三悪神の奸計、総裁の忠勤
夜半──日の落ちた後の平野は、本来であれば闇の帳に包まれるはずである。しかしながらクリソピアトにおいては、その限りではない。鳥の視点で語るならば、漆黒が茫々と広がるなかに、眩むばかりの光輝が
油神エライオンの御座にして、エセーリオ神族の居城──エリオロポスは丘を取り巻くようにして螺旋状の石壁がそびえる長大なる城郭である。
その壁面の溝には、絶えず灯明油が流れている。這いずる火は壁を覆いながらも、燃すべきものと、せざるべきものを峻別して誤ることがない。
エリオロポスの頂上にある神殿に安置された圧搾器から溢れる種々の油は、物魔両面の護りとなる。『油』に属する小権能の一つ、『聖別』によって祝福されたものだけが、エリオロポスに適い、そうでないものは拒絶される。
下級の不浄なる者らであれば、輝きを目に入れるだけで祓われてしまう。そうでなくとも害する意図を持った者は、この壁の内側では呼吸すら制限されるという。
そして、その絶えず流れる油の行く先は、城郭を囲う深堀である。南北の跳ね橋を上げてしまえば、この城郭は煮えたぎる油の堀によって守られた難攻不落の砦と化す。
この王宮の麓にある城下町は、クリソピアトにおいて最も発展し、都市と呼んで差し支えない規模の人口を誇っている。商店が軒を連ね、シディルギアンの鋳造した貨幣が流通しているのは、クリソピアトにおいて、この地域だけだ。
ノストフェオウから訪れる隊商を受け入れるために、城下には複数の宿が営まれていた。
そのような宿の一室──等級で言えば都でも上から数えて指折りに入る上宿だ──に、チャオ・シィは部屋を取っていた。
滞在を始めて、二週間になる。部屋には占術避けの結界網が吊るされ、寝台の傍には転移陣が敷かれている。
ミーセオ政庁──この程の「事業」は水利庁の管轄とされる──からの工作員は、防諜のために周辺地域での魔素の吸引を嫌って、あらかじめ魔力を込められた術具を用意してきた。エライオンの神域に近いこの場所で、領域の主の許しなく魔素を掠め取れば、工作員の存在が露見する恐れがあるためだ。
無論、チャオ・シィもその点には留意している。しかしながらゼキラワハシャの第三使徒であるとともに、『不正』の権能を司るアディケオからの祝福を受けた彼にとって、その手の隠蔽はお手の物である。
不正の大権能に属する小権能は──『不正』、『悪』、『欺瞞』、『虚偽』、『隠蔽』、『醜悪』──として知られている。アディケオを不正神として信奉する者にとって、騙すこと、謀ることで
実際、二週間の長期に渡って滞在しているが、宿の主人を含めて従業員らは誰一人として、チャオ・シィの顔も名前も覚えていない。この宿の最上の部屋に、長期滞在している上客がいるという程度の認識しか、持つことができずにいるのだ。
彼はこの部屋で、他の工作員から持ち込まれる情報を整理し、指示を下す役目を担っている。
磨き込まれた大理石の卓上には、エリオロポス以南の集落の位置と、それらを治める郷士の情報が書き込まれた地図が敷かれている。
貼られた付箋には細かな文字で、郷士らの家族構成から、後援する王宮勢力、個人の嗜好や利用可能な弱味などが記されている。その多くには「収賄済」を意味する符牒も添えられていた。
彼らの事業は、未だ始まっていない。これはまだ、その準備段階に過ぎない。
収賄、という手法はクリソピアトにおいて、これまでほとんど使われてこなかった。正にして善なるエセーリオにとって、その規範意識に逆らって賄賂を受け取るようなことは、あり得ないことだった。
しかし、今は違う。
南部の郷士連盟の間では、すでにミーセオ帝国で流通する通貨を用いた経済圏が構築されつつあり、ナシア島を経由して運び込まれる種々の商品が輸入され始めている。それらは素朴な生活に満たされていたはずのエセーリオにとって、甘美な誘惑であり、彼らが文化的に貧困であったことを否応なしに突きつけた。
幾人かの、郷士連盟において指導的な立場にある人物は、早くも蓄財に走り始めていた。これまで清貧でいられた彼らの性質を捻じ曲げたのは、先立って述べた市場経済の押し入りだけではない。
水である。
チャオ・シィらは廟堂の建立とともに、彼らの集落に井戸を掘った。治水の君──アディケオの『水』の権能を司る神としての一面である──と、井戸神であるスカンダロンによって祝福された悪神の恩寵深き井戸である。
クリソピアトの民にとって、淡水の確保は死活的な問題であった。というのもエライオンの司るところの『油』の大権能には『疎水』という小権能が含まれている。水掃けの良い土地は、この恩寵によるものでもあったが、同時に水利の面では悪影響もあった。権能にはかように負の側面を持つものもある。
長らく、リィムネス湿地帯と接する地域では、淡水をこの池沼から引き込んでいたが、近年この水路がたびたび腐毒を発したり、汚泥によって塞がれるという現象が起こっていた。そのために湿地から距離のある南部では水が不足しがちであったのだ。
悪神の井戸から汲み上げられる水は──チャオ・シィが善神の恵みによって育てられた油菓子に吐き気を催したように──そのままでは善なる民の身体を害する。そこでほどほどに薄めた湧水に、嫌悪感を
そうして悪の属性を帯びた水を飲み続けた住民は、気付かぬままに自らの属性を転向させ始めていた。正しき善から、正しき中庸へと。
中庸とは極めて理解のし難い属性である。魔術師にあっては正狂善悪いずれの属性の神に対しても信仰を捧げられるという理由で、己を中立中庸に保とうとする向きもあるが、その生活の実際的なところでいえば、善悪いずれの価値観にも与しない存在である。
一例をあげよう。
ある中庸の武侠者に、近在の村から山賊を討伐して欲しいと依頼があった。彼はその依頼を果たして村に帰ったが、報酬として山賊が健在であれば奪ったであろう財貨と等しいだけの量の穀物と娘らを連れ去ったという。
善なる者から見れば、悪にも等しい振る舞いであろうし、悪なる者から見れば、初めから略奪を働けばよいものをと蔑まれるのが、中庸という属性である。
さておき──このまま南部の民が悪神の井戸から水を得ることが続けば、中庸を越えてやがては悪へと転向するであろうことは想像に難くない。ただ今の季節は初夏に差し掛かろうとするところで、これから暑気が激しさを増せば水の消費量も倍増するであろう。事業が本格的に始動するのは、その時節である。
今、チャオ・シィの手元には一枚の書簡がある。封蝋に使われた印章は、欠けのある油壷の意匠である。このような印章が封印に用いられる時点で、富貴の者、すなわちエリオロポス王宮の内方の者であると推察できる。
先だって、
書簡の文面を一目見、チャオ・シィは、なくはないという表情を作った。
その内容は、以下のようなものである。
──南部治水の一件、ことに大義であった。
その献身にはメティオーテ殿下も
そこで、提案のところの水道行政における委託の件を、王殿の議題に上らせることとした。
ついては──
その先の文面に、チャオ・シィは頬を歪ませる。好漢然とした相貌が崩れ、悪神の使徒としての相を垣間見せる。
──ついては、この新たに設けられる省局を監督するにふさわしい者をこちらで選任する。その者が就くに然る役職を用意していただきたい。
政策決定の過程において汚職が発生することは、ミーセオ帝国では茶飯事であるが、このような明け透けな要職の要求はあり得ない。何事においても迂遠な礼法の陰で秘め伏せて蠢くのが宮廷の政道である。
それを思えば、なんという露骨さ、赤条々と己の欲を曝け出すとは、呆れて笑いがこみ上げようというものである。
仕方あるまい、と稚児を見るような眼差しで書簡を撫で、彼はそれを懐へと仕舞う。この地の者らには、欲望に酔うという行為は随分と久しかろうから。
いずれにしても、事業を軌道に乗せる下準備は流々と進んでいる。
チャオ・シィは部下から届く書簡の始末の手を止め、部屋の角、ナシアの方角に向けて捧げられた祭壇へと向かう。
井戸と蛙、大いなる忘却の海獣、その後背に煌く七色の円弧。
敬虔なる正しき悪の使徒は、その責務を全うできんことを、己の仕える神に対して祈るのであった。
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