第2話

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 水族館に入り順路に沿って歩くと、まずは東京湾のブースだ。食卓に並ぶような身近な魚も多く展示されている。

 その先へ行くと、今度は満天水族館の目玉の一つ、トンネル水槽だ。大型魚類が遊泳するアーチ状のトンネルでは、海の中に来たかのような感覚を味わうことができる。

 目の前を巨大なエイが通り過ぎたかと思えば水槽の底の方で小刻みに動く小さなエビもいたりする。もはや、一つの小さな海と言っていい空間がそこにはあるのだ。

 今となってはたった一年前にこの場所のこの空間全てを、水槽の壁すら関係なく魚たちが泳いでいたことはにわかに信じがたくなっていた。

 もちろんあれは怨念の世界のことであり、一方でわたしたちの直面した現実であることに変わりはないことは、この胸に深く刻まれている。

 わたしもまた、その闇を作り出した責任の一端を担っていた。


「ちっ。駄目だ」


 思わず舌打ちをしていた。

 満天水族館とわたしの関係性において、昨年の出来事は切っても切り離せない。こうしてかつての自分の軌跡を辿っているだけで、否が応にも思い出される。

 あの日以降満天水族館に来てもここまであの出来事を意識しなかったのは、必ず誰かと一緒だったからだろう。思い返せば一人でここに来たのは随分と久しぶりのことだった。

 わたしが満天水族館に来たのは、ただ水族館を楽しみたかったからだけではない。かつての自分と同じように、別の目的を持って訪れている。

 だが、その目的はわたしにとって本当に達成すべきことだっただろうか。はっきり言って、殺人事件に巻き込まれた父の死の真相を知るためという目的に比べるまでもない些細なことなのだ。

 些細な疑問。取るに足らない噂。

 つまり言ってしまえば、多摩川姫乃がくだらない都市伝説を調べに満天水族館に行ったのと同じ。わたしの動機はその程度のことだった。


「帰るか?」


 まだ来てから三十分も経っていないが、わたしは真剣に検討していた。あるいはわたしにとってここに一人で来るのはまだ早過ぎたのかもしれない。

 年間パスポートだから、金銭的な問題もない。

 ――今日は満月ではないから。

 そもそもが無駄足だったとも言える。

 だが、わたしの予想は裏切られることになった。周りにいる一般客にはただでさえ一人のわたしが珍しかっただろうに、魚も見ないで立ち尽くしているわたしはもっと珍しいに違いない。

 きっとわたしは今、愕然とした表情を浮かべているから。


『――ちゃん』


「この声っ」


 子供の、それも女の子の声だった。

 わたしは周囲を見渡した。小さな女の子はたくさんいる。親子連れが多いのだから当たり前だ。姉妹らしき客も少なくない。

 誰だ、今その言葉を口にしたのは。耳を澄まし、目を凝らした。

 一体わたしはどの子の声を聞いたのだろう。同じ声を探す。透き通った声だ。もう一度聞けば確信が持てる。現実にいる女の子を見つけられれば、それは杞憂だったのだと安心できる。


『おねえちゃん』


 もはや淡い期待だったのかもしれない。

 調べに来たクセに、何もないまま終わってほしいとわたしは期待をしていた。

 だが気づいてしまった今、もう期待なんてできやしない。


「どうして、この声が」


 わたしの聞いた声。

 頭の中に直接語りかけてくるような、雑踏の中でも決して曇ることのない声。

 聞き間違える、はずはない。そもそもこの満天水族館で何も起きないと思ったことが間違いだったのだ。

 そう。それは紛れもなく、中延真里の声だった。

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