第三節 アクリダの姫君ネクタル
花嫁となる者
ひとしきり、スコーリアはチャオ・シィを打ち延ばし、血肉と骨を爆ぜさせて排出した純粋な魂を金床に載せた。引き延ばされた魂は、幾層にも折り重ねられ、黒々と輝く純鉄へと姿を変える。
集まった地精達によって、巨大な金床は神輿のように担ぎ上げられ、その上にスコーリアの分霊が立ち上がる。赤毛の童子の姿をした分霊は、チャオ・シィを加工した魂の鉄を、ぐにゃりと千切ると、周囲に向けてばらまいていく。神輿を担ぐ地精の手が増え、右往左往と踊りだす。恩恵にあずかったものは、みるみると身体を太らせ、俗に戦術級──小規模な市街ならば一体で制圧できる能力を持つ──と呼ばれる大きさにまで成長していった。
その光景を、僕は離れた場所で眺めている。草場に座り込み、夏の夜風に吹かれながら、リーコスとその半身のじゃれ合う様子を微笑ましく思っていた。
腰に下げた竜眼が、背後に忍び寄る気配を知らせてくる。僕はこの気配に覚えがあった。そもそも、黒毛の胴を持つ半身がこの場に来ているのなら、その主である彼女もいるのが道理であろう。
「あのようにして、地精を餌付けするのだな。」
涼やかな女の声は、あの夜と変わらずどこか湿っぽい。聞く者の心を通り抜けながらも、不安の種を残すような声音だ。
「そのような皮相な言い様はお控えいただけますか、ネクタル殿下。」
僕の背後に忍び寄っていたのは、滝のように流れる黒髪と、艶めかしい紫紅の唇、黒々とした瞳孔の無い奈落の目を持つ女──池沼の女神アクリダの娘、ネクタルである。
リーコスの魂を裂き、現世に蘇生したあの夜以来、この女は北辺山脈に潜伏していたらしい。
「そうつれない態度をとるものでない、我が良人よ。」
僕の肩から首筋にかけて、蝋のように滑らかな白い腕が絡み付く。僕は背後を見返すことはすまい、と心に決め、ふと、その白い腕に続く指先に視線が向く。
繊細な蜘蛛の脚に似て、それでいて妖艶な指先についた爪は、赤く塗られていた。記憶を手繰れば、このような毒々しい色合いではなかったように思われる。爪の先まで黒に塗っていたと覚えているのだが。
「小姑殿にな、気に入られようという健気な工夫だよ。愛いであろう?」
要約すれば、スコーリアの『錆』の小権能『赤』に適う色を身に着けて、臣従の態度を示そうということらしい。しかし、どうにもこの女の口先は素直でない。
ネクタルは、アクリダの王族でありながらリィムネス湿地の神域に住まうことを嫌って放浪する癖があった。それは狂にして悪の属性を持つ、地獄の太母とその娘神アクリダの係累にしては珍しく、彼女の属性が狂にして中庸であったこととも無関係ではあるまい。
地獄の太母に仕える権能の司直──アクリダは特に蝗を飼いならすにあたって、自らの母神が司る増殖の権能に堪能であったが──その増殖の権化、邪神の名代ともいうべき存在が司直である。ネクタルは増殖の司直から、幼少より追われる身であった。王族に相応しく、彼女の属性を中庸から悪へと染めようという意思が働いたためである。
長く、司直と彼女の鬼ごっこというには、あまりにも危険な遊戯は続いた。湿地から沼の深奥へ、太母の揺蕩う地獄の奥底へと逃避行は続き、また彼女は地上へと帰り、そして司直の追走を振り切って姿を消した。
彼女が帰ってきたとき、誰も彼女に手を出そうとはしなかった。司直ですら、正面から向かい合うことを躊躇った。力づくに組み伏せることは容易い。しかし、彼女はあまりにも危険な存在へと変貌していた。
どろり、と首に回されていた腕が溶けた。粘りの強い液状の肉体がまとわりつく。背中越しに感じていた吐息が、僕の腹下に移っていた。尋常な肉体ではあり得ない、軟体生物──この女の一族はスライムだ。
腐敗の邪神は、自らの名すら腐り落とさせたコラプションスライムで、その娘のアクリダもまた種族を同じくしていた。彼女らは生まれつきに他者の命そのものを啜る種であり、それは魂を食らい、経験を奪い、自身の存在を肥大化させる魔性であった。
もとはといえば、ネクタルも同じであったという。だが、彼女はあり得ぬものを体に宿して帰ってきた。菌株だ。彼女は種族をファンガルスライムに転向させていた。
崩れ落ちそうなほどに、彼女の肉体は散漫と広がっている。液状を過ぎて、粘りの強い糸状にまで広がった女の身体が纏わりつく。左半身に点々とする『錆』の聖痕を避けて、全身に広がろうとする女の意志が、皮膚を這いずり回っている。
「ねえスタフティ、菌床にしても構わないかしら。」
隕鉄である自分の本性に、永く根付こうとする真菌の女。巌に苔生すことが、この女にとっての艶事なのかと解釈した。
「今はまだ、殿下を娶るとは心に決めておりません。」
実際のところ、スコーリアとアクリダの間で結ばれた講和の内容に、スコーリアの第二使徒である僕とアクリダの娘であるネクタルの婚儀は含まれており、神に仕える立場である僕に、それを断るような真似はできなかった。
しかし、今はまだ、この女に身体を許すことは──言葉以上の意味で──避けたかった。
嫌だ、というわけではない。鍛冶と夏の暑気に火照った体に、女の肉体は冷たく心地よかったし、自らの肉体に根付かせてやっても良いと感じて、魔性同士の相性も悪くはなかった。
獣が舌なめずりするような音を響かせながら、粘糸が収縮していく。振り向けば端正な顔立ちの色白い女が立っている。美しく伸びた手足も、整った顔立ちも、豊かな肉体も、本性を現せば、ほろほろと崩れていく。
「ネクタル──僕はお前を疑っている。」
どこ吹く風という調子で、ネクタルは僕の目を覗いている。
「私の何を?あなたへの好意を?それともスコーリアへの忠誠を?」
そんなものは、追々に明らかにすればいい。疑うまでもなく彼女を監視すればわかることだろう。しかし、それ以上に、彼女が危険視され婚儀を口実にして王族から放逐された理由がある。
「お前は、その菌株をどこで食らった?」
柔らかそうな唇が開けば、陶酔を招くような甘い狂気が這い出てくる。女の狂気は、スコーリアとも、アクリダとも違う。
「東よ。」
その言葉に、複数の神の視線が注がれた。注視を受けて、肌が粟立つ。女もまた身震いを一つして、頬を歪ませる。その微笑みは、この状況に似つかわしくない。
東──つまり、リィムネス湿地より東といえば、そこはアツァーリの地ではない。東の大神が統べる地だ。これが、この女が危険な理由だ。
「盗んだのか、マニターリから!」
東の大神──歴層の神樹マニターリ。『真菌』、『神樹』、『節奏』、『合一』、『巧言』の五権能を司り、この大陸の南東部を海岸線に沿って支配する主神級の大神である。
「まさか。それなら今私は生きていない。」
そうだろう。マニターリの株を盗み食らったというなら、確実に殺されるか、取り込まれるかして自我を保つことは許されまい。
「マニターリはお婆様とお近づきになりたいそうよ、それで司直に追われていた私に株を分けたというの。」
彼女の祖母──それはつまり多元世界に広がる腐敗の邪神、地獄の太母を指す。マニターリがその邪神に興味を持っていて、幼いネクタルを切っ掛けとしようとしたという。
「でもお婆様は決してマニターリと関わりを持とうとはされなかった。彼の神は、あまりにも危険な権能を持っているから。」
マニターリの備える五権能の内、最も危険な権能。
「『合一』を恐れてのことだな。」
関わるものを取り込み、一体の存在へと統合してしまう権能。それがマニターリが東の大神として広大な領地を手に入れた理由の一つである。腐敗の邪神は、その存在を危険視して懐に入れることを躊躇ったのだろう。
「ネクタル、お前はどうなんだ。お前は──マニターリではないのか?」
微笑みは絶えることなく、唇はさらに吊り上がる。笑顔というには歪な、それでいて美しい女の顔が、不均等に崩れながら菌糸の本性を露にして答える。
「私がマニターリなら、嫌かしら?あなたはそれほどに、ネクタルを知っているの?」
未知の神も、知らぬ女も、同じことであろうと言いたいらしい。『巧言』の権能の恩寵を受けているのか、どうにもこの女との会話は、煙に巻かれるようで掴みどころがない。
「では、なぜアクリダが私を鍛冶神のもとへ送ったと?」
女の示唆から、僕は答えらしきものを得る。スコーリアは魂を打ち糺す鍛冶神である。ネクタルの魂の深奥に根付く、マニターリの意志を不純として取り除けということか。
ネクタルと視線を合わせれば、瞳孔の無い黒目に、きゅっと白点が結ばれる。この迂遠なやり取りに、女の本心が、初めて表れたようだった。
「なるほどな……君もまた、神に捧げられる供物として、ここに来たということか。」
ファンガルスライムとしてのネクタルは、金床に捧げられて打ち消えるだろう。あとに生まれるのが何かまでは分からない。今、ここにいる女の人格が残るのかも。
「スコーリアは容赦なく、私を鋳潰すでしょう。あの宦官の男をそうしたように。でも、スタフティ、あなたが私を望んでくれるならば。」
──神ではなく、僕に打たれるならば本望だというのか。
この女を妻に娶るならば、まずは女に宿る大神の株を打ち潰す試練を乗り越えねばならぬらしい。
鍛冶神のもとに執り行われる婚儀に、これ以上相応しいものはなかろうと、スコーリアの分霊はほくそ笑んだ。
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