衰亡


 ミーセオの故事には、井戸にまつわるものが多い。


 帝国の皇帝が公に崇める神といえば、その身の醜悪を覆い隠すアディケオであるが、陰然と力を振るうもう一柱の守護神が、アディケオに仕える従属神、崩落の大君スカンダロンである。

 アディケオはその分霊を蛙の似姿としている。そしてミーセオの廟堂には必ず偶像としての蛙地蔵の他に、井戸が備えられている。

 蛙と井戸が帝国の勃興において、どのような関わりを築いてきたのかについては筆を分けたい。

 今は、井戸について語ろう。


 ──仄暗く水をたたえる奈落には、秘密がつきものである。


 盗み謀りに長けた、狡いミーセオニーズにして、廟堂の井戸に投げ込まれた銭貨に手を出すことは禁忌である。深く掘られた井戸は、時として底なしの陥穽であり、正しき悪なる魂にとっての冥府──煉獄にまで続いている。

 隠れたる井泉の神スカンダロンの恐ろしさを知らぬ愚か者は、ふとした機会に足を滑らせ、気付けば煉獄へと落とされる。そしてスカンダロンの支配する領域──赤の崩落にて、永劫の苦役に苛まれることとなるだろう。


 『崩落』『井戸』──『年貢』の権能を司るスカンダロンは、悪意と急転の神であり、隠れたる秘密の井戸神であり、そして八公二民という苛税を課す酷吏の神でもある。


 『統治』の権能を司るアディケオの恩寵のもとに、帝国の高度に完成された官僚制政治体制は敷かれている。その一方で『不正』の神としてのアディケオは宮廷貴族から市井の商人に至るまでに、諸々の騙し謀りを奨励する。

 このような複雑怪奇な帝国全土から過たず徴税し、また苛税に耐えた者を庇護するのがスカンダロンの持つ役割の一つなのだ。



 日増しに濃くなる空の青と、積みあがっていく入道雲が、一際厳しいであろう盛夏の到来を予感させる。季節の巡りは早く、チャオ・シィの策謀の手は更に伸びていた。


 ミーセオ帝国から招聘された治水事業の専門家集団──水好公司シュイハオ=コンスルは、いつの間にかエリオロポスの麓にある城下町に水道省局の外部委託団体という名目で、堂々と看板をかけるようになっていた。

 南部郷士の権益という形で、中央以北の郷士連盟──そして彼らを後援する王族の介入を許さず、もっぱら省局の建物に出入りするのは第四王弟メティオーテの侍従から紹介を受けた者──要するに鼻薬を嗅がされた者らばかりである。


 すでにこの省局にはチャオ・シィも、ミーセオ帝国から派遣された水利庁麾下の工作員もいない。せっせと業務に励むのは正しき悪へと転向しつつある南部のエセーリオ族ばかりである。

 彼らは水道省局の職員として雇われ、各地に置かれた井戸の使用料の算定と、その徴収を職務としている。多くは出稼ぎに中央都市へと出てきた若者であり、実際のところ治水に関わる知識などは皆無であった。


 井戸水の使用量は各村の代表からの申告による、のだが南部の集落における汲み上げ量はあからさまに多かった。量に対して料金を課す方式だが、村長の郷士らは実際には汲み上げられていない分量を水増しして、村民から徴収していたのだ。

 徴収といっても、エセーリオ族には資産の私有という概念が薄い。農業によって得られた収穫物を均等に分配するのは、本来であれば郷士の義務であり、現実に行われたことは村の穀倉から郷士個人の穀倉へと収穫物を移動していたに過ぎない。異議の声はどこからもあがらず、井戸に併設された廟堂が建立されたことに、素朴な人心は慰撫されていた。


 そうやって村の財産の一部を懐に収めながら、郷士らは高額な使用料を物納で、あるいは銭納で水道省局へと運んでくる。

 省局で使われる天秤はあからさまに左右の比重がおかしいが、顔なじみの職員と郷士の間では円滑にやり取りが進んでいく。

 あるいはミーセオ銭貨のなかでも粗悪な悪銭によって納められた税は、シディルギアンの鋳造するノストフェオウ長幣貨と両替され、金融に疎いシディルギアンは物珍しいミーセオ銭貨を持ち帰る。

 ──とはいえ金属に通じるシディルギアンにこの手の謀りは長くは通じまいから、やがてはエリオロポスとの間で通商上の問題として持ち上がるだろう。


 こうしてクリソピアト、特に以南においては組織化された行政ぐるみの不正が横行し始めた。

 その勢いは中央都市の商売人の気質にも影響を与え、それまでは疑うことなく、納められた品と銭のやり取りをしていた彼らも、取引相手に対して常に厳しい眼差しを向けるようになっていた。

 中北部の者らのなかには同様の誤魔化しに手を染めようとする者も出たが、すでに南部によって既得権益化した水道事業は、彼らに対しては異様に厳しい算定を下し、あるいは法外なまいないを要求するようになっていた。


 結果として、南部は孤立し始めていた。


 第四王弟メティオーテが、彼の側近らの不正を暴かれ、王宮において指弾された頃には、他の王弟らにも複数の汚職の容疑や、王に内密に過剰な金利の貸金業や、あるいは賭場の運営を行っていたなどの醜聞を抱えるようになっていた。

 各地の集落に共有された穀倉は次第に隙間が増え、中央都市部では金銭に困ったものがミーセオニーズの業者によって人身売買の対象とされ、行方不明になる事件が起こり始めていた。

 シディルギアンとエセーリオの間の信頼関係も軋み、東西の物流は衰微の兆しを見せている。



 夏が近づく。


 リィムネス湿地では、蝗が孵り始めていた。



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