増殖の司直

 スコーリアの使徒となる以前、師父ツァーリオから北辺山脈の山巓さんてんで受けた教えを思い出す。ツァーリオは東の空を指して言った。


「スタフティよ。麓の荒野から東には、アクリダの支配するリィムネス湿地があることは既に伝えたが、その更に東には何が待っていると思う。」


 師父の指し示す方角には、赤茶けた荒野と、黒々と生い茂る森が広がっている。その向こう、目を凝らせば天地を繋ぐ糸のようなものが見える。遥か彼方にあることは間違いないが、細く引き伸ばされたその糸は、時折陽光を反射して輝き、存在を誇示しているかのようだった。

 それは空を支える柱のようでもあり、天から降る恵みのようにも見えた。


 あれは、と問えば師父は重々しく答える。師父の態度は平生において、威厳に満ちたものであったが、その時の重々しさは異質であって、慎重さを過ごして怯えているようだった。

 そのような師父の様子を見るのは初めてのことだったために、僕はそのやり取りを印象深く覚えている。


「あれは神樹マニ──この陸塊の東方を統べる五権能の大神、歴層の神樹マニターリの分霊よ。」


 神が現世に活動するための器である分霊は、定命の者に比べれば遥かに強大な力を持つ存在だ。しかし、それにしても天地を貫く巨大さの分霊とは、にわかに信じがたい。


「アツァーリの地がおこるよりも古くから神位にあって、数多の神々を従える強大な主神じゃ。よいか、スタフティ──決してマニターリとは争ってはならぬ。否、関わることも避けよ。」


 スコーリアの契印を身に宿す無双の使徒ツァーリオをして、忌避せよ、と言わせしめる存在。それがどれほど強力な存在なのか、僕には測り兼ねていた。


「しかし師父よ、僕にはあなたが敗北する光景が想像できません。」


 己への信頼に満ちた言葉にツァーリオは頬を緩めながらも、厳しく言いつける。


「戦えば勝つこともあろう。マニターリの司る五権能──マニターリの本性を表す『真菌』、巨大な分霊に対する信仰が結ばれた『神樹』の二権能に限れば、戦うこともできる。それでも地にあまねく植生が敵対すると考えれば苦しいものとなろうが……戦えぬこともない。」


 マニターリは神となる以前、原始より生息する真菌類の起源たる立場にあった。幾星霜にも渡り、その身を重ね並べ巨大化していった茸は、やがて原生の他種族から神樹として崇められた。

 彼らから奉じられた信仰を契印として結ぶとき、マニターリは自らの神としての志向を明らかにし、新たに『合一』の権能を結んだのだ。


の教典に曰く──理性を抹殺せよ、全ては許される。」


 マニターリの治める聖狂連邦の国教、合神教の聖句である。


「そもそも戦いにならぬ──マニターリの狂気に触れ、胞子に侵され、あるいは菌株を植えられた者はマニの端末に成り下がる。理性を奪われ、マニに奉仕することを至上の喜びとして生きる存在となるのだ。」




 師の教えが脳裏をよぎる。今、僕の目の前にいるネクタルという女は、本当に自我を保っているのだろうか。腐敗の邪神に由来する眷属であるコラプションスライムから、菌類に近しいファンガルスライムへと作り変えられた、アクリダの王族、ネクタル姫。


「残念ですが、ネクタル殿下がマニターリに操られていないという確証が得られない以上は、僕は力になるつもりはありません。」


 いくら、我が神であるスコーリアが、池沼の女神アクリダとの間で婚姻の取り決めを為したとはいえ、僕がネクタル姫を救わなければならない理由などない。

 むしろマニターリの興味を引く要因となる彼女と関わることは、避けねばならない。


 要するに、この婚姻は形式上のものに過ぎないということだ。

 アクリダ側から見れば、マニターリに侵された王族の姫君という、扱いに困る存在をていよく処分できる。スコーリアからすれば、アクリダに貸しを作りながら、他神の血族を供物として得られるわけで損はないということなのだろう。


 美しい姫君であることに間違いはない。病的なまでに白い肌の色は、彼女に儚く幻想的な印象を与えている。その肉体は整っており蠱惑的な魅力をたたえながら、手足はしなやかに伸びている。墨色の髪は川のように流れ艶めき、その眼は黒々と輝く。

 その現実感の無い美しさのどれもが、彼女が人ならざる存在である証左にも思えた。


 ネクタルは申し出を断られたことに、落胆したそぶりを見せた。彼女にしてみれば、このままでは神の供物として磨り潰される未来が待っているのだから、どうにかして足掻こうとするのは当然のことだろう。

 ほんの束の間ではあろうが、夫となる僕に助けを求めるのは自然なことか。


「私はまだ消えたくない。アクリダの眷属にとって、肉体の死は問題にならない。しかし鍛冶神の供物になるということは、ただ魂を変質させるだけではなく、自我無き鉄として鋳潰いつぶされるということだろう。私はまだ生きていたい。」


 女の白い喉が震えている。助命を願う仮初の花嫁を前にして、僕の判断は揺らぎ始めていた。


「スコーリアの供物として捧げられたあなたを、使徒である僕が横から掠め取るなどということが、許されると思うのですか。」


「だが、捧げられるまでは君の妻だ。お前の手にかかるなら、鍛冶神に供されるよりもましなはず。」


 ネクタルは意図的に、自らに巣くうマニターリの菌株について語ることを避けている。


「マニの菌株と戦う可能性があるなら、スコーリアの助けが必要です。やはり我が神に伺いを立てねば。」


 女は唇を噛む。口許の肌の結合が弛み、少しばかり菌糸がほどけていた。


「戦果として得た供物に同情する神などいない!」


 激した声音が、夜気に溶けて消えていく。力無い虜囚の身。花嫁とは名ばかりの供物。


「スタフティ──君は私に借りがあるでしょう。いや、私だけではない。お婆様に恩義を返すと思って助けてくれないか。」


 ネクタルが指すお婆様とは、腐敗の邪神のことだろう。

 僕は嘆息する。確かに、彼女にはリーコスを甦らせてもらった借りがある。そして、腐敗の邪神に対しても祈りを捧げた。

 未熟な身の上の、浅はかな判断が、まさかこんなところで追い付いてくるとは思わなかった。


「腐敗の邪神は、この婚儀をお認めになられてはいないと?」


「慈悲深いお婆様は、孫娘が他神の供物になるなど断じてお許しにはならない。アクリダとスコーリアの取り決めなど、吹き飛んでしまうわ。」


 ──介入の口実さえあるなら。と、ネクタルは付け加えた。

 確かに、従属神であるアクリダの意図など、腐敗の邪神が立ち入れば立ち消えるに違いない。


 しかし、腐敗の邪神はマニターリとの接触を忌避していたのではなかったか。『合一』の権能に触れれば、多元世界に勢力を広げる太母といえど、影響を受けることは免れ得ないから、と。


「だから僕を使う気なのか。」


 交錯する神々の意図が、僕の頭上を飛び交い、手の届かぬ間に着地していく。


 僕の意志がくじけたのを、機微に感じとったのだろう。女の手は糸状に解けながら、僕の胸を撫でる。媚びるように纏わりつく香りが、胸板を這い登り、鼻腔を侵してくる。絡み合う真菌の糸が、鼻から眼へ抜け、耳朶じだへと及ぶ。淫靡な肉体は揺蕩たゆたいながら、非力さを強調するようにか細く、それでいて僕を捕えて離すことがない。ねっとりと五感を犯されながら、女の媚肉を味わわされる。眼で、鼻で、舌で、皮膚で──。


「あなたが望むなら、好きに作り変えてくれて構わないわ。」


 ──耳が灼ける。堕落の声音が流れてくる。その背景には巨大な邪神の圧力がある。


 スコーリアは絶えず僕を注視している。信仰を試す、という素振りではない。単に使徒の受難を面白がっているだけだ。幼い狂神の気まぐれか。


 やがて目に映る世界が腐れ落ち、果実の腐臭が甘く漂う。ひりひりと痺れる舌先は、言葉を紡ぐことあたわず、皮膚が消え浮遊感だけが残った。


 ぐずぐずに融かされる脳に、神々ともネクタルとも違う声が響く。ぷちぷちと気泡がはじける音が絶え間なく響いている。清々しい夏の夜は遠く去り、僕は女の肉体に溺れた。身を覆う装具を剥ぎ取られ、魂を守るすべを看過され、裸体を晒して堕ちた場所は──。


「ようこそ、北天のまがツ星。お迎えできて光栄ですわ。」


 待っていたのは、蠱惑的に微笑みながら、寝台に寝そべるネクタル。そして透けた肉体を絶えず泡立たせるスライムだった。

 ネクタルは裸身に質の良い布を纏っただけの装いだったが、その表情からは、先ほどまでの焦燥感が消えていた。

 その傍に侍る、黒々として半透明の肉体を持つ──おそらく邪神の眷属であるコラプションスライムであろう──は、その肉体の表面に泡沫うたかたを浮かび上がらせては弾けさせる。


 不意に、スライムが触手を二脚のように伸びあがらせて立ち上がった。表面に人皮を浮かべ、偽りの人の相がかたどられていく。現れたのは、ネクタルとは対照的な黒色の肌を持つ女。


 身を起こし、黒肌の女に問う。


「ここはどこです、そしてあなたは?」


 ネクタルと女は、相反する色の肌を晒しながら、くすくすと笑う。


「姫様に聞いていたよりも、性急な殿方でございますね。名乗るよりも先に、こちらの名を聞くとは、若く情熱的な証ですわ。」


 足元をひたひたと、粘性の高い水が流れている。肉色の壁と床は蠕動ぜんどうしながら、女の肌と同じリズムで泡立ち続けている。

 ──でも、お名前は存じ上げておりますよ、と前置きして、女は言葉を続ける。


「お初にお目にかかりますわ、スタフティ様。私は増殖の司直でございます。すでに姫様からお話されて、私についてもご存じなのでしょう?」


 増殖の司直──腐敗の邪神の司る四権能、『腐敗』、『創造』、『増殖』、『堕落』に対応して、その威光を広げることを使命に負った権威者。その一人であるということは、相当な実力者だ。

 僕は司直という言葉を聞いて、咄嗟に鑑定を放った。女はそれを受けて、悶えるように身をよじる。


「お若いのね──女人にょにんの秘密をつまびらかにしようなどと。」


 くすくすと笑い続けながらも、増殖の司直の眼から笑みが消えた。得られた鑑定の結果は、僕を怯えさせる。遣使ヘラルドクラスにある四十階梯レベル。今の僕が十五階梯レベルであることを思えば、圧倒的な実力の開きである。


『腐敗』や『堕落』が邪神としての存在を強める権能であるとしたら、『増殖』の権能は太母としての側面を司っている。

『増殖』に属する小権能を見れば、それは判然とする。──『増殖』、『誕生』、『再生』、『繁殖』、『分

 裂』、『交合』、『懐妊』、『出産』、『安産』、『多産』、『繁栄』──。

 僕を見る司直の視線に耐えながら、師父から授けられた知識を全力で思い出す。権能としての危険性は高くない。だが、生命の根源を祝福する権能が弱いはずがない。


「そう、ここが何処かでしたわね。ここは私、増殖の治める離宮でございますよ。我が太母からお預かりしている地獄の一角、とだけお答えしておきましょうか。」


 地獄、狂にして悪なる者にとっての冥府の名だ──つまり現世ではないということか。僕はどうやって地獄に落とされた。ネクタルの肉体に呑まれたところまでは意識がある。五感を支配され──気づけば裸身でこの場に寝かされていた。


 司直の背後、寝台に半身を横たえて、ネクタルは微笑み続けている。しかしその笑みに違和感を覚える。視線がぶつかり、ネクタルが笑みを濃くした。


「気づくのが遅いわな、婿殿よ。」


 ネクタルの声ではない。彼女の肉体を介して降りているのだ──アクリダが。

 それまで抑えられていた神威が、その身から噴き出し、僕を圧倒した。

 ゼキラワハシャの吹き付けるようなそれとも違う。背骨を鷲掴みにされるような気持ち悪さがこみあげ、僕は堪らず嘔吐した。


 司直とアクリダの嬌笑が、頭上から降ってくる。

 こみ上げる吐き気に、腹の中のものを全て吐瀉としゃする。見上げた先には、白く伸びる脚を組むネクタルの姿があった。そして、それにかしずく増殖の司直。


 口元を拭い、ネクタル──否、今はアクリダというべきか──を睨む。黒々としていたはずの眼は、昆虫めいた複眼に変わり、翡翠ひすいの緑に輝いていた。


「なに、婿殿を害そうというつもりはない。アクリダはただ、娘の取り扱いについて教えておこうというだけのこと。」


 娘──取り扱い──まるで無機物を扱うように、アクリダは己の血族について語る。


「その前に、面白い物を見せて差し上げよう。お気づきかな?」


 ぽんぽん、とアクリダは自らが腰かける寝台の端を手で打った。肉色の寝台は壁や床と同じ材質に見える。滑らかな角を目で追い、寝台の脚へと辿り着く。指がある。

 増殖の司直が、笑みを深めて得意げに話し出す。


「アクリダ様から分けていただいたのですよ──ミーセオニーズの肉体を、私手ずからに『再生』いたしました。」


 それは、男の下半身だった。腰から上には、あるべき上体がない。境界は見当たらず、左右対称の下半身が結合し、四つ足の寝台となっている。


 見覚えのある──アクリダが奪い去った、チャオ・シィの魂の成れの果てだった。

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