第三章:僕を殺したのは誰

「僕は、どうして生きていると思う?」


 再びこちらに向けられた眼差しは、どこか挑むようだ。

 声を荒げたわけでもなければ、ことさら睨み付ける表情を作っているわけでもないのに、その目にはこちらの背筋をひやりとさせる何かが宿っていた。


「十二年前、マンダリンの屋上から、飛び降りて死んだはずなのに」


 掠れた声で抑揚なく語っているにも関わらず、その言葉は耳にする者の胸をどきつかせる。


「それは……」


 言い掛けたものの、次の言葉が出ない。

 あなたが、レスリーじゃないからでしょう?

 目の前の彼はゆっくり首を横に振った。


「死んだのが別人だったからだよ」


 右手にはコーヒーの入った紙コップが変わらず収まっていたが、ビロード張りのソファの肘掛けに置かれた左手は固く握り締められて微かに震える。


「あの日、僕は確かにマンダリンの屋上に行った」


 抑えた声だが、手と同じで僅かにそれと分かる程度に震えていた。


「もう、全てに疲れていたんだ」


 淡々と語っているにも関わらず、というより、だからこそ、疑問や反論の付け込めない空気になる。


「でも、そこには、もう別の男がいた」


 彼は、あたかも私がその「別の男」であるかのように、真っ直ぐこちらを見据えた。


「一人で街を見ながら、煙草を吸っていた」


 向かい合う私に念を押すかのように述べる。

 煙草の代わりにコーヒーの匂いが一瞬、鼻に蘇った。


「あそこのボーイやってた男さ」


 ボーイ、と口にして微笑む彼の表情こそ、あどけなく見える。


「その時は制服じゃなかったけど」


 そう付け加えると、彼は浮かべた笑いを苦くする。

 高級ホテルで煙草を吸う私服姿のボーイに出くわしたら、確かに客の方が気まずくなりそうだ。


「あそこのジムに通ってて、何度か見かけたから、顔は知ってた」


 その言葉を聞いて、改めてこの人の肩の辺りを眺めると、最初の印象ほど華奢でないことに気付く。

 これは、今も運動して鍛えている人の体形だ。


「僕を振り返ると、彼は笑って言った」


 目の前の彼は冷たさのない代わりに、どこか諦めたような、哀しい笑いを浮かべている。


「駄目ですよ」


 優しいけれど、芯のぶれない声で続けた。


「死ぬなら、ほかでやって下さい」


 彼の声を通すと、なぜか突き放しではなく、励ましに響く。


「僕も今日いっぱいはここのスタッフだから、と」


 今日いっぱい、とゆったり告げられた日本語が胸を柔らかに刺した。

 広東語なら、どう言うのだろう。


「僕よりずっと若い男にそんなこと言われたら、とてもできない」


 彼は言い終えた唇を噛むと、肘掛けの上の左手に目を落とした。

 手には顔より年齢が出るというが、その説に従えば、この人は私より若くてもおかしくない。


「だから、エレベーターで下まで降りた」


 ビロードの肘掛けの上で一度は開きかけた左手が再び固く握り締められる。


「行くあてもなかったけど、とにかく外に出ようと思って」


 握られた左の拳が震え出す。

 まるで彼の意思を離れた、一個の独立した生き物のように。


「ロビーを通り過ぎたところで、外からドシンと、何かが地面に強くぶつかる音がした」


 ドシン、と、一瞬、本当にこのロビーの床にも震動が走った気がした。


「僕は見てないよ」


 目の前の彼は、再びこちらに振り向けた頭をゆっくり横に振る。

 黒髪が薄いオレンジ色の灯りをつややかに照り返した。


「落ちてきたのが、誰だったかなんて」


 感情を消した瞳は黒茶色のガラス玉のようだ。

 この人は、本当にき通したい嘘は下手なのかもしれない。


「僕だけじゃなかったんだ」


 声を小さく落としたのに、瞳に宿った光は揺れて溢れる。


「嘘をついていい日にホテルから飛び降り」


 彼は自分をも嘲る風に笑った。

 透き通った粒が目許をゆっくり伝っていく。

 しかし、その澄んだ雫は滑らかな頬の途中まで来たところで、急に加速度を付けて転がり落ちた。


「本当はまだ生きていたい、誰か止めてくれと思いながら」


 彼は左手で鼻を押さえると、打ち切るように短く啜り上げる。

 そんな風に開いて動いたところを見ると、男の人にしては小さく華奢な、指の細く長い、そして、不気味なほど生活の荒れが認められない手をしていた。


「後は、ただ、走って逃げた」


 観念した犯人が自供するように、彼は目を伏せて続けた。


「人が死んだ場所から、離れたかったんだ」


 彼もやはり人の子なのだ。

 目の前で起きた死にはそんなにも揺れ動くのだ。

 その発見は、妙に私を安心させた。


「走り疲れた後は、ひたすら歩いた」


 語る声に疲れが滲む。

 右手に持ったままの紙コップが重たげに見えた。


「ホンコンなんて狭い街なのに、だだっ広く感じたよ」


 嘆息と共に彼の口から零れ落ちた言葉が、ロビーの高い天井へ漂っていく気がした。


「一度も同じ場所には戻ってないのに、どこまで行っても車のクラクションが聞こえて、コンクリートと汚れた水の匂いがした」


 それは東京でも同じではないのか。

 頭の中をそんな疑問がふと通り過ぎるが、あるいはこの人にとっては、生まれ育った街がそんな風にしか感じられなくなったのが一番辛かったのかもしれない。


「逃げても、逃げても、街が追い掛けてくる」


 この人の認識が病んでいたというのが正解のはずなのに、飽くまで平静に語る姿を目にすると、彼の言葉の方がなぜか真実に思える。


「いつの間にか辿り着いた街角では、僕が死んだという号外が配られていた」


 十二年前、ネットのニューストピックで「香港俳優レスリー・チャンさん自殺」という文字列を目にした瞬間と同じように、息が止まった。


「テレビもレスリー一色」


 レスリー、と目の前の彼が口にすると、むろん、彼自身でもなければ、私がスクリーンで見た人でもない、また別の誰かに思える。


「僕の人生でも、一番注目された日だな」


 まだ、不惑にも届かない面影を持つ彼は笑って、そして、また低く落とした声で付け加えた。


「シメーテハイされてる気分だったけど」


 指名手配よりもっと奇怪で理不尽な状況だ。


「みんな、号外の新聞やテレビを見て騒いでるのに、誰一人、すぐ傍にいる僕には気付かないんだ」


 人気のないロビーに彼の静かな声が響いた。

 胸の奥がキュッと締め付けられる風に痛む。

 急に、この人と二人で向かい合っている状況が怖くなってきた。


「それで分かった」


 僕は見てないよ、と告げた時と同じく、感情を消したガラス玉の目をしている。


「みんなが惜しんでいるのは、画面に映る過去の僕で、死ねもせずにうろついてる男じゃないんだ」


 うろついてる男、という言葉が、まるでこちらへの冷蔑のように突き刺さった。


「家に戻ろうにも、人だかりが出来ていて、近づけなかったよ」


 彼はまたふっと穏やかだが寂しげな笑いを取り戻した。

 今、この人の傍には私しか残っていない。


「そうこうする内に、エイプリルフールが終わって」


 今日という日も、もうすぐ終わろうとしている。

 そう思い当たったところで、彼の笑顔があやまたずこちらを捉えたまま凍り付いた。


「僕は、みんなに殺された」


 沈黙が訪れた。

 抑えているつもりなのに、自分の息を吸って吐き出す音が妙にうるさく思える。

 私たちを取り巻く空気が、音一つ立てずに重苦しく堆積していく。


 ふっと向かいで、吹き出す気配がした。


「嘘に決まってるでしょう、僕がカレだなんて」


 カレ、と微妙にずれたイントネーションで告げた後に、あははは、と妙に日本人じみた笑いを付け加える。

 レスリーが日本語で歌った時の、どこかぎこちない調子を思い出した。

 この人の方では、たった今、否定したのに。


「遺体は検死して、ちゃんと本人の確認を取るんですよ?」


 笑いを苦くして、乾いた低い声で語った彼の顔は、線がはっきりし過ぎてくまのようにも見える涙袋といい、長い睫毛が濃く黒い影を落とす頬といい、何だか急に老けて見える。


「大体、死んだはずの人間が国を出ようにも、どうやってパスポートやビザを取るんだい?」


 問い掛けよりも説諭の口調だった。

 レスリーならどこかに抜け道を見つけてなし得そうに思えるが、今、私の前にいるこの人にそう話しても、そんな甘い夢は一蹴するだろう。


「あんなに大掛かりなお葬式して、みんなが泣いて送り出したんだから」


 噛んで含めるような調子で言い掛けてから、彼は一瞬、激痛を堪えるようにぐっと歯を食い縛った。


「それで実は生きてたなんて、ふざけた話、誰も許さない」


 吐き出した言葉よりも、語る声の苦さが胸に刃を立てる。

 一番、許していないのは、目の前で語る、この彼自身ではないのか。

 そう思えてならなかった。


「一度死んでしまった人間は、もう生き返れないんだよ」


 冷めて苦くなったコーヒーの匂いが漂ってくる。

 もう美味しくないだろう。

 私がつまんない話を引っ張ったばかりに、この人にそんなものを飲ませてしまうんだ。

 苦々しい気持ちで自分の手に目を落とすと、持ったまま存在を忘れていたペットボトルの中には、あと二センチばかりのお茶が残っていた。

 そのほんの少しだけ溜まっている液体が妙に汚らしく思える。


 ふっと空気の緩む気配を感じて、隣の彼に目を戻す。


「十二年前のエイプリルフール、君は何歳だった?」


 彼は最初と同じ柔らかい笑顔を浮かべていた。

 そんな表情をすると、再び四十前くらいまで若返って見える。


「はたち……二十歳にじゅっさいです」


 普通に「二十歳はたち」と言っても、この人の日本語レベルなら分かるかもしれないが、正しく伝えたかった。


「彼は四十六歳だから、君のオトーサンでもおかしくないね」


 オトーサン、とそこだけ幼く響いた声に応じるように、お腹の中がニュッと一瞬、また突き上がる。

 なぜ、ここでそんな反応をするの?

 私の中には、もう一つの命がいる。


「はい」


 頷いては見るものの、そうしている自分が恥ずかしくなる。

 彼の娘なら、もっと綺麗で可愛くなければおかしいはずだ。

 これがオーディションなら、私は書類選考も通らない。


「もし、あの日、君がマンダリンにいたら」


 真っ直ぐこちらを見つめたまま、ごく穏やかな思い出を語るような声で彼は続けた。


「全てに疲れて、たった一人死のうとしている四十六歳の男と擦れ違って、それがスクリーンで見た彼だと気付いたかな」


 回転ドアの方から、冷えた空気が音もなく流れ込んでくる。

 外では桜がもう花開いているはずなのに、なぜ東京のエイプリルフールの夜はこんなにも寒いのだろう。


「もう、今日は終わっちゃったね」


 つと伏せられた彼の目線を辿ると、私の腕時計にぶつかった。

 文字盤の上の細い長針は、零時を三分ばかり過ぎた位置に止まっている。

 その上を更に細い秒針が天井からの灯りを反射しながら早足で通り過ぎていく。

 秒刻みで動いていく緑の残像が目の前を漂ってきた。


「四月バカはもう、おしまい」


 寂しく笑った顔でまるで景気づけのようにコーヒーの残りをグイと飲み干すと、彼は立ち上がる。


「それじゃ、ドウモ」


 紙コップを持たない方の手を軽く上げると、湿り気のない、いたずらっぽい、次には「また、明日」とでも言い出しそうな笑顔を最後に見せて歩き出した。


 後ろ姿になると、四十歳よりももっと若い男性に見えた。

 あの人、本当は何歳なんだろう?

 可能性のあるどの年齢を当てはめても本当のようでもあり、また、嘘にも思える。


 きらびやかなロビーの風景を映し出す回転ドアが緩やかに動いた。

 さっと冷たい空気が入ってくるのと同時に、私の視野がぐるりと七色の残像に満たされる。

 彼は一度も立ち止まることなく、その後ろ姿は、まるで虹色の残像の中に吸い込まれるようにして消えていった。

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