スコーリアの第二使徒スタフティ


 夏の宵、昇り始めた月の下に、二つの影が対峙する。

 チャオ・シィの前に、揺らめく陽炎のように立つ赤髪の少年──水盆越しの占術では不鮮明であった姿は、間近に見れば奇矯の度合いを増していた。


 その左半身は朽ちた襤褸に覆われている。風に煽られて覗くのは、肌の地色である褐色と、狂の属性の影響によってか変色した灰色との斑模様である。

 一方で、その右半身、特に肩から腕にかけては異様な肥大を見せていた。素肌にきれしか纏わぬ半身に対して、こちらは念入りな装具に包まれている。脚絆から腕甲に至るまで、禍々しくつやめく赤塗りの備え、その材質は上位の魔性の骨材のように見える。


 詳細な鑑定を通そうとすれば、腰回りに下げられた宝珠がそれを拒む。目をこらせば、輝くぎょくがぎょろりとこちらを見た。奈落に続く裂け目のような瞳孔が睨んでいる。

 竜眼──しかも恐ろしく強い魔力を秘めた高位の竜のそれである。ミーセオ本土の近在に生息する竜に比して明らかに強い。もしや鎧の素材も竜骨か。


 そして何より脅威を放つのは、裂けんばかりに張りつめた右腕が握る、簡素な拵えの直剣である。一見すれば並の剣にしか見えないが、暗夜に紛れて醸し出されるのは邪悪な瘴気──投げ掛け続けた鑑定がようやく通った結果得られたのは──『ストラティオ』という剣の銘のみであった。


「お待ちください、スコーリアの御使いよ。アディケオはこの地に害を為そうとは思っておりませぬ。」


 こうして呼び出したからには交渉の余地があるのだろう──チャオ・シィは相手の武装を、あくまでも武威を示すことによって交渉を優位に進めるためのものと考えていた。その際には「事業」の主体はあくまでもミーセオ帝国であり、アディケオであるというていで話を進めるつもりだったのだ。


『未だにスコーリアを謀ろうというのか、ゼキラワハシャの使徒よ。』


 チャオ・シィの胸を動揺が走った。忘却の神ゼキラワハシャの名はアツァーリの地には膾炙していない。それはゼキラワハシャ自身が、己の存在を深く隠すためにアツァーリの地全体に対して『忘却』の権能を振るったからである。

 山陰に永く隠棲したスコーリアは、三〇〇年の眠りの中で、『忘却』の呪縛から脱していたのか。


 雲が流れ、差した月明かりが少年の相貌を照らし出す。その口元には悪鬼のような牙が剥き出しにされている。

 実際には、それは鼻から下を覆う面頬である。凶悪な意匠の半面が、噛み合わせた牙をざりざりと軋ませる。腰の竜眼よろしく、その面頬は生きていた。敵意に満ちた声が、牙を打ち鳴らす音とともに響き渡る。


『そして無害と口にしたが──それを決めるのはスコーリアである。不遜な言は慎まれよ。』


 澄み切った目だけが、少年の純粋さを表している。底なしの狂気には、一切の迷いが無い。どこを見るともない視線は虚空の一点に集中し、チャオ・シィの存在を歯牙にもかけず、その背後にある悪神を見据えているようだった。


 チャオ・シィは絶えず心術を通そうと試みるが、少年はよく心を閉ざしている。強い抵抗を備えているだけでなく、閉心の心得を学んでいるのだ。節足動物の肢足のように面頬の牙が蠢き、獲物を前に浮き立っているかのように見える。


『あなたの様子はよく観察させていただいた。すでに僕の心は決まっている──あなたを殺す。』


 少年は殺意と敵意で自らの心を塗りつぶし、心術の入り込む余地がない。練達の心術師であるチャオ・シィをして、練り上げられた抵抗と、高位の装具、極まった閉心法が重なれば為す術が無かった。


 戦わねばならない。どのような決着にせよ、今この時を生き延びねばならない。チャオ・シィもまた心を決した。


「名乗りを上げるいとまを頂けますかな。」


 初めて、こちらの言葉に対してまともに応じ、少年は首肯を返す。


「忘却の海獣にして、うしおの満つる宮の神──ゼキラワハシャの第三使徒、チャオ・シィ。」


 少年は抜き身の剣を地に刺し、双手を天に掲げる。

 牙の蠢きはおとなしくなり、威嚇音も絶えた。緩やかに踊る牙とともに、少年の傍に侍る無名の獣の口から、流れるように名乗りが零れ出す。


『──我は北天の凶星が地に堕ちたる者。

 ──我は偉大なるスコルの長ナーブの一子。

 ──我は竜眼卿にして鉄竜の交渉者。

 ──我は黒き者らの庇護者にして麗しき沼の王女を娶る者。」


 少年の面頬が中央から裂け、がぱりと左右に割れた。現れた口もとは、紅を引いたように赤く、しかし左半分は巌のように絞られている。低く抑えた口調で、だが、唇が強張り上手く動かないのだろう──たどたどしく言葉が紡がれる。



「我は、


 永き隠棲の悲嘆を拭う者、


 慈悲深き狂神の恩寵を、遍く地に広げし者、


 魂と鉄を穿つスコーリアの第二使徒──我が名はスタフティ。」



 掠れた声は、風切る音を断ち切って、草木の揺れを沈めた。名乗りは祝詞にも似て、スタフティの足元をスコーリアの祝福が赤く染める。それはこの地がすでに狂神の権勢の内にあるということを意味していた。


 少年──スタフティの面頬が閉じる。一時、地に刺した魔剣が抜かれスタフティが構えを取る。


 チャオ・シィは無詠唱の幻術を繰り出し、歩法を駆使して自らの分身を生みだしていく。同時に心術を行使する。狙うのは、スタフティではない。隣に侍る獣の方だ。自我無き獣を暴走させ、主に食らいつかせるのは容易い手である。

 だが、その目論見は外れた。獣は心術に晒されても、主への忠誠を微塵も動かすことが無い。どんなに訓練を受けていても、畜生であれば心術への抵抗は弱いはずである。この獣には野生が失われているかのようだ。獣は主人の厳命に従ってか、それより前に出ようとはしない。


 困惑するチャオ・シィの頭上に、伸びるような剣閃が振り下ろされ、その頭蓋を叩き割る。だがそれは実態の無い霞であった。ゼキラワハシャの司る『潮』の権能は水の元素術に対して恩寵を授ける。チャオ・シィは渦を描くように舞い、霞のとばりに分身を増やしていく。


 一手の攻防に生まれた隙を狙い、スタフティの背後を取る。鉄針を首元に刺しこもうとすれば、見えているかのように腕甲に防がれる。腰の竜眼が、こちらの姿を追っていた。振り向きざま、円弧を描いて薙がれる剣を、後方に倒れるようにして避け、勢いのままに跳びずさる。


 避けたはずの剣の軌跡が、チャオ・シィの胸を抉ったように感じた。魔剣の帯びた瘴気──恐怖と冷気が動きを鈍らせる。追いすがり繰り出された連撃を袖口に仕込んだ鉄扇でいなすが、一撃ごとに鉄扇の骨は切り飛ばされ欠けていく。その間にも瘴気は這い寄り、更に機動を遅らせていく。


 劣勢を挽回するべく、チャオ・シィは口中で祈りの言葉を紡ぐ。『潮』の権能──その満ち引きを司る『干満』の小権能には戦いの好機を引き寄せる力がある。

 刹那、弾いた魔剣が再び薙がれるまでの一瞬に、チャオ・シィは時機を見出す。


 防御の薄い左腕を狙い、袖口に仕込んだ短刀を振るう。手首の血脈に狙いを定め、出血を狙って振りぬいた。

 だが起こったことは予想に反した。スタフティは躊躇いなく、左手で短刀の刃を握ったのだ。握り込まれた掌から、鼻腔を刺すような臭いが立ち上り、短刀が腐朽していくではないか。


「錆!」


 チャオ・シィの口から悲鳴にも似た叫びが漏れる。左右に迫る魔剣と魔掌、どちらも食らえば致死の一撃。得手とする心術、幻術を破られ、勝る機動を瘴気に封じられる。引き寄せた時機は逸し、陥った死中に活を求めるならば──


 チャオ・シィは脱力し前方に倒れ込むようにして剣の下を抜け、掌より内へと入り込む。敵に体を預け、地を蹴る勢いのままに重さを押し付ける。暗器は通じぬ、ならば体術。加えた腹への一撃は、初めてスタフティの表情を歪めた。


 こちらを掴もうと迫る灰色の腕に、長衣の袖を巻き付ける。絹の朽ちる音を聞きながらも、チャオ・シィは機を逃すまいと連打を浴びせる。するりと抜け出た衣はスタフティの腕を覆い、その上から肘を破壊しようと関節を逆に折りたたむ。剛腕の右腕に比して、少年相応のか細い腕は抵抗なく折れ、ぶらりと垂れた。


ハオ!」


 もろ肌を露に、チャオ・シィは殴打を止めはしない。左肘の次は膝だと、斜め下に蹴り抜けば、小気味よい音を立てて膝蓋が割れた。崩れる顎に掌底を抜き、推し当てに振られた剣閃に対しては、反撃の手刀を振るい手首を打つ。


 弾かれた魔剣は宙を舞って地に落ちた。スタフティは転がるようにして距離を取る。チャオ・シィは魔剣を足で蹴り飛ばし遠くへ放った。こちらを見る少年の眼が、今までの虚空を覗くものとは違っていた。

 そうだ、今は戦う相手を見ろ、おれを見ろ!


「おれを見ろよ!スタフティ!」


 胸に熱いものがこみ上げて来る。鼓動が早まり、耳に痛いほどの高鳴りが聞こえてくる。

 蹴り飛ばしたはずの剣が、背中越しにチャオ・シィを貫いていた。


「私はここだぞ──チャオ・シィとやら。」


 初めて聞く声音が、背後から響く。

 魔剣──瘴気だけではない、意志を持ち自在に飛び回る魔剣だと!


 魔剣ストラティオはそのままチャオ・シィの腹を貫通し、主の手もとへと返った。

 ぼとぼとと、腹から命が零れていく。

 油断?慢心?いや、この相手は狙っていた──十全に備え、刈り取るために。


 水の元素術を行使し、回復を試みるが十分ではない。瘴気を帯びた一撃が傷を侵し、回復を阻害しているのだ。スタフティを見れば、腰に提げていた小型の鎚を抜き出すと、折れた自らの肉体を打ちなおしていた。地の元素術が部位を覆い、一打ちすれば骨折が無かったように彼は立ち上がる。


 まだ死ねぬ。いかに惨めに這いつくばろうとも生き抜かなければならぬ。あの方の治世を目にするまでは。そのためならば──捧げよう、何もかも。


 チャオ・シィの絶叫が、夜を裂く。


「忘却の神──ゼキラワハシャよ、伏して願い奉る!我が脳髄にある記憶を捧げる!我が喜びを捧げる!我が哀しみを捧げる!我が快悦と悲嘆の一切を捧げる!忘我の淵にあって、なお仕える敬虔なる使徒の願いを聞き届けよ!仕える王の栄光を支える礎、その力を我に授けたまえ!」


 チャオ・シィという男は、自らの年齢すら知らなかった。使徒としてゼキラワハシャに仕える際、自らの非力を嘆き、神の恩寵を得る代償として、父母、友、妻子、故郷にまつわる一切の記憶を捧げた。不老の使徒にあって、若き王に仕えることを自らの全てとし、今日まで来た。悪神の歓心を得るためだけに自浄し、ミーセオの礼法を修めたこともあった。


 その彼が、人間性を捧げた。感情を捧げた。『忘却』の小権能の一つには『忘我』がある。我を忘れ、ただひたすらに目的を遂行するゼキラワハシャの傀儡を生む異能。第三使徒──チャオ・シィは忘我の使徒へと変貌を遂げる。


 神威が吹く。ばらばらと砂が舞い、地に渦様の模様が描かれていく。満ち引きを繰り返す力の奔流が、描かれた形象を崩しては象る。


「使徒として仕えず──傀儡に堕ちる──哀れな魂よ。」


 いつの間にか、スタフティの面頬は砕け散っていた。掌底の一撃によるものか。強張っていた口角は殴打されるうちに、頬まで大きく裂けた。難儀していたために、ちょうど良かったと、少年は考えた。


 灰色の左手を地にかざせば、盛り上がる土塊が、巨大な鎚を形作る。ひび割れが崩れ、中からは赤く輝く両手鎚が現れた。鎚頭は熱を帯びたように独りでに赤熱する。吸いつくように掌に収まり、スタフティは軽々とそれを持ち上げた。


「ストラティオ──死霊術の行使を許可する。」


「言われずとも。」


 淡い燐光を放つ魔剣を右手に握り、左手に赤熱する巨大鎚を構える。悪の神威に風が巻き、襤褸ははたりと揺れ荒ぶ。

 スタフティはチャオ・シィだった神威の傀儡を睨み据え、決意を新たに呟いた。



「砕かせてもらうぞ──その魂。」

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