北辺に棲む狂気(後編)
北辺山脈へと向かうチャオ・シィが、エリオロポス城下に残した転移陣を利用してみれば、街は衰微の色を濃くしていた。
まずシディルギアンの姿が街から消えている。油の生産量が落ちたことで、シディルギアンとの貿易に回るだけの余剰商品が消えたのだ。
南部のエセーリオは善から中庸、早いものでは悪に転向をし始めているために、これまで口にしていたエレオピタに拘ることなく、加工前の豆を食するようになっていた。
しかしながら中央以北では、そういった食事に対する忌避感が強いらしい。城郭に近づけば以前には見慣れぬ炊煙があがっている。油神エライオンを信仰する市井の司祭らが、煮えた油を振る舞う救貧活動を行っていた。
思えば、以前に比べて城下の人口自体は増加しているように思われる。恐らく食うに困った農村部から、この炊き出しを目当てに都市部に上ってきた者が相当数いるのだろう。
本来であれば一計を仕掛ける機が転がっているのだが、とチャオ・シィは嘆息した。
今は一刻も早く北辺の情勢を正確に掴まねばならぬ。
先刻にチャオ・シィが送った書簡は、経過した時間からは考えられぬほどに劣化した様子で送り返されてきた。スコーリアに寛恕を乞う旨をしたためたのだが、それに対する返答は気の弱い者であれば直視に堪えぬものであった。
手早く見目だけでも整えようと、できる限り質の良い滑らかな高級紙を変成術で用意し、チャオ・シィ手づからに毛筆でしたためた流麗な文面は、上から変色した血によって──無論ウージャンらのものである──黒々と塗り潰され、掠れた錆のような質感で文字が浮き彫りになっている。挨拶も何もなく、ただ北方の寒村の名が記されていた。
土埃の舞う荒れた街道を、チャオ・シィは氷の上を滑るように走っていく。歩法を悟らせぬ長衣が、時折はらはらと翻る以外には足音もしない。貧民と見紛うエセーリオの列が、都市部に向けて連なるのを横目に、彼は隠身の術を最大限に発揮して駆けていく。
中部の困窮は想像以上に酷いようだ。南部にはこのような光景は無い。他者の慈悲に預かる貧民に落ちる前に、借金のカタにミーセオニーズの人身売買業者によって国外に出されるか、あるいは八割の苛税に耐えてスカンダロンの庇護にすがるか、いずれかの道が待っているからだ。
北に向かうにつれ、街道沿いを流れる川の色が朱色を帯びていく。遠目にそびえる北辺山脈から流れ出た水が、ここまで及んでいるのだ。
集落の周辺の農地では、作物は問題なく実っているように思われる。狂を帯びた水ではあっても山の恵みを運ぶことに変わりはないようである。
指定された寒村にたどり着くと、村の入口に奇異な姿の獣が待っていた。遠目には桃色の牛のようにも見えたそれは、近づけば無毛の狼であった。四肢には特徴的な黒毛が茂っていた。エセーリオの成人ほどの巨大な狼は炯々とした目でチャオ・シィを見据え、ふいと首を回してついてくるように促した。
寒村には入らず、街道を外れた茂みをゆっくりと歩く狼と、その後に続く長衣の青年。日暮れが近づき、川の色と同じ朱の夕焼けが辺りを焼く。しばらく行くと、草の生えていない開けた場所に出た。獣はそこで歩みを止めた。
あるのは、地に刺さった剣──それが四つ。
チャオ・シィは咄嗟に鑑定を行った。しかしその答えを見るまでもなく、彼の唇からは、その名が漏れ出した。
「ウージャン──」
剣の根元には、血のように赤い水がじくじくと染み出ている。こちらに振り向いた獣の顎が開かれると、思わぬことに言葉を発した。
『──ああ、それが彼の銘でしたか。』
鉈で石を擦るような声が、獣の喉を通じて発せられる。直観的に、それが水盆越しに見通した、あの赤髪の狂人であると悟る。獣の眼を通じて、こちらを見ているのか。あるいは今も──
『無論のこと失礼とは存じますよ──ただ僕は流暢に喋るのが苦手なのです。それに、あなたと面と向かい合えば心術を施されるかもしれませんからね。』
その通りだ。直接の会談であれば、相手の抵抗を破り心術を通せば操ることができただろう。だが、このように使い魔越しに喋られては、それは難しい。会話の主導権を取り返すべく、チャオ・シィは切り出す。
「この者が、何か不始末をしでかしたのでしょうか。」
無表情の獣の口は、滑らかに言葉を紡ぐ。だが間接的とはいえども、こうして言葉を交わすうちに、相手の孕んでいる狂気が伝わってくる。よほど狂神の影響を強く受けた存在なのだろう。
『スコルの剣を盗もうとしたのです。剣が欲しいかと問えば、肯定したものですから──』
剣にして差し上げた──ごく自然に、獣を狩るように、料理を作るように、食事をとるように、そんな自然さで獣ごしの相手は、人を剣にしたという。
「それはミーセオの法に照らしても重罪でございます。神スコーリアのお怒りはごもっとものことです。」
チャオ・シィが咄嗟に口にした謝罪は、正しき属性の者同士であれば通じたかもしれない。だが、彼が対峙するのは狂神に仕える狂の者である。
『罪とおっしゃいましたが──罪などとスコーリアはお考えではありません。むしろ求める魂を打ち、望む形にして差し上げたのですから感謝されて然るべきこと。スコーリアの怒りはそのようなところには無い。』
声音が突如として、生々しさを増していく。
『魂を打ち糺す狂神──スコーリアはクリソピアトを侵す者を許しはせぬ。三神の長児として、末弟エライオンに一時に預けたに過ぎぬ我が地──スコーリアの領域を侵す者よ!』
一息に紡がれた狂気の威風に、チャオ・シィは圧倒された。そして次の瞬間、彼の背後に迫る影に気付き、その場を大きく跳び去った。
薄暮の中、熱波のごとき風が吹く。
赤く波打つ幽鬼が一人、悪神の使徒を討たんと立っていた。
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