気が付かなかった。
「い、いえ、私こそ驚いてすいません……」
男の心底済まなそうな態度につられ、私も頭を下げ返した。やっと出会えた住人にほっとするよりびっくりさせられたのは確かだが、ここまで済まなそうに謝られては忍びない。顔はほとんど黒い布の中に隠れ、『男』と表現するのはいささかの躊躇いを覚えたが、けれど、わずかに覗く口元は確かに男性のものだったから、私はこの奇妙な人影を『男』だろうと認識した。
『男』は黒いローブで顔をほとんど覆い隠し、何処か疲れきったような、擦り切れ果てたような異様な空気を漂わせていた。例えるなら不治の病と長年戦い続け、身も心もボロボロに成り果てながら、それでも生きる希望を捨てる事の出来ない病人のような……『男』は、力なく口許を吊り上げると……どうやら微笑んでいるつもりらしい……「すいません」と、最期の力を振り絞るような弱々しい声で呟いた。
「あなたには……叶えたい望みは……ありますか……」
「……え?」
「あなたには……叶えたい望みは…………ありますか」
尋ね返すと、男は掠れた声で同じ言葉を繰り返した。弱々しく、力なく、今にも息絶えてしまいそうな。どうしてそんな事を聞くのかわからなかった。いやそもそも、この男は一体誰だろう。どうしてこんな奇妙な格好で道を歩いているのだろう。
「あの、すいません、失礼ですが、あなたは一体どの辺りに住んでらっしゃる方なのですか? 私はこの先の教会で使父をやらせて頂いている者なのですが……」
「あなたには……叶えたい望みは……ありますか……」
「あの……」
「すいません……答えて……くれませんか……」
私は困って息を吐いた。正直に言うと、参ったなと思っていた。どうせならそのまま男の言う事を無視しても良かったかもしれない。むしろそうすべきだったのだろう。
けれどその時の私は、多分参っていたからこそ、この顔もわからない、死に掛けの病人のような男の意味のわからない問いかけに、何故か答えを返してしまった。
「……みんなの幸せですよ、私の望みは」
「…………」
「これでいいですか? すいませんが、今ちょっと混乱しているんです。申し訳ないですがこの辺りに何が起きたのか教えて頂けると……」
「あなたなら……大丈夫かもしれませんね……」
男はローブの下で力なく笑うと、私の腕を取り何かを強く握らせた。あまりにも自然な動作で警戒する暇もなかった。
「え?」
「あなたが強く望みさえすれば……きっと……あなたの願いは叶うでしょう……」
「あの、一体どういう……」
そこに、男の姿はなかった。私は右手に何かを握り締め、誰もいない荒れ道に一人で立っているだけだった。ゾッとした。なんだ今のは。白昼夢でも見たと言うのか。けれど病人のような、干からびかけた人間の声が、気配が、まだ生々しく私の傍らに残っている。右手に何かを握っている感触がある。いやそもそも、あの男はいつの間に私の隣に立っていたんだ? まるで死ぬ寸前の病人みたいだったし、まさか、まさか、幽……と思った所で、急に手に痛みが走り、私は握っていたものをアスファルトへと落としてしまった。
「いつッ!」
ガシャン、という音がして、私は閉じた瞼を慌てて開いた。ひび割れたアスファルトの上には、筒状になったガラスと細かな破片が落ちたそのままに散らばっていた。試験管。残骸を映した私の脳にそんな単語が浮かび上がった。思わず試験管を握り締めて砕いてしまったのだろうか。だが、手のひらを見ても試験管を砕いて出来たような傷は存在しない。
「な、なんだったんだ……今のは……」
私は手のひらをまじまじと眺め、痛む部分に奇妙な黒い穴が二つ空いているのに気が付いた。血こそ出ていないが、明らかに皮膚に穴が二つ開いている。まるで小さな蛇か何かに噛まれたような……
「ま、まさか、この試験管の中に何かいて、そいつに噛まれたとでも言うのか……」
試験管がどういう状態だったのかきちんと確認してはいないが、試験管の蓋が開いていて、中に小さな蛇でも入っていたというのはあり得ない事ではないだろう。その場合、蛇は私を噛んだ後何処に行ってしまったのかという新たな疑問が生じるが、とりあえず毒蛇に噛まれた可能性もある。その推測は私の頭を真っ白にするのに十分だった。
「と、とりあえず医者に……」
私は割れた試験管をハンカチで包み、手を傷付けない程度に握り締めると、歩道橋の先にある病院目指して歩いていった。もし毒蛇だったら病院に辿り着く前に死んでしまう可能性もあるが、とりあえず歩いていくしかない。
私は毒蛇かもしれないという恐怖と必死に戦いながら橋を渡り、薄汚れたカーテンの掛かったカメラ屋の横を通り過ぎ、光のない信号機を通過し、最近立て直されたばかりの病院へと到着した。だが、私の目の前にあったのは……
「なんで……」
ガラスは割れ、アスファルトは砕け、見えるのは薄暗がりばかりの、廃墟。今日は休診日ではないはずだ。そう呟いても、静かな町からは誰の声も返ってきはしなかった。
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