第6話

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 むしろ、ひどいのはこの後であった。

 クラゲブースを抜けてお土産屋の前まで戻ったわたしは、再びクラゲを見た。また女の子が襲われそうになっていて、そいつを助けた。

 去年のわたしは真弓に手を貸すまで葛藤があったわけだが、今はその時とは事情が違う。自業自得ではなくただ巻き込まれるだけはやり切れないだろうし、あのクジラはきっとわたしにも責任があるはず。

 またも親に変な顔をされたが、軽く頭を下げてその場を去った。

 エントランスに来たときは、高校生の男子の近くにクジラが現れた。彼を突き飛ばしてクジラから助けたのだが、案の定クジラは消えてしまっていた。わたしらしくもないが、転んだふりをしてごまかした。クジラは床にも壁にも直撃することなく消えていた。

 その男にお茶に誘われたが、断った。関わったのはこちらだが、何を勘違いしているのかと腹立たしくもなった。

 計三回も、満天水族館の中でわたしはクジラと遭遇したのだ。これは事件と言ってもいい。

 だが、事態はそれだけに及ばなかった。わざわざ満天水族館の中でと注釈を入れたのはそれが理由だ。

 帰り道。繁華街の中にはまだ新学期でもないのに制服を着た高校生がたくさんいた。新しい制服でいち早く出かけたくて浮かれていたのだろう。

 駅まで向かう道の途中、そいつは現れたのだ。

 部屋でもなんでもない、本当にただの道であるにも関わらず、巨大なクジラが靄がかった姿のまま実体化をしていた。

 そしてその時わたしは油断をしていた。水族館の中で全てが気にし過ぎで終わってしまったからこそ、「大丈夫」と過信をしていたのだ。

 大口を開けたクジラは誰かに目標を定めることなく、ただ何かに向かって突進したのだろう。わたしは疲れていたことを言い訳にしてクジラから目を逸らしていた。

 振り向いたのは、ガードレールに車が衝突したような爆音が轟いてからだった。


「何それ」


 街路樹がぽっきりと折れていた。それも連なって二本。まるで鉛筆の芯のようにあっけなく。その近くに立っていた携帯会社codomoの看板も巻き込まれたように割れていた。

 そこにはすでにクジラの影はなかったが、歩行者天国で車もないし、他の何かが激突した痕跡もなかったので、わたしはあのクジラが激突したのだと思うほかなかった。

 この状況で巨大な質量がぶつかったと考えれば、あのクジラしかありえない。突如として破壊された木に驚いた通行人が集まり野次馬と化していた。スマホで写真を撮っているヤツも多い。

 野次馬に混ざるのは好ましくないが、仕方がないので現場へ近づいてみる。

 こぼれてくる話し声を聞いていると、どうやらクジラの姿は誰も見ていないらしい。

 折れた木は、やはり破壊というのが相応しい様子だった。台風で倒れたのとはわけが違う。巨大なハンマーで叩いたかのように中途半端な位置で折れているのだ。

 砕けた断面を見て、わたしは恐怖を覚えていた。我ながら情けない。

 だが、これは去年とも明らかに違う現象だ。


「これは、わたしたちのせいだ」


 水族館が――いやきっとパパやわたしの負の感情が現実に破壊をもたらしている。

 無意識の内に下唇を噛んでいた。


「畜生!」


 野次馬から数メートル離れた場所で、わたしはそう声に出した。まさかこんなに時間をあけて事件が起こるとは思っていなかった。しかも現実の世界に破壊をもたらしている。

 想像するのは簡単だ。最悪を想定しない方が危険だ。

 あのクジラが暴れ回ったら、街はめちゃくちゃに破壊しつくされる。飲み込まれ、壊される。

 まるでわたしに追従するかのように、クジラは移動している。いや考え方としては水族館と縁のあるわたしについてきていると考えた方が自然。戻っても進んでも八方塞がりじゃないか。

 それでも、諦めることなどできない。私は立ち止って思考を巡らせ始めた。

 事件の現場には警察が集まり、テープで囲っていた。そうか、確かにテロの可能性も考えられる。木を狙う意味はないだろうが、都心の繁華街で威嚇というのはまだあり得そうな話だ。原因に確信があるだけに思いつかなかった。

 太陽は傾き始めていた。人だかりはわたしの位置から見ると逆光で、長い影を作っていた。


「……あれ、砂夜ちゃん?」


 外から見ればわたしはただ立ち尽くしているだけだったのだろう。聞き慣れた声に名前を呼ばれ、声のした方に向き直った。


「なんだ、あんたか」


「いつも通りだけどあたしに対して厳しいよね、砂夜ちゃん。買い物に来たはいいんだけど、騒がしくて様子を見に来たんだ。そこ……何があったの? 事故?」


 姫乃が指差したのはもちろん、街路樹が破壊されたその現場だ。

 わたしは一瞬「知らない」と突っぱねようと思ったが、姫乃に全て話すことにした。


「それ……マジ?」


 姫乃はそう言うと間抜けな声を出した。驚いているのはそうなのだろうけれど、静かに目を丸くしていた。何とも生々しい反応だ。

 驚き以上に、去年の再現――あるいはそれ以上のことが起こることを想像し呆けているのに近い。


「今日って満月の日じゃないよね? それにもし幽霊とかって言うなら……夜でもないのに出てくるのはおかしいし」


「それにあんたなら、満天水族館でまた女の子の声が聞こえるって噂聞いたことがあるでしょ?」


「え? 何それ。知らないよー」


「そうか、高校受験でそれどころじゃなかった。下の学年なら話が違ったかも」


 わたしが言うと、姫乃は確かにと頷いていた。


「女の子の声ってきっと……真里ちゃんのことだよね?」


「そう。実際にわたしも聞いた。そのことと関係がないとは思えない」


「なるほどー。でも、砂夜ちゃん噂を調べに行ったりするんだね」


「うるさい。自分で思ったんだからわざわざ言うな」


 姫乃は会話をすると何かとからかってくる。嫌というほどではないが、一々苛立つ。

 わたしは姫乃に対し、少し早口で答えた。


「とにかく、この状況はかなりまずい。クジラが現実に干渉してるってことはそいつによる破壊ももちろん危険。でもそれ以上に、満天水族館の他の要素まで外に溢れてきたら?」


「それか、あの怨念の満天水族館が拡大しようとしているのかもしれないね」


 姫乃はすっと真剣な表情に変わった。わたしはそれも懸念していた。だが目的が分からない。


「ちっ。こっち側からの入り口が開くのは満月」


「次の満月は……二週間後だね」


 姫乃はスマホで検索をしてから、答えた。

 遅過ぎる。

 その間にクジラが暴れたら、どれだけの被害が起きるというのだ。


「ね、砂夜ちゃん」


「何? 今考えてる」


「そうじゃなくてさ、砂夜ちゃん抱え過ぎだよ。そのクジラっていうのが去年の夏には砂夜ちゃんとお父さんが生み出したって言っても、今現れてるクジラは違うんじゃないの? だって砂夜ちゃんのお父さん――満天水族館の元館長の事件は完全に終わったはずじゃん」


「でも」


 わたしを遮って、姫乃は続けた。押しの強さは、頑固者の真弓の親友なだけはある。


「考えても仕方ない時だってあるよ。砂夜ちゃんはあたしと違って何でも推理しちゃうけど、今はそういう時じゃないじゃん。もし満天水族館の中で去年の夏のような事態が起きてたとしてもさ、まだ何も分からない。考え過ぎたら、疲れちゃうんじゃない?」


「砂夜は賛同できない」


 わたしは考えることを止めたらそこで終わりだと思っている。止まるのが怖い。そういう意味では泳ぐのを止められないマグロと一緒だ。

 だが、姫乃は落ち着いた調子でほほ笑んでいた。そういう余裕が、本当に。


「でも、少しだけ気が楽になった。前と違って、一人じゃないことをちゃんと思い出した」


「もー、砂夜ちゃんは素直じゃないよね。一回くらい『姫乃ちゃんありがとう』って言ってくれてもいいのに」


「うるさいマシュマロ系」


「悪口になり切れてない感じがして嫌な感じなんだけど! 言い返しにくいし」


 少しだけ肩の荷が下りたわたしたちは、ひとまず移動することにした。

 野次馬も増えてきて、警察も対応と調査に追われ現場はちょっとしたパニック状態だ。このままいて身動きを取りにくくなっては困る。幸いにもクジラの影はない。

 姫乃の言う通りクジラの居場所を見つける方法はないのだから、もっと別の情報を集める必要があるだろう。

 喉も乾いていたので喫茶店にでも入ろうと提案した時、わたしのスマホにメッセージが入った通知が来た。

 未来からだった。

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