エライオンの第一使徒イランプシ
油神エライオンの第一使徒イランプシ──その力量は第二使徒以下とは隔絶している。それは王神族に推挙されて就くエライオンの使徒の慣例に外れて、第一使徒イランプシだけは神その人に見いだされた存在だったからだ。
『油』の大権能を構成する小権能は──『油』、『圧搾』、『聖別』、『精製』、『疎水』である。またエライオンは信奉する者に火の元素術、退魔術、変性術への適性を与える。一方で水の元素術への適性を衰えさせるとともに、水への護りも与えてくれる。
蝗災と池沼の女神アクリダを東に置くクリソピアトの神として、エライオンほど適した神はいない。
軍を動かしての侵略を古代の協約に禁じられたとはいえ、アクリダの操る蝗災は脅威である。油は蝗の羽を絡めとり、天地を覆う大群を纏めて焼き滅ぼす。
また腐敗の邪神に後援される地獄の公主としてのアクリダは死霊術にも精通し、女神の臣民の多くは地獄からすくいあげられた屍人である。聖別された武具術理は、そういった幽世の住人に対して致命的な力を発揮する。
リィムネス湿地の西への拡大を食い止めることも、エライオンでなくば容易ではない。『疎水』の小権能によって引かれた境界線を越えて、湿地は拡張することが無かった。
エライオンの司る権能は、アツァーリの地の中原たるクリソピアトの神として相応しいものであった。
さて第二使徒以下の使徒が王族の専属守護として扱われるのに対して、イランプシはエリオロポス王宮全体の守護者である。
スタフティの師であるツァーリオに伝え聞いたことによれば、イランプシも彼と同じく
エライオンの第四使徒プロドシアが、メティオーテ第四王弟に推挙されエリオロポスに入るとき、このイランプシとの間で一悶着あったらしい。
正しき善なるエライオンの神殿に、竜成人はふさわしくない、というのがイランプシの主張だった。
正しさ──とは、何か。竜は竜として、人は人として、神は神として、そうあれかしと定められた正しき姿であらねばならぬ──それが、イランプシの言うところの正しさであり、指摘されるところのプロドシアが持つ狂いであった。
その種族を人種とするにしては、プロドシアの容姿は異形と言わざるを得ない。
力ある闘士を求めたメティオーテの強い推挙によって、この件は決着したのだが、以来イランプシは厳しくプロドシアに使徒としての節度を求めてきた。
「エリオロポス王宮は神域としては異例の自由さでなあ。今でこそ南部の政変があったために窮屈な場所になっているが、当時は神族でない者も出入りすることを許されていた。にも関わらずな、イランプシは王宮の最奥に占宮司として居を構えていたが、その占宮には神族のなかでも契印と結んだ限られた者どもしか立ち入ることは許されていなかったよ。」
竜騎士プロドシアは日暮れまでは教会の屋根に登り、追討軍を警戒していたが、夕暮れが近づくと降りてきて僕を食事に誘い、状況を語り出した。
カルエはプロドシアがメティオーテに仕官する切っ掛けとなった街だった。北辺から放浪してきた騎士が、貯水池に産み付けられた蝗の卵を駆除したことで、街は今もプロドシアに礼を尽くしている。
「降りたい者はすでに街から出した。残っているのは都市部に落ちても流民同然になるしかない、生粋の北部人だけだ。追っ手も壁を崩すまではしたが、市内に無茶なことはしない。どのみち、おれが逃れようと思えば一度南に迂回せねばならんのだ。」
カルエの西には北辺山脈から流れる河が続いている。その支流が少しばかり北で別れて、東の貯水池に引かれている。『疎水』の呪いを受けたプロドシアを逃そうとすれば、街から南に下らねばならぬ。相手もそれは承知の上で南に陣を張って待ち構えているのだ。
「では、打って出て敵陣を破りますか。」
僕の問いかけに、プロドシアは頭を振る。
「イランプシは卓越した占術師だ。交戦すれば必ずや奴が現れる。」
その証拠に──と、プロドシアが教会の床に雑多に積んだ紙束から、帳面を一冊と、書簡を一通取り出した。促されて帳面を読めば、それは街に備蓄された糧秣の記録だった。籠城するとなって備蓄の分配で揉めぬようにと、商人が一切を記帳して供出したのだという。
「その帳面が出される前日に、敵陣から使者が来ていてな。ただ一通、この書簡を置いて帰っていった。」
香油の芳しい匂いが焚き染められた書簡には、ただ一日を指す日付が記されていただけだ。この夜から数えて凡そ一月後。
「ちょうど、その日付に備蓄が尽きる。」
賢察──否、帳面が提出されるよりも前に日付を言い当てたというのなら、これは未来の予知を成す全知の能力に等しい。
僕は、少しばかり焦りを感じ始めていた。未来とは確定した事柄ではない。複数の可能性が絶えず揺蕩うなかで、絡み合う因果の縄が結ばれた結果のようなものだ。複雑かつ難解でいて不安定。
それでも、可能性を予め知ることができるならば──。
「何か条件があるはずです。エライオンは占術に加護を与える神格ではないはず。」
プロドシアはすでに思い当たる節があるらしかった。
「イランプシは──定命の者ではない。恐らくだが神格に近い性質を帯びた精霊だろう。貴公の師であるツァーリオ殿がそうであるように、古紀より生きる存在であれば支配する地域に限定して全知に近しい能力を持つことは在り得る。」
占術とは情報を扱う魔術である。故に占術師は未来を知り、過去を知る。そして何よりも己が何者かを他者に明かすことなく振る舞うことを好む。
「プロドシア殿、僕は一度北辺に戻ります。使者がこのような書簡を寄越したということは、その日までは猶予があるはずです。」
これは一種の賭けだった。しかし確信に近いものが僕にはある。正しき善の神格に仕え、王宮の秩序を厳しく保つイランプシが、通知した日付を違えて街を急襲することはないだろう。プロドシアの指摘したように神格に近い力を蓄えているのなら、己の在り方に反する行いは力を減じることに繋がるはずだ。
「我が子だけでも連れて行ってもらいたいところだが、生まれるまでは動かせぬ。いざとなれば召喚術で呼びだしてもらいたいが、それが中身にどう影響するかおれには分からん。」
必ず戻ると約束し、僕は夜のうちに街を出た。地域を限定された全知であるのなら、策を巡らせるにしても一度はクリソピアトを脱出しなければならない。今の僕の力量には余る相手だ。
北門を抜けて踏み固められただけの道を東へと走る。草原はやがて森へと変わる。その奥に貯水池はある──はずだった。
「帰れると思ったのかね──」
ツン、と鼻に届く香り──風雅でありながら、自然の森の香りの中であまりにも強く主張するそれは、プロドシアに見せられた書簡に染み付いた匂いと同じだった。
耳に響いた声は中性的であり、年齢を感じさせない無機質さがあった。
干上がった貯水池の中心、露わになった地底に刻まれた
深紅の魔術師然とした外套姿の男は、振り返ることなく言を紡ぐ。
「困るのだよ、アクリダの器だのアツァーリアンの生き残りだの──埒外の化け物を連れて来られては。」
投げかけた鑑定は届くまでもなく霧散した。こちらの襤褸の中では、腰の竜眼が忙しく眼球を動かしている。僕の程度では察知しきれない鑑定が、四方八方から飛んできているに違いない。
「なに──君も負けず劣らず。もうご存知なんだろう?私が何者かなんてことは?」
男──おそらくこの男がエライオンの第一使徒イランプシだ。僕が浅はかだった。街に仕掛けずとも、僕の帰路を絶つぐらいのことは当然やってくるはずだ。相手は未来を知っているのだから。
振り返らぬままに、男が異能を振るうと涸れた貯水池に流れ込んでいた用水が黄金に変色していく。男の纏う香りはますます強まり、僕の鼻腔を鈍らせる。『油』の異能──しかも、ただの油じゃない。香油だ。
男は油を指先で一すくいすると、鼻先まで持ち上げて香りを確かめた。その指先が赤熱すると漂う香りが一際華やいで、風とともに舞っていく。
「我が神スコーリアの兄弟神であらせられるエライオンの使徒、イランプシ殿でございましょうか。」
分かり切った問いに、分かり切った答えを強要される──そんな窮屈さとともに、場が支配されていく。
「いかにも──私が黄金の油神エライオンの第一使徒、イランプシである。」
見え透いた問答に、男は満足げだった。秩序──イランプシの考える秩序が、そこに垣間見えた。最上級の占術師を、更に凌駕するこの男にとって、秩序とは己の掌中に全てが収まりきることではないか。
正しき悪神ゼキラワハシャに仕えるチャオ・シィの秩序が、『忘却』と『統治』による支配であったのに対して、この第一使徒の秩序は全て、文字通りの全てを知り尽すことなのだろう。
故に──このやり取りは未だにイランプシの見知る未来の内側に過ぎない。師父ツァーリオはこの地において最強の使徒と呼ばれている。それは僕も疑うところではない。だが、この眼前の魔術師の得体の知れなさは今まで相対した、どの者よりも不気味だった。
「楽にしたまえ、スタフティ君。私は君と取引をしたいだけなのだ。」
イランプシは指先から垂れる油をずるずると変質させて蝋のような固形へと変えた。見る間に蜜色の卓と椅子が岸辺にこしらえられる。エセーリオの神王族が座するに相応しい緻密さで、細かな細工が施されている。
油の水面を沈むことなく渡って、イランプシは椅子に掛けた。僕が疑いの眼差しを向け、魔剣を抜き打ちにする姿勢を崩さずにいると、彼は苛立った声をあげる。
「本来なら──君のような狂い餓鬼とは話などしないのだ。いいからさっさと座るがいい。」
渋々と座れば、卓上には菓子と飲み物が現れた。先ほどの手際もそうだったが、イランプシは変成術にも堪能であるようだ。
「これはエセーリオにとって命に等しいエレオピタというものだ。君の口には合うかわからんが、まあ一口食べてみたまえ。何、口にしたからといって即座に属性が変質するような代物ではない。」
未だに竜眼は激しく瞬き続けている。僕は自己鑑定を行い、自分の状態を確認するが心術をかけられているような形跡はなかった。
不思議なことだが、机越しに正対してイランプシを直視しているにも関わらず、彼の面相は陰になるか霞の如くぼやけて明らかにならない。激しい認識欺瞞が纏われているのだ。
僕は意を決して勧められたエレオピタを口にする。舌触りの良い菓子ではあるが、甘くもなくしょっぱくもない。狂にして中庸の僕には、どうとも言えない風味に感じられた。
「分かっているとも、特段美味くも不味くも無いのだろう。──私もそうだ。エレオピタなどというのは定命の者が耐えられるように混ぜ物を工夫した代用品だ。神族であれば神の御手に搾られた精油を直接に頂くのが最上。」
語りながら、卓上に置かれたイランプシの右手からは絶えず油が流れだしている。油だまりとなったそれを、彼は指先でなぞっていく。現れたのはアツァーリの地を象った地図だった。更に差し出された左手には赤い花蕾が握られ、潰されている。流れ出す赤が地図の北を染めていく。
「すでにスコーリアが隠棲から醒めたことは存じている。エライオンの名代としてお慶び申し上げる。また、君の御父上にあたるナーブ殿が祖王として即位し岳国を建てられたことも存じている。これもまた慶事である。エライオンは兄であるスコーリアが現世に回復されたことを、歓迎しておられる。」
地図上の赤は最北から浸みだして中央へと向かっていく。
「ここまでが──エライオンより言付かった名代としての言葉だ。いいかね、スタフティ君。エリオロポスは北辺におけるスコルボレア岳国の建国と、神スコーリアの権勢の及ぶ範囲の統治を認めることにした。分かるな?これがどれほど寛大な処置か。」
流れる赤き水が、黄金の皿を伝ってカルエが位置する場所に到達する手前──イランプシは強くその箇所に線を引いた。
「カルエは渡さん。プロドシアも──その忌子にも関わるな。それが条件だ。」
イランプシの声音が強まるとともに、卓上の油だまりに火が付き燃え上がる。燃え盛る火の向こうに欺瞞を解いた使徒の顔があった。強い意思を感じさせる銀色の眼球が二つ、射抜くように煌いている。額には輝く印章が刻まれている──炎に炙られてそれが何を意味するものなのかは見通せない。
僕は──この状況を知っていた。ネクタルは全知無くとも、この状況を見据えていた。三年後の騒乱の地はエリオロポスでなければならない。さもなくば北辺は戦火の代償を支払うことになる。故に中間地点であるカルエを手に入れることは、必要な条件なのだ。
「それは──できません。カルエにはすでにスコーリアの権威が及んでおります。」
『蝗災』の異能によって変色させていた左手が、灰色の呪腕の相へと戻っていく。燃え盛る油火の中へと突き込まれる腕が炎熱に火膨れしていく。それでも構うことなく、僕は卓上の火元を──錆びつかせた。
泡立つように再生する呪腕が、黄金の地図を赤黒く変色させていく。カルエを横切る半ばの線が、改めて浮き上がる。
心中にスコーリアへの祈りを捧げる。欺瞞が解かれたイランプシの目に、理解できないものを見る色が浮かんでいる。初めて、僕はこの男の掌から脱したらしい。北辺から地勢を見通す宰相姫の思惑までは、占い切れなかったか。
「我が神スコーリアよ!カルエの民を祝福したまえ、虐げられしエセーリオを新たに同胞として迎え入れたまえ!」
素早く抜き放った魔剣を、西へ向けて振り下ろす。『錆』の異能が神威を纏い、波のように僕の身から放たれる。油は濁り、森は枯れ、貯水池にまで引かれた小川は赤く染まる。
「貴様ッ、治めるべき地を汚すとは狂ったか!」
狂神の使徒に──あろうことか、その神子に──狂ったかとは嗤わせる。
「正しく善なるイランプシよ。お前は言ったな、スコーリアの権威及ぶ地の統治を認めると。見ろ、カルエの地は半ばで分かたれたぞ!何より──治めるべき民を都市に押し込めて兵糧攻めにする貴様の言に理などあるものか!」
銀髪の魔術師は、すでに欺瞞を深くして己の表情を隠していた。だが、その背後には陽炎の如く燃え上がる神威が感じられる。
これは賭けだ。正しく善なる──イランプシは己の言を過たぬはずだ。信ずる秩序を崩してまで僕を焼かぬ、はずだ。
イランプシの周囲に聖火が
「よかろう、確かにスタフティの言にこそ理がある。カルエを攻めたことは私の過失である。」
未だ、イランプシは火を収める気配が無い。恐らく、こうしている間にもこの魔術師は占術を駆使して未来を手に掴もうとしているに違いない。彼の脳裏には無数の不確実な未来がよぎり、それぞれの点を線で結ぼうと更なる情報を求めているのだ。
「だが王宮の秩序を乱したプロドシアは許さぬ、出頭し罪を贖うべし──その子は神族として丁重に育てることを約束しよう。」
「僕はすでにプロドシアの子を後見する立場にある──成人までは面会させてもらおう。」
僕らは夜明け近くまで詳細を詰めた。カルエの門を戻り、プロドシアに顛末を語った。竜騎士は潔く出頭に応じ、王宮において圧搾の刑罰に処されることとなった。イランプシは──刑の執行を、子が生誕するまでは免じることを申し渡した。
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