宰相ネクタル
「儂は反対じゃ。アクリダと講和など認めておらんぞ。」
地獄の離宮から増殖の司直に送られて、現世に帰ってきた僕達を待っていたのは、スコーリアの第一使徒ツァーリオからの抗議だった。黒鉄の冠を戴くツァーリオは、厳しい面持で僕と向かい合っている。
スコーリアの契印を身に宿すツァーリオは、神の領地である北辺山脈という土地に縛られている。彼は北辺山脈に起こる事象を見通す目を持っているが、逆にその外には疎い性質を代償としていた。
僕はツァーリオに師事して第二使徒としての素地を育ててもらった恩義がある。しかし近頃は、山脈を離れられぬ師父に代わって、鉄竜との協約締結やクリソピアト北部の調略のために下界に出ており会う機会を持てずにいた。
「しかし師父よ、これはスコーリアが望まれてのことです。すでに邪神の許しも得て講和は成った後なのです。」
ツァーリオの心情は理解できる。長くスコーリアの隠棲を守ってきた第一使徒にとって、アクリダは永年に渡り戦い続けてきた宿敵である。
「一時的な和議なら良いわ。数年のうちに蝗災が起こるであろうことを見越してのものであるならばな。しかしスタフティ、そなたあのアクリダの娘御を嫁に迎えるというではないか。この先、破約する可能性の高い約定じゃと儂は見ておるが、そのときにはどうするつもりか。」
師の言葉は、生後四年に満たない僕の視野には無かったものだ。四〇〇年以上の時の流れを見てきた使徒は、アクリダとの講和を一時的なものと喝破した。
師は元素術で盛り上がらせた塚に腰かけていたが、僕が納得いかない様子を見せると立ち上がった。北辺の最も高き山巓には、降り注ぐ陽光を遮るものはないはずだった。しかし師父ツァーリオの巨躯が伸びあがると、その影が僕の上に圧し掛かる。
「立てい!」
頭上から師父の声が飛ぶと、僕はすぐさまに胡坐を解いた。宙返りから拳闘の構えをとれば、巨大な拳が迫ってくる。
師父との組み手においては柔の理合を用いて受け流すことを禁じられている。長身巨躯のツァーリオが振るう膂力を正面から受ければ、僕の五体は弾け飛ぶ。修行を始めた頃には、理不尽に思えた制約が何のためのものだったのか、今ならば理解できる。
人外の巨大な魔性との戦いが、狂神の使徒には待ち受けている。ツァーリオを丸呑みにするほどの巨体を揺すり歩く竜種などが代表だろう。統率者に率いられた竜の群れを薙ぎ倒す力が、アツァーリの北辺を護る使徒には求められたのだ。
極度の集中が時の流れを鈍化させる。以前の僕ならば、ツァーリオの拳に反応することすらできずに上体を潰されていただろう──しかし、今なら見えている。
迫りくる拳に向けて、右の正拳を放つ。衝突の衝撃は師の一撃をわずかに逸らし、僕の腕を肩口まで破砕した。筋が千切れ、皮を破って骨肉が露出する。
だが、まだだ。地獄での婚儀を経て僕は増殖の司直から祝福を授けられている。太母の係累と契った者に貸与された『増殖』の祝福──その小権能にある『再生』が働き、潰れた拳を時の流れに逆らうように再生させた。
師父は躊躇いなく二撃目を放ってくる。再生されたばかりの右腕は間に合わない。身を捻って腰の回転を乗せた蹴りを見舞う。ツァーリオの拳はわずかに逸れ、繰り返しのように右脚が裂け、瞬時に再生する。
衝撃に膝をつけば、頭上から三撃目が降り注ぐ。両手を組んで撃ち下ろされる一撃は、それまでよりも明らかに威力が高い。
──逸らせない。組まれた拳の影が、僕の上体を覆いつくす。この一撃を受けて再生、できるのか。これまでも修行の中で幾度も肉体を破壊され、そのたびに最上級治癒術による蘇生を受けてきた。それでも未だに死の恐怖は拭い去れない。
僕は咄嗟に左腕を前にかざしていた。触れるもの一切を腐食させる『錆』の呪腕が疼く。師父ならばこの異能さえも軽々と凌いで見せるかもしれない。否、あるいはこの力なら鉄の王を上回る可能性が──。
ツァーリオの拳に向けて、僕の魔掌が吸い込まれていき、触れ合う直前──漆黒の虚空へと呑まれた。
僕と師は互いに驚きに目を開く。宙に口を開けた穴が、僕らの手首から先を飲み込んでいる。得体の知れなさに、素早く引き抜く。ぬるりとした感触は残ったものの抵抗なく虚空を脱することができた。
「双方、そこまでになさい。」
声の方を見れば、そこには黒髪の美女が立っていた。蝗災の女神アクリダの神族にして、今は僕のもとへと降嫁した娘。ネクタルである。
ツァーリオが気合いを込めて喝を放てば、その手首を戒めていた虚空が弾けた。彼は気味悪いものを見るような目付きで、ネクタルを睨み呟く。
「地獄につながる沼なんぞ、軽々しく顕現させんでくれるかな。ネクタル姫よ。」
ツァーリオの言葉を意に介さず、ネクタルは言い放つ。
「先ほどの問答にお答えしましょう。いざとなれば、私がアクリダを討ちます。」
ネクタルの言葉はツァーリオの想定に無かったらしい。ネクタルの真意を確かめるべく、話の先をと求めた。
「すでに私はアクリダの器としての役目を離れております。なにより太母は母よりも私を寵愛しておられる。」
狂にして悪なる邪神として、孫が母殺しに挑むなら、太母はネクタルに荷担する。
地獄の邪神は無数の渾名を持つが、その一つには「全ての母を喰らうもの」と呼ばれている。唯一無二の母であろうとするがため、母と呼ばれるものを邪神は食餌の対象とする。それは娘であり従属神であるアクリダといえども例外ではない。
これはアクリダにとっても既知の事実らしい。故にアクリダは、力あるネクタルを遠ざけた。
「裏を返せば、母殺しの資格者たる私を預けることこそが約定の担保となるのです。」
ううむ、とツァーリオが唸る。今のやり取りを通じて、第一使徒ツァーリオは新たに現れたこの姫君を受け入れることを承諾したようだった。
「して、ネクタルよ。ナーブに会見しておったようだが、どのような用向きか。」
北辺山脈を見通すツァーリオの知覚は、ここを訪れるまでネクタルがスコルの酋長ナーブと会っていたことを知っていた。
「スコーリアは、ナーブを祖王とすることに合意しました。」
唐突に告げられた内容は、再び僕とツァーリオを驚かせる。
祖王──つまりスコーリアは正式な眷属として認めたスコルから、神族を輩出するための祖となる者を選定したということだ。
それはスコルの族長であるナーブが奉ずる神スコーリアと交わるということでもあった。
「それは本当なのか。」
僕の声は思わず上ずっていた。父がスコーリアの閨に導かれたことへの嫉妬めいたものが胸の内に沸き起こる。そもそもあまりに性急なことではないか。
「私が勧めた。スコーリアは正統な王族に契印を契るべきだ。今のままでは土着神として現世における信奉を高めることはできない。」
今のまま、つまりツァーリオが契印を身に宿し、護っている状態ではいけないということか。
「ネクタルよ、何を企んでおる。」
師父の声音は先ほど以上に剣呑なものとなった。ネクタルを陣営に迎えることは認めても、過ぎた干渉について咎めねばならないという意図が伝わってくる。
「企む──企んでいるのはアクリダと太母です。私はスタフティの妻として、夫の仕える神の行く末を案じて最良の手を施そうとしているだけのこと。」
そこからの師父とネクタルの問答は高度な神学の知識を要した論争であり、僕にはついていけなかった。最終的に師父が折れ、ナーブを祖王とすることに同意した。
師父と別れ、山を降りる道中にネクタルは改めて僕に議論の要諦を教えてくれた。
「『鍛冶』と『錆』の大権能が相反し、スコーリアの神格としての在り方を蝕んでいる問題は解決できる。要するに調和が取れていないのよ。
それが、地獄の邪神がスコーリアを後援しようとする動機なのだともいう。権能の組み合わせに自身との相似を見出した邪神が最終的に企図することは、スコーリアを喰らうことだ。ともすれば『鍛冶』と『錆』の契印は分割され、『創造』と『腐敗』の大権能の一部として取り込まれる可能性もある。
「アクリダはアツァーリとの決戦において
そう言うとネクタルは放浪の中で得た知識として、クリソピアトの人口を計算し始めた。郷士の治める集落に定住する者は、一つにつき三百人。北部から南部までには三百余の集落が点在する。だがエリオロポス王宮の占術師集団は蝗災について常に警戒し、時機が近づけば集落の者らを集めてエリオロポスの燃える壁の内に収容してしまう。
結果として最北部の集落は壊滅するとしても、中央以南については蝗災によって人命を損なうことは稀なのだという。
「アクリダに残された道は三つ。一つは自身の治める蝗と
ネクタルは最後に、一つ目と二つ目の策を選べばアクリダは著しく弱体化し、太母によって呑まれるか、東からのマニターリの侵攻を受けて滅ぶと付け加えた。
アクリダはスコーリアを後援し、エライオンの目を北部に向けさせたいのだ。スコーリアとエライオンの緊張が高まり、人と物資が北部に集中したところを狙って蝗災を起こせば三万人の魂を得ることができるという目論見なのだろう。
「でも、それによって得をするのはアクリダだけよ。スコーリアとエライオンは戦乱によって疲弊し、弱体化した契印を増殖の司直によって奪われるでしょう。」
ネクタルの説明は筋が通っているものの、どうにも納得がいかなかった。
「待ってくれ。それならスコーリアはこれまで通り北辺を守るだけでいいんじゃないのか。三年後にアクリダが弱体化することは決まっているのに。」
ネクタルは自らの胸を指して言う。
「ツァーリオが契印を宿している限り、スコーリアに土着神としての成長は無いわ。今のままでは三年以内にスコーリアの属性は悪に傾き、太母の従属神として従えられることになるでしょう。」
権能の調和──スコーリアは父神アツァーリに対する憎しみを抱き、悪に近しい『錆』の権能ばかりを強めてきた。僕との邂逅を経て鍛冶神としての一面を思い出してはいるものの、未だにその調和は取れているとは言いがたい。
「三年後にスコーリアが正しい道を歩んでいなければ、北辺の全てが破滅する。スタフティ、あなたも例外ではない。増殖の司直から預かった祝福に過度に頼れば、肉の離宮に囚われることになるわよ。」
神々に捧げる信奉によって得た恩寵ではない、一時の祝福──それも邪神の係累による祝福は畏れて扱わねばならないと、ネクタルは警告した。
「あなたの本性は高純度の金属なのだから、肉の離宮で生きた鉱山として貶められる未来が予見されている。あの宦官のように肉体を捏ねられてね。」
させないわよ──と、ネクタルは獰猛に笑う。細身の身体と、端正な相貌からは思いもつかない凶暴な笑みを浮かべて、女は僕を見る。
僕は絶句し、渇いた喉を鳴らすことしかできない。
「あなたの父、祖王ナーブが建国する国の宰相は私になる。」
神代を引きずった第一使徒にも、暴力と神への忠誠しか学んでいない僕にも務まりはしない──ネクタルは一笑に断じて、ナーブを説き伏せたという。
この女はただの姫君などではなかった。アクリダの器として帝王学を叩き込まれ、諸国を放浪する内に見識を高め、地獄を巡って邪神の上位司直の追走からも逃れ切った傑物だった。
その女が魂の楔を解かれて自由を得た。
「ネクタル──君は、僕の妻などになって良かったのか。」
一歩間違えれば、この女は神殺しの英雄になる。直観的にそう思わせるだけの凄みが、今のネクタルにはあった。
僕が思わず問うた言葉に、ネクタルは微笑んで答えた。
「スタフティ──あなたが私の楔を解いたのよ。私の運命を変えた。」
その笑みには、触れる者を破滅させる危険さと、純粋な好意が混ざり合っていた。
中立中庸の属性──善悪正狂のいずれにも傾かぬ純粋さがネクタルの本性だった。
僕に向けられた笑顔の美しさと、その底知れなさが胸を焼く。これほどに拒みがたい好意があるだろうか。
振り返れば、山脈の山巓に小さな人影が見えた。赤髪の少年は僕の視線に気づくと、ふいと顔を背け山陰へと去った。スコーリアの分霊──幼く未熟な神の依代と、このとき僕は訣別したのだ。
祖王ナーブが北辺に建国を宣言するのは、その翌朝のことであった。
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