忘我の使徒チャオ・シィ

 正しき悪の神、ゼキラワハシャの第三使徒チャオ・シィは、自らの記憶と感情を供物に捧げ忘我の使徒となった。逆巻く神威の渦の中で、男の肉体は変貌する。


 「ストラティオ──死霊術の行使を許可する。」


 スタフティは調伏した魔剣ストラティオを右手に構え、スコーリアから授かった神器である大鎚クラフトロギアを喚び起こす。


 「言われずとも。」


 魔剣は周囲の魔素を吸引し、淡い燐光を放っていた。


 スタフティが戦いの場に選んだ野原には、かつて集落があった。三十年ほど前に起きた山津波に集落は没し、少しばかり離れた位置に現在の寒村が改めて再建された経緯があった。


「呼ぶあて・・には困らぬな。」


 ストラティオは地の深く、未だ埋葬されぬまま眠る死体の位置を確かめる。かつては池沼の女神アクリダの第五使徒として仕えたストラティオ──『埋葬』の恩寵を授かった魔剣は魂無き死体を揺り起こし、不浄の軍勢を仕立て上げていく。

 事実を言えば土の下には、すでに何もない。肉は腐り、骨も朽ち果て土に混じった。それでもなお冥府に彷徨う魂を従えるための呼び水として、この地と練達の死霊術師の手管は十分であった。

 

 アツァーリの歴史に暗躍する悪神ゼキラワハシャを相手どる以上、出し惜しみする余裕など無い。万一の備えを怠ることなく戦いに臨んだスタフティであったが、チャオ・シィが自らを供物にする一手に出るとは読み切れずにいた。 


 「これは──塩?」


 渦巻く風が、スタフティの皮膚に粘るような不快感を覚えさせる。強めに頬を撫ぜれば、指先に白い結晶がこびりつく。唇を舐めれば刺すような塩味が感じられる。


 チャオ・シィの肉体は変貌し、白く濁った結晶が、面相を隠して全身から生えている。それは白晶の鎧を纏う騎士の似姿である。

 彼の足元からは、同様の結晶が生え続け、それはさらさらと流れ姿を変えていく。無貌の人形を依代に、力強い水精が大量に喚び起こされた。


 ストラティオが死霊術によって、透けた肉体の霊軍を呼び起こす。

 チャオ・シィは精霊術と変成術の複合術によって、水精を宿した塩の傀儡を創り出す。

 不浄なる軍勢の発する黒き瘴気が地を這いずり、忘我の使徒を取り巻く光輝の渦がそれを拒む。激発の瞬間を待つように、互いの軍勢は威容を整え、出師の声を待っていた。


 「不味いぞ、スタフティ。塩はいかぬ。一合目でこちらは溶けるぞ。」


 魔剣が狼狽えた声を出す。見れば結晶の生えた所では、ストラティオが発する瘴気が祓われていく。それはスタフティも同じ思いだった。

 握る魔剣に目をやれば、刃に白く塩が吹き始めている。この潮風は敵を利する。


 「とっととやろう。軍勢は任せる。体を出せ。」


 長引けば形勢は向こう有利に傾くばかりだ。スタフティが魔剣を宙に放ると、放たれていた瘴気が剣を取り巻き、柄を握った。そこには漆黒の法衣を纏う屍人が立っていた。


 「僕が使徒を叩く。精霊を食い止めろ。」


 「土精を一体寄越してくれ。私が祓われかねん。」


 光の無い眼窩の奥に、退魔術への怯えが見える。第五使徒の地位を辞した今、以前ほどの耐性が無いらしい。


 「そんな余裕はない。死んでも止めろ。」


 非情な言葉にストラティオは唖然とする。上位の不死者を前にして、傲岸と言い放つ少年は確かに魔剣の主である。


 「僕の打った剣なら、そう簡単に折れるはずがない。やれ。」


 スタフティは左手を差し出すと魔剣を撫ぜ、刃に吹いた塩を払う。錆の魔掌が通った後には、奇妙な紋様が浮き出ている。蛇の腹模様にも、波のような鱗にも見える。


 「念のために竜血の加護を分けてやる。」


 渋々と魔剣は不死者の手に収まり、霊軍を統帥する声を上げる。

 スタフティはやれやれという様子で、大鎚を肩に担ぎ、全身に強化の変成術を巡らせる。


 時機は来たれりと、チャオ・シィが精霊を動かす。単純な横一列の傀儡が、こちらをめがけて駆けだした。

 迎え撃つ霊軍は三列横隊だが、軍勢の幅で言えばまだこちらが長い。波濤の如く迫る塩の人形は包囲せんと左右に割れた。


 「主の道を開くべし!馬を引けい!」


 暗黒騎士の一面を併せ持つストラティオが屍馬に跨り軍を統帥する。透明な亡者らは手に青白い燐光を放つ剣を携えていた。左右から迫る敵の圧力に耐えるべく、方陣へと移行する。中央には将軍たるストラティオが敵を一掃すべく大魔術の準備を始めている。


 吶喊の声も無く、一合目の衝突が起こる。亡者の振るう剣は、塩の傀儡を切り飛ばすが崩れた形状はすぐに元に戻っていく。一方で敵の手が触れた部位が浄化され、薄く消えていく。がむしゃらに剣を振るい、体勢を崩した亡者を踏んで二列目が前に出る。三列目に控えている者らは一列目と二列目に魔力を供給しているらしい。消えかかった部位がまた色濃く戻っていく。

 しかし健闘すれども押し込まれている。包囲は狭まり、じわじわと方陣の幅が狭くなる。精霊を操るチャオ・シィに向けて方陣の前面はじわじわと前に進むが、両翼からの圧力が強まり、前進する速度は落ちていく。


 「十分だ、あとは背中を頼む。」


 スタフティは言うと助走をつけて跳躍した。最後尾に待機していた無毛の狼──彼の相棒リーコスが、いつの間にか傍に侍り、同時に宙を舞う。リーコスは塩の傀儡の頭を四肢で踏み、広い背中をスタフティに見せた。その胴が体躯にそぐわぬ震えを帯びる。


 ──戦えとは言わない。君をそうさせたのは、僕だから。


 野生を剥がれた獣の眼と、スタフティの視線がぶつかる。獣の咆哮が響き、スタフティがその背を踏み台として、さらに高く跳躍した。


 月を背負い、天の高きところより降る狂なる使徒。振りかぶる鎚は一際、赤熱の度合いを増す。迎え撃つチャオ・シィは忘我の境地にて宙を振り仰ぐ。その手には鋭く伸びた結晶の爪。


 星の落ちるのにも似た巨大な一撃が、チャオ・シィの頭上に降り注いだ。

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