第二章:蘇りは命日
「どうしました?」
ごく穏やかな問い掛けだった。
だが、相手は、半ばこちらの答えを知っている風に、微笑んでいる。
「いえ、あの……」
上擦った声を絞り出しながら、私は余計にうろたえた。
「レスリー・チャン……さんにそっくりだと思いまして」
別人なら「さん」を付ける必要はないはずだ。
言い終えてから思い当たる。
だが、一方で、何故か敬称を付けないとこの人に失礼な気がした。
相手は柔らかに微笑んだ顔をゆっくりと縦に頷かせる。
そして、こちらにやっと届くくらいの声で告げた。
「だって、僕だもの」
耳の中で、周囲の物音が一度に止まった。
少し離れたところで、金茶色の髪に濃紺のスーツを纏った、大柄な白人男性が、ガラス張りの回転ドアを通り抜けて夜の街に出て行く。
ここ、日本なんだよね?
一瞬、そんな迷いが頭を掠める。
回転ドアが動いた煽りで、微かに冷えた空気がこちらに流れてきた。
温かなコーヒーの香りはまだこちらの頬を撫ぜてくる。
「嘘だって思ったでしょ」
沈黙を破った相手はカラカラ笑って言い添えた。
「いいじゃない、今日はエイプリルフールなんだから」
そして、レスリーの命日だ。
雑誌で見た、葬儀の写真が頭の中で蘇る。
まるで結婚式さながら白い百合の花に埋もれた彼の遺影は、何となく蝋人形じみた無表情な顔つきで、しかも顔の左半分は影に浸されていた。
今、私の目の前にいる相手は、二重を通り越して三重瞼になった左目まで、ロビーの柔らかな灯りの中で明らかにして微笑んでいる。
「今日だけは、シニンが蘇っても許されるよ」
言葉の中からそこだけ飛び出た「シニン」が、頭の中で一瞬の間を置いて「死人」に変換された。
この人はどうやら日本人でないらしい。
目の前の彼は、相変わらず目尻に皺を刻ませていたずらっぽく笑っている。
「そうですね」
目の前の笑顔に釣り込まれて、自分でもぎこちなく感じる笑いを作りながら、私は繰り返し頷いた。
「いつから、日本に来たんですか?」
にわかインタビュアーの口調で訊ねてみる。
きっと、この人、中国人で、あちこちで「レスリーに似てる」と言われ続けて、自分でも意識して似せるようになったんだろうな。
顔からすると、まだ、四十前に見える。
とすると、レスリーが死んだ時には二十代だろうから、その後、本人も年を取ってますます似てきたパターンかもしれない。
この際だから、こちらも四月バカになってやろう。
「ずっと前から」
多分、これは本当だろう。
この日本語の達者さからすると、結構長くいそうだ。
生前のレスリーはカタコトしか話せなかった。
のみならず、日本語で喋ると、母語の広東語で話す時の声より半オクターブくらい上擦って聞こえた。
「ホッカイドーからオキナワまで、あちこち行ったよ」
答える声は低く穏やかだが、日本の北海道や沖縄ではなく、それぞれ独立した別の国に思える。
「サッポロでね、雪が膝まで積もったんだよ」
ビロード張りのソファに腰掛けた黒いズボンの膝を、手を横にして軽く叩く。
すぐそれと特定できるブランド物ではないが、しなやかな生地からして質の良い服を着ていると知れた。
白のセーターも型はシンプルだけど、素材は安価ではなさそうだ。
何をしているのか知らないけど、日本に長らくいてあちこちを訪れていることからして、お金持ちではあるんだろう。
「雪って降ってすぐは柔らかいんだね」
そんなにも嬉しげに話すところを見ると、この人もレスリーと同じ香港でなければ、中国でも雪の降らない南方の出身なのかもしれない。
もう桜の咲く季節なのに、雪みたいに真っ白な毛糸のハイネックを着込んでいるのは、東京の四月がこの人にとってはまだ寒いからだろう。
「それが一晩経つと、すっかり固くなっちゃう」
珍しいものを見つけた笑顔のままだが、語る声はわずかにそれと分かる程度に寂しくなった。
「そうですね」
札幌に行ったことはないが、雪の降る地域に生まれたので、そうした変化はありふれた日常として知っている。
「ずっと軽くて柔らかいままだったら、誰も困らないのにね」
根雪になると雪掻きが大変だとは知っていたが、今までそんな風に考えたことはなかった。
「どうして、日本に来たんですか?」
この人がまだ「なりきりレスリー」として答えてくれるかは疑問だが、もう少し話したいので質問を続ける。
相手は笑いをどこか苦くしてコーヒーの紙コップに唇を付けた。
その様子を見ると、微かに不安で胸がどきついてくる。
この人、もう話を止めて切り上げたいのかも。
見ず知らずの日本人の女に粘着されて、うっかり冗談でレスリーだと言い出したのを後悔しているかもしれない。
「だって、ホンコンにいたら、ばれちゃうでしょ?」
肩を竦めて、再びいたずらっぽい笑いを浮かべた彼の姿にほっとする。
どうやら、もうしばらくはレスリーでいてくれるみたい。
「ナイチにいてもそれは同じ」
ナイチは「内地」、すなわち中国本土のことだ。
中国語をかじった私にも分かる。
一九九七年までイギリス領だった香港と「内地」こと中国本土の間には、未だに色濃く一線が引かれている。
レスリーが亡くなったのは、本土回帰から六年目に入り、内地で発生したSARSが香港にも広がってパニックになっていたちょうどその時だった。
「ナイチのおまわりさん、コワイ」
「コワイ」の「ワ」に力を込めて言うと、相手はまたカラカラと笑い転げる。
日本人のような妙な照れを含まない笑い方を見ると、やはり異国で育った人だと分かる。
「そうでしょうね」
私も釣られて笑いが漏れる。
屈託なく笑っているだけに、偽りのない彼の本音なのだという気がした。
やっぱりこの人も、元は香港人なのかもしれない。
「カナダは昔、暮らして飽きちゃったから、今度は日本に来たんだ」
お金持ちであちこち旅して歩いている身の上なのは、嘘ではなさそうだ。
そして、恐らくは、故郷に生きづらさを覚えて外に出たのであろう境遇も。
「でも、時々、こうして気付かれちゃう」
確かにここまでそっくりだと、レスリーが存命なら、別人だと主張する方がむしろ難しく思えた。
それこそ、別人の名前と生年月日が記載されたパスポートか免許証でも見せないと、レスリーのお忍びだと誤解され続ける気がする。
「日本にもファンはたくさんいますからね」
私みたいに、どこかで生きていて欲しいと願っている人間もだ。
十二年前の今日、レスリーは香港のマンダリンホテルの屋上から飛び降りて死んだ。
それが彼の最後に残した真実なのだとは、未だに完全には受け入れられない。
「だから、来た」
目の前の相手はまるで
そろそろコーヒーも冷めてきたのかもしれない。
いい加減、もう私も切り上げるべきかな?
そう思った瞬間、ポツリと彼の唇から呟きがこぼれた。
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