邪神、饗応すべし
ネクタルを背後に庇い、マニの菌株の前に歩み出る。多脚を虫のように蠢かせる肉茸──ネクタルが抑え込んでいたマニの菌株は、未だに動く気配が無い。株の幹に生えたチャオ・シィの人面瘡からは苦痛からの解放を訴える叫びが、絶え間なく漏れてくる。
僕は信奉する神であるスコーリアに対して呼びかける。現世から離れた地獄の深きにあっても、神への祈りは届いてくれた。しかし、実際的な援助を得るための経路が見当たらない。
スコーリアへの助力を望む様子は、増殖の司直にも見られてはいるのだが、司直は外部からの手助けについて阻害する意図は無いらしい。
「ですが
そう言いながらも、司直は既に装備を提供する形で便宜を図ってくれている。彼女は──コラプションスライムは総じて無性であるのだろうが、自認する性別は女性だろう──どうも、僕とネクタルの婚姻について、かなり前向きな立場にあるようだった。
「近頃は腐敗やら創造のが大きな顔をしておりましてねえ。この増殖こそが、太母の本性を司る最も重き権能であるといいますのに。アクリダ様は非常に優秀な
地方を治める大神であったアツァーリから、定命の身でありながら契印の割譲を引き出したアクリダは、太母の神子達のなかにあって傑出した存在であったらしい。「司直」という位階は太母の係累を督戦し、上位神である太母の意志を下位神に実現させる管理者の色彩を帯びている。増殖の司直は、同輩である他権能の司直らと、互いの権勢を競いあっていたというわけだ。
腐敗の邪神にとって、マニターリの持つ五権能の契印は善性に寄ることを除けば魅力的だ。しかし大いなる邪神をしてなお、マニターリの『合一』に迫られては、主導権を握り続けられる確信は無かったらしい。隙あらば契印を奪い取りたいが、その中には喰らえば蝕まれる毒が混じっているというところか。
司直の知識を受けて、ネクタルが独り言のように呟いた。
「
「まさかとは思うが邪神が介入した動機は食欲だとでも言うのか。」
ネクタルは以前、増殖の司直から逃げる道程で地獄の深淵に降りたことがあった。そこで太母に会見した経験があるらしい。
「素晴らしい!我らが太母は非常な健啖家でいらっしゃいます。なるほど、太母がアクリダ様に指示されたこの試練の本意は──マニの菌株を調理せよという啓示だったのですね!」
ネクタルの示唆を受けて、増殖の司直は興奮した様子を見せる。神の食膳に供する食材を、地獄で調理する?何をどう解釈すればそうなるのだ。
僕には司直がふざけているようにしか思われなかったが、ネクタルの顔を見れば真剣な様子を崩していない。
「祖母様はそういう方だ。」
あきらめろ、というようにネクタルは首を振る。実際に邪神に会った経験のある孫娘が言うのであれば仕方あるまい。スコーリアとアクリダの講和に、上位神である邪神が出てきた理由は理解できた。
「そうなると、先ほど言っていたような方法で菌株を倒してしまって大丈夫か。」
『錆』の異能によって『合一』の侵食を退けながら、菌株の核を抜き出す。だが『錆』によって腐食させてしまっては、食膳に上げることができないのではないか。
「祖母様は『腐敗』の権能を司る神よ。『錆』は兄弟のようなものだ。おそらく丁度良い
中庸神であるスコーリアと悪神であるアクリダが盟約を結ぶことを、邪神が許した理由は──まさかとは思うが毒茸を食う際の味付けのため、だとは言ってくれるなよ。
「『錆』の権能を司るスコーリアを祖母様は好んでおられる。その神子として選定されたスタフティのことも。だからこそ、こうして私の願いを聞き届けてくださり、形だけの講和ではない婚儀を後見してくださっている。」
ネクタルはアクリダから解放され、神の依代としてではない生を得た。これは、その感謝を伝える儀式の場なのだと僕に説いた。そう言われれば宴席に相応しい饗応を用意する必要があるか、と強引に自分を説得した。
僕が理解した様子を見て、ネクタルが段取りを指図する。
「私が菌株の動きを封じる。あなたが核を取り出す。それだけよ。」
「何かあるんだな。」
ネクタルは鼻を鳴らして黒髪を掻き上げた。どこから取り出したのか、彼女の手には緑の宝玉が握られている。
「アグリオアクリダ──アクリダの使役する蝗の卵が宿っている。私が『増殖』の異能を振るえば、即座に孵化して蝗の群れが襲い掛かるわ。同時に体内を食い破り核の位置を教えてくれる。」
蝗が菌株に触れた時点で『合一』の権能に侵される点を指摘してみたが、取り込まれる前に破裂して燃える種なのだという。リィムネス湿地の燃える水が湧く泉に生息するらしい。
言うが早いか、ネクタルは宝玉に異能を振るう。黒い液が染み出てきたかと思うと、柔らかな蝗の幼体を象っていく。急速に成長していくのは異能のためではなく、この蝗に特有の性向なのだという。
ネクタルは蝗の子らに自らの魔力を餌として与えていた。蝗らは主従というよりも、餌を与えてくれた相手を親として認識する。彼女が指先をマニの菌株に向ければ、僕の親指大の蝗が雲霞の如くに向かっていく。
蝗の鋭い顎が、菌株に喰らいつく。マニの肉片を一呑みすると『合一』の権能に侵されるより早く、それらは身を爆ぜさせ、どろりとした体液をばら撒いた。見る間に菌株は真っ黒に染まっていく。多脚の足を齧られ、編み笠から体液を滴らせ、猛烈な勢いで崩れていく。
僕は蝗災の魔女──アクリダが定命の存在であった頃の渾名である──の恐ろしさを目の当たりにしていた。圧倒的な物量が敵を蹂躙する。屍兵、蝗、命を躊躇なく捨てる者どもが、死してなお地を汚していく様を想像する。
「戦いは数なのよ、スタフティ!」
狂笑するネクタルの背から、蝗の羽が生えだしている。コラプションスライムとして再誕した肉体が変化しているのだ。アクリダを降ろしているわけでもなく、ネクタルは自らの身体を変異させることを学んだらしい。
床を蹴り跳躍したネクタルは、衣装の裾を翻して滑空する。離宮の壁から壁へと蹴り飛びながら、新たな蝗が産み落とされていく。
「スタフティ様にも可能でございますよ。『蝗災』の小権能である『相変異』の知識をご参照くださいませ。」
右腕の鎧が口を利く。司直の知識を探査すれば、アクリダから与えられた恩寵である『蝗災』についての理解が深まっていく。
蝗は季節に応じて自らの肉体を変化させる習性を持つ。『相変異』の小権能はその蝗の特性を契印として結んだものだ。状況に適応して、身体を作り替える。人間の肉体を持つ僕にも、それを許す恩寵。
『錆』の聖痕を刻まれた左腕に意識を集中する。灰色の痣が疼き、そこに深緑の血管めいた紋様が上書きされていく。アクリダの印が新たに刻まれたのだ。ネクタルのような羽は必要ない。今の僕に求められているのは、菌株の太い幹を刈り取り、中にある核を捕らえる爪だ。
ネクタルは自在に離宮の宙を舞い、マニを翻弄している。しかし床を見れば、黒々と広がった体液の上に、新たな真菌が繁茂しようとし始めている。
「ネクタル、床を見ろ!」
僕の声に対して、ネクタルは分かっているというように頷いて見せた。彼女の握る宝玉から、一匹の蝗が這い出てくる。他に比べて赤みがかったそれは、菌株ではなく床に撒かれた体液に向けて突撃した。
爆発音とともに閃光が走った。光と音に遅れて熱波が届いてくる。菌株は炎に巻かれて苦し気にのたうつ。だがそれでも尋常ではない生命力を示して、炎の揺らめく狭間から新たな菌糸を生やそうとしているのが分かった。
「スタフティ!核は編み笠の頂点にある!」
ネクタルが叫んだ。滑空しながら、新たな燃料として蝗を容赦なく投下し続けている。
僕の身長の四倍近い高さを睨む。多脚はほとんど齧り尽され、菌株は膝をついているとはいえ、今のままでは届かない。
左腕に、今求められる形状を想起する。皮膚の下にある腱と骨が組み替えられ、肘の関節が外れる痛みが走った。みちり、という音とともに、関節が一つ増えた。皮膚は硬質な虫の外殻を思わせ、指先には鋭い爪と棘束が生え揃う。関節は更に増えていく。みちみちと奇怪な音が自分の左腕から響いてくるのは、恐ろしくもあったが、スコーリアとアクリダの注視が僕を勇気づける。
「我が神スコーリアよ!新たに奉じるアクリダよ!大いなる腐敗の邪神よ!」
神々への呼びかけとともに、僕は自らの両足をも変異させる。変成術による強化だけでは頼りなかった。踵に鉤爪が生え、脚力が強化されていく。
駆けだす先には燃え盛る火の海が広がっている。マニは致命の一撃を加えようとする僕の意志を感じ取ったのか、その道に菌糸を集中させてきた。
「母なるアクリダよ。慈悲深き地獄の太母よ。蝗災は東より吹く風とともにあり、我が子らの命を賭して更に燃え上がらせよ。」
空中にあるネクタルの詠唱とともに、一陣の風が吹く。火は風に煽られ、更に勢いを増す。離宮の天井を焦がして火の柱が幾本も立ち上り、火炎竜巻がマニを焼いた。
僕の駆ける先を、ネクタルの風が開いていく。疾走する僕よりも早く、蝗の群れがマニの根元に突撃していった。それらは爆ぜることなく積み重なっていく。マニの菌糸に侵されながら、仲間の体液に塗れて身を焼かれながら、物言わぬ蝗の丘が目の前に盛り上がる。
「ネクタルの子らよ!その献身に感謝する!」
踏みしめる蝗の道が、僕を上方へと導いていく。抵抗すべく繰り出されるマニの菌糸を、悉く蝗の壁が阻んでくれる。幹の中央にたどり着き、垂直に蹴りあがる。脚の鉤爪がマニを裂き、取り込もうとする菌糸をネクタルの火が焼く。狂にして善の属性力を封じられ、本体からの接続を絶たれてなお、この分霊は再生を止めない。核を抜くまでは止まらないのだ。
関節が増え続け、蛇腹のように折れ曲がった左腕を、下から上へと幹に叩きつける。聖痕が輝き菌糸が赤茶けて朽ちていく。畳まれた関節が伸びるたびに筋力が倍加され、勢いを増した一撃は止まることなく菌株を縦に裂いた。
腐食した部位からは新たな菌糸が生えてこない。天井まで貫通した左腕が、マニの核を掴む。咆哮とともに全力で引き抜く。みちみちと核の結合を裂いて、伸びきった左の一撃が弧を描く。龍の首のように離宮の壁を抉りながら一周して戻ってきた左腕には、確かにマニの核が握られていた。
縦に裂けた菌株が、呻きをあげながら二つに別れて倒れていく。蝗の死骸の丘の上で、僕は左腕を天に掲げた。飛翔するネクタルを右腕で
ネクタルとともに、大いなる腐敗の邪神を崇める聖句を唱えた。
「捧げよ──然らば、与えられん。」
掌中の核は赤く錆付き、マニの意志は感じられなかった。その核が黒く融け蒸発するように消えていく。同時に、マニの菌株の残滓も蒸発した。離宮よりも更に深く、地獄の深奥というには、どれほど遠いのか分からぬほどの位置から、満足気な邪神の感触が伝わってくる。
「素晴らしい!素晴らしいですわ!スタフティ様、ネクタル様!」
どこにいたのか、増殖の司直が拍手と賛辞を送ってくる。腐敗の邪神は満足し、この婚儀を認めたとのことだった。同時にスコーリアとアクリダの講和についても許しを出したと。
「次の蝗災を三年遅らせてくれるそうよ。アクリダが感謝している。」
右腕に抱いたネクタルが呟く。アクリダはアツァーリとの戦いにおいて、腐敗の邪神から援助を「前借り」している。その負債として蝗災を起こしてはクリソピアトに生きる命を供物として捧げる使命を負っているのだ。
今回の供物に満足した邪神は、その返済期限の遅延を許したそうだった。
スコーリアの視線は少しばかり寂し気であった。第二使徒が妻を娶ること自体は祝福してくれているようであったのだが。
「私は神族としての教育を受けている。使徒が神の閨に入り、奉仕することを咎めるような狭量な妻ではない。」
ネクタルの宣誓が届いたのか、スコーリアは満足げに視線を外した。僕という当事者不在のやり取りであったことについては、諦めるしかなかった。
◆
ナシア島の浜には、多くの漂流物が打ちあげられる。その砂浜に、金髪の美丈夫が胡坐を組んでいた。彼の周囲には複雑な陣が何重にも敷かれている。
彼は正しき悪の属性の身を中立悪へと転向していた。正悪神ゼキラワハシャの神族が、本来このような振る舞いをすることはあり得ないことである。
その神族──クルサーン=アザッハがこのような行動に及んだ理由は、ただ一つである。そのために深き場所へと至り、彼は帰ってきた。瞑想から戻った彼の前には、星の無い夜空が広がっている。肺腑の奥にまで息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。鍛え上げられたアザッハの肉体をして、だらだらと脂汗が流れ落ちていた。
波の音が、ゆっくりと遠のく。絶えるはずのない潮の満ち引きが無くなっていくのだ。深淵から、一つの魂が流れ着いてきた。男の下半身、去勢された後の残るそれは、椰子の実のように丸められている。
アザッハは落涙しながらも、宦官の魂を拾いあげる。脈打つ肉塊が、口を利く。それは謝罪の言葉を述べようとしたが、王族の涙を感じ取って口を閉じた。
地獄の太母の食べ残しを、アザッハは乞うて拾いあげてきた。正しき身では地獄の深淵に降りることは叶わぬために、彼は属性を転向し、またナシア島の住人の半数を虐殺し供物として捧げたのだ。チャオ・シィは還ってきた。狂気に浸され、地獄を巡り、己の主のもとへと。
しかし、男はミーセオニーズとしての気性を忘れてはいなかった。ただで奪われるだけというのは騙し謀りを鍛えた人種の性として我慢ならないものだったのだ。
男の身には、一筋の粘り気の強い菌糸が張りついていた。
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