北辺に棲む狂気(前編)
第四王弟による現王の暗殺と、玉座の空位という政変は、クリソピアトの治政に対して表面上の影響は与えていないかのように見えた。
エリオロポスに居住する王族らは政変以来、誰一人として城郭の外に出ようとはしない。厳しく敷かれた箝口令のために──実際に、エリオロポス内から誰一人として出てくる者がいないのだから、この政変が民衆の間に知られることはなかった。
だが、一つだけ目に見えた異変が起こっていた。
郷士の身分にある者らが授かっていたエライオンの恩寵が弱まったのだ。『油』の小権能に属する『圧搾』の恩寵が薄まったことで、エセーリオの主食であるエレオピタの生産が滞り始めたのだった。
集落の釜場に置かれた搾油機に穀物を仕掛け、臼を回しても水のように薄い汁が染み出てくるばかりである。以前であれば実の皮を指で擦るだけでも、芳醇な油の香りが立ち上ってきたのだが。
勢い、エセーリオはこれまでに経験したことのない飢えと困窮を味わうことになった。
南部に樹立された行政区は、第四王弟メティオーテが世を去った後、更に独立の色合いを強めていた。郷士らは庁の要職に就き蓄財に励みながらも、エレオピタの生産だけは欠かすことなく守ってきたのだが、その役目さえも失い日々を無為に過ごしている。
「解雇ですと。」
次官の椅子に掛けたチャオ・シィを前に、呼びだされた郷士らは申し渡された解雇の旨に戸惑いを隠せなかった。
彼らの抗議の声をチャオ・シィは一顧だにせず、執務の手を止めることもない。隣に侍る白髪が混じったミーセオニーズの秘書官が、呆然と立つ十名の郷士に、それぞれ別の書簡を手渡す。
ふうと息をつきながら、筆を置いたチャオ・シィの口から出た言に郷士らは戦慄した。
「二人でよろしい。減らしなさい。」
それまでチャオ・シィを睨んでいた十対の眼が、隣り合った者同士に向けられた。渡された書簡の中には、皆同じ内容が記されている。
──今、この場で決めよ。
チャオ・シィの心術が、疑心暗鬼を生じた郷士らの心をくすぐっていく。心術を用いるまでもなく、書簡の意味を解釈した者もわずかにいる。話し合って、という言葉を継ぐ者は誰一人としておらず、次第に互いの距離を開いていく。自分の腰に手を伸ばし、柄の触れることを改めて確認する者もある。
「私が手を打ったら始めなさい。」
容赦なく、ぱん、と乾いた音が執務室に響くと、惨劇が始まった。ある者は腰に佩いた剣を抜き、隣の友の腹を薙いだ。ある者は丸腰であったがために壁にかけられた装飾戟を手に取ろうと走り、その背を刺された。事態を飲み込めぬままに針鼠のように剣を刺された死体もある。部屋から逃れようとして、能面じみた顔の秘書官に蹴り転ばされ臓腑を抉られた者もいた。
最後まで息があった二名の郷士に、チャオ・シィは回復術を施すと、穏やかに言う。
「死体を井戸に投げ込みなさい。秘密を守りたくば、スカンダロンを称え臣従しなさい。あなたがたが捧げる最初の供物は、同胞の魂です。」
是非もなく、彼らは夜半までに酸鼻を極めた現場を清掃し、自らが弑した同胞の遺体を整えた。亡骸を巻く白い布の下には、大量の銭貨が巻き付けられている。一見すれば弔いの道行きに銭貨を負わす風習にも見えるが、これは秘密を帯びた井戸──スカンダロンへの捧げ物の一部である。
井戸を通じてスカンダロンの支配する煉獄の領域に落とされた魂が、どのような扱いを受けるのかは知る由もない。地獄の太母のように魂を愛で食する
これまでに郷士らが蓄財した銭貨は、チャオ・シィの手によって即日に全額押収された。生き残った二名の者らはその内の八割を納め、三柱の悪神に臣従することに同意した。
スカンダロンの司る『井戸』の権能は──『井戸』、『魂洗い』、『揚水』、『使用料』、『秘密』の小権能によって構成される。井戸は崇める者の秘密を守る。『年貢』の大権能に属する『庇護』も司るスカンダロンに八割の税を納めた彼らは、悪神の勢力によって守られるだろう。彼らが、今後も求めに応じて苛税を納め続ける限りは。
神々が信奉を力に変える手段は、それぞれに違う。無論、司る権能に対して崇める人心は神の存在を大きくするが、それ以外にも複数の経路がある。
アディケオやスカンダロンは、金銭や財を信奉に変える。このような神は経済の発達した地域には少なくない。一方で信徒の成長そのものが神の信奉に変わるものや、魂そのものを求める神もある。
チャオ・シィの仕えるゼキラワハシャは忘却の海獣と呼び名されるように、記憶を食らうことを好む。チャオ・シィ自身、使徒として取り上げられる際に過去の記憶の大部分を、自らの神に捧げている。
いずれ郷士らは罪悪感に苛まれ、今宵の出来事を忘れたい、と申し出てくるだろう。チャオ・シィは、そのときにはゼキラワハシャの使徒として、彼らの記憶を神に捧げるつもりでいた。事件の後始末を彼ら自身の手で行わせたのはそのためであった。
そういったことから、ミーセオ帝国とナシア島の悪神の間では、アツァーリにおける利益が衝突することは少ないと言ってよい。三悪神が一致して行動するには、そのような理由もある。
「南はこれで良いでしょうな。」
表情の読めぬミーセオニーズの秘書官が、チャオ・シィに語り掛ける。この男もまた宦官であったが、自浄したチャオ・シィと違い、宮刑を受けた罪人あがりである。水利庁から派遣された工作員の中でも年配の男──ウージャン・グィは徒手戦闘に優れた武闘家でもある。
ミーセオ帝国において闘士の称号を名乗ることは、皇帝の御前試合で優勝した者にのみ許される。ウージャンはこの御前試合において毒を用いたことを告発されて闘士の号を剥奪されたのであった。しかしながら、本来であれば毒であろうと暗器であろうと用いても問題視されぬのがミーセオの流儀である。ウージャンは事前に試合を取り仕切る官吏に
実力は十分にあったものの、時機を逸してアディケオの下級使徒の座を得ることができぬまま年老いたウージャンにとって、この度のアツァーリへの派遣は流刑に等しいものだった。
チャオ・シィの目に、この老兵は未だ枯れておらぬと映っていた。ウージャンは帝国本土に帰ることは叶わずとも、新天地に一旗あげようと目論む腹を抱いている。
「ウージャン殿、私は中央部との折衝に手が離せませぬ。北部の切取りをお任せしてもよろしいかな?」
思わぬ申し出にウージャン・グィは驚く。眼前の微笑を湛えた青年──神に仕える使徒は皆不老の存在であるために、実年齢は読み切れぬが──が、まさか自分に采配を任せることがあろうとは思っていなかった。
言葉にせず、ウージャンは袖を翻して手もとを隠す。左右の袖元の重なる領域の幅によって、伝える意図が変わるミーセオの礼法である。この場合は「私にはとてもできません。」という意味である。
「ご謙遜せられますな。晩夏までには北東部にまで駒を進めねばならぬのです。」
無論チャオ・シィもウージャンが本気で断っているわけではないことは承知している。要するに突然の要請を疑っているのだ。
北東部──蝗災の女神アクリダとの境界に接する要衝を抑えなければ、クリソピアトを真に手中に収めたとは言えない、事業の予定に余裕を持たせたいのだ、といったことを、このやり取りに忍ばせる。
一先ずのところウージャンは納得して、袖元の返しを浅くした。「力不足なれど、お受けします。」といったところの意味だ。
「小型ですが転移陣を仕込んだ術具をお預けします。手間ではありましょうが、日報を送るように。罷免した郷士らを監視していた者の中から三名は連れていってよろしい。」
指示を受けて、夜が明けぬ前にウージャンらは出立した。
五日目──それまで欠かされることのなかった日報が途絶えた。
七日目──転移術具を通じて二つの小瓶が送られてきた。
それが、ウージャンからの最後の報せとなった。小瓶の中に詰められていたのは、どちらも赤い液体である。封を解かぬままに鑑定をすると、何の変哲もない水であると出る。奇妙に思ったチャオ・シィは占術で水がいかなる由緒のものかを明らかにしようと調べた。
知られたことは、この小瓶を寄越したのはウージャンではなかった、ということだった。
さらに深く鑑定すれば、狂の属性を帯びた赤き水である。──このときまで、チャオ・シィは北辺山脈に隠棲するスコーリアという神について知らなかった。永く山陰に隠れた狂神の目覚めが、北辺に赤き河を流れさせていたことが、水の由緒を調べる内に分かってきた。
ウージャンは既に死んでいるだろう。手の者も同様である。もう片方の小瓶の中身は、同じ赤でも血の赤である。ウージャンらの血を混合したものであった。奪った術具を利用して、送られた小瓶の意味するところ──そして、送り手である少年の面構えを水盆越しに見通す。
波打つ赤髪に、褐色の肌、流血を思わせる刺青が両の頬に走っている。何よりその左半身は煤けたような灰色に変色している。奇異に過ぎる容貌は、狂神の恩寵深い神子であろうと容易に想像させた。だが、容姿以上のところを占おうとすれば、強烈な抵抗がそれを拒んだ。
心術ほどではないにせよ、占術にも卓越したチャオ・シィをして、名すら知られぬとは恐ろしく激しい抵抗を備えている。
ふいに、今までにない神の注視を感じた。唐突に小瓶が割れ、中の水が執務机にこぼれる。広がった染みの触れた場所が、赤黒く変色し腐食している。
「これは……錆か。」
狂にして中庸なる神──スコーリアからの明確な敵意の宣告である。
面倒なことになった。
ウージャンは果たして北部で何をしでかして狂神の怒りを買ったのだ。蝗が成長しきる晩夏までにアクリダとの間で交渉を締結せねば、せっかく手の内に収めたクリソピアトが荒廃してしまうときに、北部で問題を抱えるというのは非常に不味い。
チャオ・シィは急ぎ寛恕を乞う内容の文書を整えて、小瓶の送り主に術具を介して返送した。相手の返事を待つまでも無く、自らが北辺に出向かねばならないと決意していた。
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