第5話

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 外に出ると言ってもこれだけ来館者が多い中で順路を逆行するのは気が引けたので、一周回って出口に向かうことにした。

 トンネル水槽ブースから、ステージの方はスルーして世界のお魚ブースへ移動する。そこから専用の扉を開けて、クラゲブースへ。ここはライティングなども展示の一部として気を遣っているため、独立した部屋になっている。

 様々な種類のクラゲが、赤や青、紫や黄色という色とりどりのライトで照らされている。水のゆらめきとクラゲの優雅な泳ぎでライトは自由に反射し、光の絵画を描き出す。ここは、一つの宇宙なのだ。

 すぐに戻ろうとしたけれど、つい見とれてしまう。何度訪れても、決して同じ光景は見ることができない。生命の動きの一瞬一瞬をわたしは目に焼き付けることになる。

 恋人同士だろうが子供たちだろうが、来館者は一様に目を輝かせている。そして同時に、この芸術の一部として溶け込んでいるのだ。訪れた者も各々が美しいと思う方へ足を進め、全身で味わうこと。満天水族館のクラゲブースというのは、来場者もクラゲが泳ぐかのように楽しむことができる。

 このクラゲブースはあの鷺沼理恵子が企画し、五年――六年前に前に新設された展示だ。人間的には認めるところなどないが、水族館の職員そして経営者としての能力は認めざるを得ない。あるいは彼女の、水族館への愛だけは。


「いいね、ここは」


 思わず、口をついて出ていた。

 一人だからだろうか。会話をするのが自分の内側だけだからだろうか。今まで来た中で一番、この美しさを純粋に味わっていた。わたしはこの瞬間、海へ還っている。

 その時だ。


「――嘘」


 わたしが気を緩めたのとほとんど同時。わたしの視界に巨大な影がかかった。

 思わず、見上げていた。

 影の正体はいつか見た巨大なクジラであった。まだ完全に実体を見せず、口の部分だけがはっきりと見え、残りは黒い靄となっている。

 水のないこの空中に、地球最大の巨体が現れていたのだ。


「どうして」


 わたしの疑問も当然のものだ。そう、それは去年の夏。

 パパ、そしてわたしの心の闇はクジラの形を借りて現出した。全てを飲み込もうとし、なかったことにしようとする概念の象徴。

 だがそれは、怨念のよって生み出されたもう一つの満天水族館での出来事だ。ここは現実の世界、と言っていい。

 わたしのいるところから近い水槽の前にも、普通のお客さんがクラゲを眺めている。家族連れだ。母親と、兄らしき男の子と妹らしき女の子、少し離れたところに父親がいる。あの家族はさっきも見たから、突然に満天水族館が『変わった』ということもないはずだ。

 可能性としては、入った瞬間から別の満天水族館に来てしまっていたことか。だが、それはおかしい。扉を通っても境界線をまたいでも、全て同じ時代であり同じ位相の空間だった。

 そうなると余計に説明がつかない。

 この現実世界にクジラが現れたというのだろうか。それはもっとありえないことなのだ。


「そんなこと言ってられない」


 目前の現実で起きていることに対処しないといけない。クラゲブースにいる来館者はクラゲに夢中でクジラには気づいていない。いやたとえ気づいていたとして、そういう模型か演出か3Dの映像かくらいにしか思わない、思えないだろう。

 空中をクジラが泳いでいると言われて簡単に納得できるのは、恐らくわたしと未来、そして真弓と姫乃くらいなのだから。

 天井近くに現れたクジラに目を凝らす。

 クジラは徐々に床に向かって移動しているように見えた。つまり、迫ってきている。その大きな口を開けながら。

 捕食される――危機感が湧く。あのクジラには、本来の性質など関係がない。ただ全てを飲み込もうとすることだけが、あのクジラの行動原理だ。

 そしてクジラは、下降の速度を一気に上げる。

 家族でクラゲを見ている、あの小さな女の子に向かって。


「危ない!」


 わたしは無意識のうちに、少女に向かって飛び出していた。そして彼女を抱きかかえると、間一髪、クジラの軌道から外すことができた。

 わたしはそのままの勢いで、床に倒れ込んでしまった。体を起こしてすぐに少女へ向き直る。

 あのクジラは物理的な質量も持っている。現にわたしはかつてあれに体当たりをされて怪我をしたことがあるのだ。


「怪我はない?」


「あ、あの、えっと、みゆ、なにかした?」


 少女は混乱しているようだった。当然だ。見知らぬ女子中学生――高校生が突っ込んできたトラックから助けるように飛び込んできたのだ。少女は五、六歳といったところだろう、真里よりもずいぶん幼い。

 彼女の様子を見るに、怪我はないようだ。ひとまず安心をする。


「あの、うちの娘を離してもらえますか?」


 わたしに声をかけて来たのは、少女の母親だった。ひどく怒った調子で言うと、少女の手を握り自分の方へ引き寄せた。

 無言で少女から一歩離れ、わたしは辺りを見渡した。女性の怒り方が尋常ではないことから、嫌な予感があったのだ。仮にあのクジラが見えていたとしたら、助けたことにお礼を言われるはずだ。

 それは、つまり。


「いない」


「何がいないの! ちょっと変なんじゃないのあなた? みゆ、行きましょ」


 わたしは一人で狂言を演じていたことになる。

 クジラはすっかり姿を消して、何の変哲もない、ただの美しいクラゲブースに戻っていた。

 少女に突撃する直前でクジラが消えたということだろう。確かに不完全な形だったから、途中で実体を保てず靄に戻ってしまった可能性はある。

 だがわたしの直観は、何か違うだろうということだけをわたしに訴えていた。その正体は分からぬまま。

 わたしは疑問を抱えたまま、あの家族の後姿が遠ざかって行くのを見つめていた。

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