エセーリオの第四王弟メティオーテ

 

 クリソピアト最南部に位置していた集落に、チャオ・シィは滞在していた。海岸線に近いこの場所は、心地よい潮風が吹き、豊かな土壌を持っている。

 夏の空の下、青々と背を伸ばす豆様の植物は間もなく収穫期を迎える。例年であれば取入れはあと一月遅いというが、潤沢な水量に支えられて作物は十分に実っていた。


 すでにこの集落の人口は、村の規模を越えた。隣り合った集落から多くの移住者を迎え入れたからだ。先祖伝来の支配層である郷士らは、集落同士の合併の後に成立した行政区の要職に就いている。


 チャオ・シィが腰かける椅子は、この行政区の次官が座るべきものである。エリオロポス王宮における政治闘争は、王弟同士の醜聞を投げ合う泥沼の様相を呈しており、その混乱に乗じて、南部郷士連盟の行政区における集権化が断行された。

 王の勅命に認められていない行政区ではあったが、王宮での影響力を弱めた第四王弟メティオーテを担ぎ出すことで、体裁上は天領という形をとっている。無論のこと、中央以北の勢力からの干渉は排除した上でのことだ。


 行政区の首長である王弟以下、エリオロポスから下ってきた郷士らに行政実務の能力は無い。アディケオの『統治』の恩寵を能くするミーセオ政庁の職員らは、工作員としての一面を仕舞い込み、有能な官僚集団として働いている。

 チャオ・シィはゼキラワハシャの第三使徒として、彼ら──油断ならぬミーセオニーズの描く絵面が自らの神にとって相応しいものかを、官僚の長の椅子に座して見定めていた。


「チャオ・シィはおるか。」


 返答を待たず執務室の扉を開ける男は、チャオ・シィが仮初めに仕える傀儡──メティオーテである。

 その伝法な所作にうんざりとしながらも、涼やかな笑みで男を迎え入れる。

 少しばかりおもてを伏せ、袖の内に両腕を組んだ礼を捧げれば、ミーセオの文化を唾棄するようにメティオーテは鼻を鳴らした。


「暑苦しい真似事は止せい。それよりも闘士の算段はついたのか。」


 色黒の中年の肌艶は、どうにも芳しくない。エセーリオ神族にあって南部の悪に染まった水は体に悪かろう。

 しかしながらエリオロポスでの居場所を失ったこの男が、思うがままに振る舞えるのは、長く後援してきた南部地域しか残されていなかった。

 それでもしばらくは王宮に踏みとどまろうとした彼に下野の決意をさせたのは、長く使役してきた第四使徒プロドシアが出奔したことによる。

 南部と中央の軋轢が増してきた時勢に、彼の身辺を警護する使徒が不在になったことは、この狭量な王族には耐えがたい不安であったらしい。謎の伝手を持つ胡乱なミーセオニーズの手を借りることは業腹ではあったが、今や背に腹は代えられぬ状況となっていた。


 チャオ・シィはあらかじめ問いの内容を予想していたように、文箱から一通の書簡を取り出しメティオーテへと差し出す。


「閣下のお目に叶いますかどうか。」


 捧げられた巻紙を引ったくり、メティオーテは文面に目を通す。記されているのは第四使徒プロドシアに代わって第四王弟の闘士となる候補者の経歴である。


 男の眼はかつてほど澄んではいない。油神エライオンの御手によって搾られた皇子であった男の顔は、四十路を過ぎてなお、実際の年齢よりも若くは見える。それでも目じりに寄る皺は年々に濃く、眉間の刻みは厳しくなるばかりであった。


 チャオ・シィは知っていたのだ。

 この男の母である女が、エライオンの寵愛を受けた者のなかでは異にして、正しき善の系譜になかったことを。善悪いずれにも傾かず、正気の中庸を保つほどには、この男が強くないことを。狂に走ることもできず、己の中庸を全うできぬ男を転ばすのは、堪能な心術師であるチャオ・シィには児戯にも似ていた。


 遍く等しく寵愛を授ける──エライオンの在り方を悪神の使徒であるチャオ・シィは幼いと看破する。

 神は受けとる信奉の大きさに比例して、その権能を強め、現世に己の代行者としての使徒を任じ、あるいは自らの声を伝える司直、遣使、分霊の類を顕現する。神々の力は無限ではないのだ。


 それにも関わらず、エライオンは選んでいないのだ。選べずにいるのだ。何を愛し、何を是とし、何を討ち、何を非とするかを。

 そして神格としての己を磨くことなく長城の狭い神域に籠り、自らの血族だけを眺め楽しむ幼い神。

 しかしながら愛されてきたはずの目の前の男は、自らの父たる神から選ばれたという確証を持てぬまま、汲々と王弟としての俗事にかまけて今日まで生きてきている。


 定命の王族を見るチャオ・シィの眼差しが、ふいに顔をあげたメティオーテと交差した。憐れむような、濡れた波が視線の狭間を行きかう。


「御忘れなさい。辛かったことは。」


 ふいの言葉に、男の渇いた肌を涙が伝う。一筋、二筋、三筋と流れるたびに自らが課されてきた責務を男は忘れていく。心術ではない。『忘却』の異能がメティオーテの心を漂白していく。

 悲痛な叫びは消音の魔術に掻き消され、部屋の外へと届くことは無い。男の太い泣き声に、チャオ・シィは今までにない優し気な笑みを浮かべる。


「良いですか、メティオーテ殿。あなたが今日から、この地の王となるのです。」


 同じ神を奉じる者の間にあっても、争いが起こらぬ道理は無い。特にエライオンは選ばぬ神であることが明らかになっている。悪神の使徒である自分が表に立てば、エライオンは直接に介入してくるだろう。

 だが果たして己の子が、父の愛を求めて剣を向けてきたときに、エライオンは現王を支持することができるだろうか。



 ──三日後、エリオロポス王宮において行われた王殿議会に現れた第四王弟メティオーテは、南部統治についての緊急の議題を奏上すると言い、現王の前に立つと、懐に忍ばせた短刀で王の腹を刺した。出所不明の劇毒が塗られた一撃は、使徒による回復術をも受け付けることなく現王を死亡せしめた。


「我が父エライオンよ!我にこそ油を注ぎたまえ!愛を注ぎたまえ!」


 メティオーテは絶叫と共に口中に仕込んだ劇毒を呷り、自決した。


 空位の玉座に座ろうとする者はいなかった。エライオンの子は、誰もがメティオーテの心中を察したからである。正しき善なる子らにあって、王宮の在り方に迷いを生じるに十分なだけの気勢を、メティオーテは死の間際に発したのだった。


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