地獄の婚儀
肉色の寝台を撫でながら、アクリダは笑っている。それは僕が先ほどまで戦っていた、ゼキラワハシャの第三使徒──チャオ・シィの魂を素材にした寝台である。
「戦勝の祝いをと思うてな。増殖に加工させたのだ。そなたにやろう。」
「生きているのですか。」
僕の問いに、増殖の司直が当然であるというふうに頷いた。
「もちろんでございますよ。スコーリアの怨敵である正悪神の使徒を、足蹴にしてお楽しみくださいませ。まあ、これの用途はそれだけではございませんが──」
アクリダの白い脚から、鋭い棘束が生え、肉色の床を裂いた。声帯は喪われているにも関わらず、寝台から苦悶の呻きが漏れてくる。
「急造でしてね。未だに内装が無粋で申し訳ございませんが、お納めください。」
寝台──だけではなかった。この離宮。肉色の床、壁。蠕動する全てが、チャオ・シィを素材として造られていた。
アクリダは、男が宦官であった証の部分を、鋭い爪で裂いて愉しんでいる。
「婚儀の引き出物は、また別に用意させよう。ネクタルとの閨には、この離宮を自由に使うが良い。太母もそなたを気に入っておられる故、地獄に立ち入ることをお許しになる。」
話が見えてこないが、アクリダに害意がないというのは事実らしい。
「アクリダよ、僕を地獄に招いたのは如何なる用向きなのですか。」
緑に輝く複眼が、僕を見る。見開かれたままの瞼の失われた女神の視線が、僕を外れて増殖の司直に向けられた。
「増殖よ。どうもアクリダは婿殿に嫌われておるぞ。」
芝居がかった様子で、アクリダが嘆息する。打ち合わせたように司直がアクリダを抱いて慰めの言葉をかける。
「嗚呼お可哀想なアクリダ様!慈悲深くも、北天の凶星に恩寵をお授けになろうとされていらっしゃいますのに。」
黒白の美女が二人、裸身を晒して抱き合う姿はどこか滑稽だった。僕の肉体も、狂にして悪なる女神の神威に少しばかり慣れてきたようだ。
それにしても、アクリダは僕に如何なる恩寵を授けるつもりなのか。僕とアクリダに接点があるかといえば、数か月前にアクリダの第五使徒であるストラティオと決闘した程度のものだ。
神々の恩寵、といえば聞こえはいいが、定命の者に神から下される恩寵を避けることなどできはしない。負の側面の強い権能にまつわる恩寵を付与されれば、それは呪詛として働くだろう。有名なところでは、ミーセオ帝国の英雄譚に、渇愛の恩寵を与えられた不幸な男の物語があるらしい。
「本心からしてアクリダを疑っておいでなのだな、婿殿は。」
細かい翡翠を寄せたような蝗の眼が、きらきらと輝いている。神性を帯びた眼球には、恐らく邪視魔眼の類の能力が秘められているのだろう。僕の心の内を当然のように見透かして、アクリダは嘆息している。
ネクタルの肉体は、アクリダを降ろす時間が長引くに従って、変貌の度合いを強めていた。すらりとした手足には棘束が絡み付き、薄らと浮いていた肋骨から、四本の腕が増えている。黒髪は燐光を帯びて深緑に染まり、豊かな髪の隙間から数本の触角が垂れ下がるのが見えた。
神降ろしには通常、代償が伴う。精神の荒廃、肉体の崩壊、魔術回路の損耗……。父であるナーブがスコーリアを降ろした際はごく短時間、剣を一振りするだけの間であったというが、それでも通常であれば彼の肉体は半壊していたはずだという。ナーブの健在であることは、スコーリアが憤激に任せず、敬虔なる族長の肉体を尊重したためであった。
アクリダとの対話が長引くに従って、僕はネクタルの身体の無事を案じるようになった。身体の形状が、明らかにスライムとも、人間とも違うものに変化してきている。
「ん?婿殿は、この娘の身を想っておるのかね。心配は無用ぞ、これには随分と手をかけておるから。」
増殖の司直が、アクリダの言葉を継いで補足する。
「ネクタル姫はアクリダ様の器として、お造りになられた方でございますから。」
僕はスライムの生殖について詳しく知らないが、仮にも娘に対して、造るという表現をしたことが気にかかった。
心を読んだか、アクリダの表情が厳しくなる。
「婿──否、スタフティよ。神性に仕える身で、つまらぬ人間性に拘るなどとは申すなよ。アクリダの出自は人間である故、そなたの感情を懐かしいものと看過するが愉快ではないぞ。」
アクリダは狂にして悪なる神として正しい。自由に降りることのできる肉体があるのなら、神は現世において遺憾なく力を振るうことができるのだから。その手段を得る術を、人間の倫理観に囚われて忌避することは狂神の使徒として誤っているだろう。
しかし、それよりも気になるのは、アクリダがこぼした自らの出自についてだ。
「アクリダは大いなる腐敗の邪神の娘とお聞きしておりましたが、人間であらせられたのですか。」
「太母の係累であることに偽りはないぞ。アクリダを喰らったコラプションスライムを内側から蚕食し、主格を奪ったのだ。」
一際楽しげに、アクリダは目を細めた。寝台の局部には、深く爪が突き刺さっている。アクリダが愉悦としているものは、宦官の苦悶か、それとも思い起こされた記憶か。
「婿殿を喰らうのも一興ではあるが──おっと、軽口であるから真に受けるでないぞ──まあ、良い。そろそろ本題に入らせてもらおうか。」
アクリダの口から漏れた言い訳は、僕を注視するスコーリアに対してのものだったのだろう。絶えず頭上から注がれる視線が、一瞬威圧的な色彩を帯びていた。
本題、と口にしたアクリダが右腕を前に差し出すと、増殖の司直が恭しく、その肘から先を捧げ持つ。どろりと腐れ落ちた右腕が、スライムの様態を示して司直の手に収まった。
「この娘には五人の神族の魂を寄せて組み上げた。故にアクリダを容れても崩れることなく、またマニの菌株を宿してなお自我を保っておる。しかし、その魂のうちに、どうにも気難しい者があってな。」
司直の手に収まったスライムが、僕の知るネクタルの顔を象る。閉じられた瞳は、眠っているように見えた。
「自我など与えた覚えはないのだが、主格を得て放浪する癖を覚えてしまったのだ。」
欠けた右腕が再生する。しかし、アクリダからは先ほどまでの圧倒的な神威が感じられない。安定していた神の力が揺らいでいるようだった。
「スコーリアとの和に供するつもりであったが、存外に婿殿がネクタルを気に入られておるようなので、気が変わった。」
アクリダの瞳が妖しく輝いている。依り代の中核であったネクタルを吐き出したためか、光に波がある。
「今日よりそなたは自由ぞ、ネクタル。婿殿の良き妻となるがよい。」
司直が異能を行使すれば、彼女の腕のなかで小さかったスライムが泡立ち、体積を増していく。半透明の異形が変化していく。球状の頭部から無数の触手が分かれ、黒髪を模している。現れたのは透き通るように白く美しい姫君の姿だった。
僕は事の成り行きを呆然と眺めていた。狂にして悪なる池沼の女神、地獄に君臨する腐敗の邪神の娘──アクリダが為す行いとして、あまりにも人間的だったからだ。善めいた意志すら感じた。
「狂神の戯れよ。それに、何もこのまま帰すわけではない。まだこちらが片付いておらぬでな。」
トンと、アクリダが自らの胸を突けば、そこから太い幹のようなものが生えだした。菌糸を縒り合わせた真菌の神樹──マニターリの分霊、マニの菌株の姿である。
「それでは後は若い二人に任せようではないか──増殖よ。いざというときは離宮ごと現世に起こし、異次元に飛ばすがよい。」
目覚めた菌株は、猛烈な勢いでアクリダの器を覆っていく。神の似姿に近づいていた彼女の肉体を菌糸が覆い、全く別種の異形へと作り変えられている。閉じ込められていたマニの意思が器をはみ出し、アクリダの腰かけていた寝台ごと飲み込んで根を張りだした。
アクリダの言を継いで、司直が芝居がかって手を叩く。眼前で展開される脅威を気にもかけず、その口ぶりは悠長なものだった。
「さあ、スタフティ様、ネクタル様。太母も照覧されておられますわ。アクリダ様の課された試練を見事乗り越えてくださいまし。」
言いながら、増殖の司直が僕の手を握る。ひんやりと冷たい女の手が、見る間に僕の腕を這い登り硬質な金属へと変化していく。スコーリアの聖痕を刻まれた左半身を除いて、司直の肉体は漆黒の重装鎧となって僕の身を包んだ。
「『錆』の聖痕を刻まれた腕ならば、今のマニに触れることができる。」
声のした方を向けば、ネクタルが疲労の濃い様子で立ち上がっていた。神性を帯びた五つの魂の主格として振る舞い、マニの菌株を身に収め、アクリダの器として十全であった──精強なる魂。
再誕したネクタルは息を整えて毅然とした態度を示した。離宮の床から新たに這い出てきた増殖の司直が、僕にしたのと同様にネクタルの身を覆い、花嫁の装束を着せる。黒き蔦が絡み、枯れた蕾が至る所にあしらわれた邪神の好みそうな意匠である。
ネクタルの眼は、左右で色が違っている。左目は以前のように光の無い黒に塗りつぶされた様子であり、右目にはアクリダの翡翠が宿っていた。限定的ではあるがアクリダを降ろしているのだと、鎧越しに接続した司直の知識が教えてくれる。
ネクタルに向けて鎧に包まれた手を差し出す。彼女の翡翠が砕け、アクリダの視線が上方へと遠のいていく。
彼女自身の両目は、星の無い夜空のように透き通っていた。孕んでいた狂気が、少しばかり薄くなったように感じる。純粋な虚無にも似た中立中庸の魂。
「ネクタル──僕の妻となってくれ。」
花嫁は小さく頷きを返し、僕の手を取った。
「まさか、あなたの方から求められるとは思っていなかった。」
軽口を叩きながらも、彼女の表情は嬉しげだった。
触れた手は以前のような屍人の冷たさではない。生ぬるい沼に浸されたような感触を掌中に感じる。
アクリダの祝福がネクタルの手を通してもたらされる。『池沼』と『蝗災』の恩寵が、僕の身に注がれていく。接続された増殖の司直から知識が提供され、真新しい異能への理解が急速に深まった。
マニの菌株は、かつて宦官だった男を苗床としたらしい。寝台だった男の下半身は立ち上がり、菌糸を縒り合わせて多脚を生やしていた。幹めいた胴体から、上方へと伸びた部位は編み笠のように絡み合って蠢いている。無数の脚を踊らせる肉茸が、離宮の中央で繁殖していく。
肥大した腿の付け根には、瘤状の膨らみが見える。それはチャオ・シィの人面瘡だった。力なく、ぼそぼそと喋る男の声が、僕の耳に届いた。
「殺してくれ──もう、殺して──。」
正しき属性の男にとって、人体の構造を短時間の間に作り替えられ続けたことは、耐えがたい苦痛であったらしい。狂えたならば楽なのだろうが、使徒であった男の意志力が容易にそれを許さない。菌株のなかでは、狂なるマニの意志と、正しきチャオ・シィの残滓がせめぎ合っている。善の力は地上から切り離された地獄の領域では本来の力を発揮しない。
神々は、僕とネクタルの婚儀を、ここしかない、という場所を選んで準備したのだ。
地獄の離宮において──正しき怨敵の使徒を供物として──マニの菌株を相手にした婚礼が始まろうとしていた。
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