狂神の憤激


 僕は左手の大鎚──神器クラフトロギアの握りを確かめる。返ってくる脈動は、神スコーリアが自分を注視していることを感じさせた。

 錆の異能が垂れ流される左の魔掌は、スコーリアから受けた聖痕スティグマだ。触れるもの一切を腐食させ朽ち果てさせる、呪われた異能。僕はこの呪いを進んで引き受けた。神が、再び剣を打つために。


 スコーリア──ひいては三神の起源は、神々の中にあっても異質だ。昇神から四〇〇年という浅い歴史に比して、広大なアツァーリの地が、今日まで他神に蚕食されずに来たのには理由がある。

 三神の権能は、その若さにあっては異例の強度を持っていた。それは、彼らがもとは一つの大神であったことに由来する。


 「大神アツァーリ──スコーリアの父神の名だ。」


 スコーリアは閨で、自らの起源について語った。三神がもとは一つの神であったこと。当時には定命の存在であった魔女アクリダが、アツァーリに戦いを挑み、その契印を分割したこと。


 「アツァーリは五権能を持つ大神であった──『鍛冶』、『炉』、『油』、『池沼』、そして『錆』。アツァーリとアクリダの間で結ばれた数々の約定は、今も目に見えぬ形でこの地を縛っている。」


 アクリダは『池沼』の契印を割譲させ、リィムネス湿地の支配を主張し土着神となった。彼女が魔女であった頃の名残は『池沼』に比べれば粗いが力強い『蝗災』の権能として結ばれた。

 アクリダは割譲の際に、領地より西への侵攻を禁じられた。故にこの狂にして悪なる女神は、今日アツァーリの地を侵すことなく湿地に留まっているのである。


 「スコーリアは三神の長児として、残された四権能の内の二つを与えられた。だが、それが今なおスコーリアを蝕んでいる。」


 父神はまず、彼の眷属であったアツァーリアン──先駆者フォアランナーとも呼ばれる神代の金属の肉体を持つ種族であった──を従え、彼らが服するようにとの想いを込めて、長児であるスコーリアに『鍛冶』の権能を与えた。

 次にシディルルゴスに『炉』を。最後にエライオンに『油』を与えた。


 「スコーリアは父を憎んでいる。永く神として君臨したアツァーリであれば、権能の相性についても知らぬはずはない。アツァーリはスコーリアを害そうとしたのだ。」


 睦言が熱を帯びた調子に変わり、スコーリアは語気を強めて罵った。


 『鍛冶』と『錆』──おそらく『油』と『錆』であれば融和したのであろうが、『鍛冶』との組み合わせは最悪と言って良かった。

 スコーリアが打つ剣は、握る先から腐食した。最初の百年、神は何とか己の権能を御しようと一心不乱に剣を打ち続けた。だが、結果は変わらなかった。錆びた剣を打ち続けるスコーリアに対し、弟神らは三神の長の地位を明け渡すように要求した。

 三神暦トリニティ・エラの一〇〇年に端を発した兄弟神の戦争は、スコーリアの北辺への退去と、その後に続く三〇〇年の隠棲を以て結した。


 「だが──この山陰に三〇〇年、そして今日、神の使徒に相応しき星の子との出会いがスコーリアの眼を覚まさせたのよ。」


 アツァーリは五権能の神ではなかった・・・・。忘却を脱したスコーリアは狂神の怒りに震えていた。



 ……跳躍の最中、僕の脳裏をよぎったのはスコーリアの力強い腕と、哀しげな瞳だった。スコーリアは忘却の神ゼキラワハシャを敵と定めた。必ずや討ち果たすべき仇敵と。

 そして今、僕の想いも同じだった。この悪なる神を許してはならない。


 落下の勢いを縦への回転に乗せ、白晶の化身となったチャオ・シィの頭上に鎚を振り下ろす。こちらを仰ぎ見る男の表情は、無数に生えた結晶に阻まれ窺い知れない。

 描くのは、天から注ぐ隕石の一撃。咆哮ととともに、しなる腕がちぎれるほどの勢いがチャオ・シィを襲う。


 忘我の使徒の腕には、結晶の爪が生えていた。巨大な鎚頭を交差させた腕で受け止めれば、尋常ではない圧力がチャオ・シィの肉体を押し潰す。めり込む両脚から結晶が生え、倒れる肉体を幹のように支えた。


 「力押しでいいんだよおおおおお!!!」


 受け止められた鎚の上で、振り子回転する肉体が、発条ばね仕掛けのように再び跳躍する。反発する勢いが、更に一撃の威力を増す。スコーリアの神威と、ゼキラワハシャの神威が、使徒の肉体を媒介としてせめぎ合う。大鎚は赤熱し、白爪は輝きを増す。月下に踊るスタフティの肉体は、今や神に打たれる鉄であり、神を討つ狂なる鍛冶の具現である。


 張りつめた神威の均衡を破ったのは、果たしてスタフティであった。結晶に覆われたチャオ・シィの面相にひび割れが入り、感情の無いつるりとした相貌が露わとなる。その底に、怯えが見えた。

 それは、チャオ・シィが最後まで捧げることをためらった、己の主のもとへ帰ろうとする願いに因るものであったのかもしれない。彼は次の一撃を受けきれぬと悟って回避しようと足を動かした。


 背後──水精を押しとどめていたストラティオが、大魔術を行使する。


 「大いなる池沼の女神アクリダよ!かつて貴女様にお仕えせし使徒が、伏して願い奉る。黒き者、不浄の者、幽世にある者の庇護者よ!この地に冥府の門たる沼の口を開きたまえ!我らを祓わんとする手を退けたまえ!」


 ストラティオを中心に魔力の波紋が地を這っていく。ぽつり、ぽつり、と地に浮き出る黒点が生まれ、その染みが広がれば、触れた水精がずぶずぶと沈みこんでいく。

 召喚術──ストラティオの真に得手する術理ではないが、彼はアクリダに精霊の魂を捧げることを提案し、その沼をこの地に顕現させた。水に親和する『池沼』の権能は、水精をその内側に還らせようと働きかける。

 透明な亡者の軍勢は、抗おうとする塩の傀儡の頭を足蹴にし、狂にして悪なる地獄にまで続く沼に押し込もうと戦い続ける。


 そして、その沼が、チャオ・シィの足を呑んだ。


 逃れること叶わぬと悟り、全力を迎撃に注ぐ忘我の使徒は、驚異的なことに勢いを増した二撃目に耐えた。

 だがそれで終わりではない。チャオ・シィの足はずぶずぶと黒き沼へと沈みこんでいく。はらえの塩が届かぬ、地獄の沼が、男の魂を呼んでいる。

 スタフティの振るう鎚は容赦なく、杭を打ち込むように連打される。チャオ・シィの脚が膝まで浸かっても、彼は呻き一つ漏らさずにその攻撃に耐え続けた。


 そして、沼から白い女の手が伸びた。

 病的なまでに白く、蝋のような照りを湛えている。激しい戦いのなかで、時の止まったような腕がチャオ・シィの腰元を撫でる。

 アクリダの腕が、忘我の使徒の魂を捕らえようと沼から這い出てきているのだ。


 僕は舌打ちする。それはあの女を思い出させた。リーコスを生き返らせてくれた、美しくも生気の無い女。そして今は──僕に嫁ぐと決まった女だ。


 「勝手に持っていくな!アクリダよ!」


 振るう一撃を、チャオ・シィは確かに受け止めた。何度目かの跳躍、手離す鎚の頭は姿を変え、鋭いたがねへと変化した。神器クラフトロギアは魂を打つ鍛冶道具──必要とあらば、その姿を変える。

 アクリダの手が掴む腰元に、たがねの切っ先は押し当てられている。柄を踏み台に、月天に舞う。落下速度を加えた蹴りが、チャオ・シィの身体を撃ちぬいた。白晶は砕けず、断面を晒して裂けていく。零れ落ちるはずの血は一滴もなく、さらさらと塩が溶け、風に巻かれて消えていく。


 ごぽり、と音をさせて、アクリダはチャオ・シィの下半身を手に消えていった。残された彼の上半身が、ごろりと地面に転がっている。


 「まだ生きているのか。」


 呆れるほどの生命力だ。忘我の使徒とは、これほどのものかと驚かされる。チャオ・シィの顔は、半分ほどが溶けかかっていた。口もとから零れるのは、主の名だろうか。


 「アザッハ……様……。」


 どす、と僕は腰を降ろす。赤く巨大な金床へと姿を変えたクラフトロギアは、スコーリアに捧げるための祭壇である。抵抗する意思を無くしたチャオ・シィを、その上に供する。


 「スコーリアよ。御身の敵を討ち果たしました。」


 ゆらりと空間を裂いて現れた、赤髪の子どもは、身の丈に似合わぬ巨大な鎚──クラフトロギアの兄弟鎚だ──を担いでいる。喜悦を抑えきれぬように、にこにこと笑う狂神の分霊は勢いよく鎚を振るった。それに合わせるように、僕がチャオ・シィの肉体を押さえつける。

 赤熱する神の鎚が、チャオ・シィの魂を打ちすえる。夏の風が熱を帯び、金床を囲んで祭事の様相を呈している。地精が集まり、スコーリアの恩寵に浴しようと踊り始めた。ストラティオはこの鍛冶にかこつけて、使役した亡者らを埋葬する儀式とした。リーコスは、どこからか駆け付けた自らの半身──黒き胴の狼と、楽し気にじゃれ合っている。

 苦悶の声は無かった。ただただ、魂は純粋に還っていく。打つ者も、打たれる者も。チャオ・シィは自らの魂が失った記憶について思い出そうとしたが、それは叶わなかった。スコーリアは憐憫の眼差しを向けながら、スタフティとともに自在に鎚を振るい、鍛冶の喜びを味わっていた。



 遠く、ナシア島でクルサーン・アザッハは星を見た。忠実なる臣下の死を知り、彼は七日の間、虹を消し去った。


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