クリソピアトと偽りの廟堂
アツァーリの穀倉地帯、黄金の皿クリソピアト──その広大な平野の中央部には、『油』を司る神エライオンと、神の血を引く王族が住まう長大なる城址、エリオロポスがそびえている。
では、それ以外の一般的なエセーリオ族──多くは農耕を生業とする者達はといえば、クリソピアト全域に小規模な集落を作っていた。三〇〇人程度の人口の集落を一つとして、それを束ねる郷士身分の村長が置かれている。
彼らの多くは、系譜を辿れば王家の血筋に累していたが、代を重ねる内に神の血脈が薄まり、契印と結ぶこと叶わずエリオロポス王宮に居を構えることを許されなくなった者らである。
しかしながら、王宮神殿を追われたとはいえ、正しき善の属性を持つエライオンの係累にあっては、堕ちて身を崩すことなく貴種の義務を果たすべしという者らが全てであった。
つまり郷士の身分──特に村の長を務める立場にあるのは、そういった高邁にして崇高な精神の持ち主であり、また『油』の異能を少なからず身に宿す者達である。
エライオンの司る『油』の大権能を構成する小権能の一つに『圧搾』がある。クリソピアトに住まうエセーリオは、集落全体で栽培した穀物を、エリオロポスに対して税として納めている。納められた穀物は神殿に安置された神器である搾油機にかけられ、聖別された油として神に捧げられる。
それとは別に、集落では『圧搾』を能くする郷士の手によって、独自に搾油が行われる場合もある。そのような油は村で消費され、あるいはシディルギアンとの重要な交易品となる。
また、副産品である油粕は土壌に撒かれ、これがクリソピアトを黄金の皿と呼びならわすだけの肥沃な大地へと育てた一因でもある。
平野の民、エセーリオは自らが育てた穀物──多くは豆に類する植物を、そのまま主食にはしない。彼らの食卓に朝夕に上るのは、それらを原料として、固形に加工された油である。
どの集落にも釜場が置かれ、そこには搾油機と油桶が据えられている。搾られた油に、加熱処理された油粕と調味料を混ぜ、変成術で粘度を調整したものを乾燥させる。
こうして作られる柔らかく口当たりの良い固形油──エレオピタと呼ばれる──は、他の種族が口にすれば腹を下すが、エセーリオはほぼこれだけを口にしているだけで健康を保つことができる。
このエレオピタの製造と配給もまた郷士の義務であり、また彼らが集落において指導的な立場につく理由である。
エライオンはアツァーリの地においては珍しい変成術に対して恩寵を与える神であった。そのため、係累にあたる郷士の多くは中級までの変成術を扱える。エリオロポス王宮に住まう神族になれば、最上級術を扱う者も少なくない。
一方で、クリソピアト全体における教育水準はお世辞にも高いとはいえず、薬師のようなものでも初級術から一歩踏み出る程度の域に過ぎない。
変成術は極めて使い勝手の良い術理だ。エネルギーと物質の変換流転を扱う術は、極まった変成術師にかかれば魔力を望むがままに変質させ、莫大な量の物質転換を実現するだろう。それは魔道を知らぬものから見れば、無から有を生じさせる力にしか見えない。
しかしながら、その秘奥に届くほどの術師は極めて少なく、また最上級術に届く変成術師においても、個人差が甚だしいことを特徴としている。
というのも既成の物質を喚びだす召喚術と違い、変成術には、変換前後の物質の知識の有無が大きく影響を及ぼすからだ。己の魔力についての理解を深めるだけでは、変成術師としては半人前以下で、変成させる先について理解することが求められる。
故に、優れた変成術師の中には、料理であったり裁縫であったりという技能を一通り修め、理解を深めた上で、あえて術理を用いて物質を構成するという迂遠な道筋を好む者もいる。
この点について言えば、『創造』の権能を司る腐敗の邪神の眷属には、他者の魂を啜る魔性が存在する。他者の経験──その魂が見聞きしてきた経験そのもの──を己の糧に蓄え、『創造』の恩寵を吹き込まれた変成術師、などというのは神話伝承にある埒外の存在のようなものだ──それはさておき──。
クリソピアトの統治機構は、そういった事情から頂点にエリオロポス王宮の神族を頂き、そこから偏在する集落の長──郷士身分の者達が実質的な行政を取り仕切っている。
ここからが込み入ってくるのだが、油神──エライオンは契印の護りを厚くする方策として、多くの氏族と交わり、多くの神王族を産むことで、契印と結ぶ者を絶やさぬようにすることを目指した。その結果として神の血を濃く引く王族は増え、一つの城址をその供回りの者らを含めて満たすほどとなった。またエライオンは、自らの子らを等しく愛し、その資質に相応しいものには惜しみなく恩寵を与えた。
そのため、常々から王宮の政情は混迷の渦中にある。
在位中のエセーリオ王と彼を守護する第一使徒を筆頭勢力として、王太子と皇后による勢力、王位の継承権を持つ八人の王弟と、姫の夫である外戚親族がひしめいているからだ。
彼らは皆、属性を正しき善としているため、謀略謀計が宮中に蔓延することはなかったが、一方で正々堂々と議論を尽くすことを信条としていた。そしてその議論が決着を見ることがなければ、互いの守護の任を与えられた使徒、あるいは闘士を代理とした決闘を要求するのだ。
現王に仕える第一使徒イランプシは第二使徒以下を圧倒しているため、王権は揺るぎないものになっているが、王太子以下の勢力は拮抗しており、現王もそれらの勢力に配慮した政策決定を行わざるを得ない状況であった。
この宮廷内の力学は、そのままエリオロポスの外にも影響する。郷士らはそれぞれに彼らを後援する王族の派閥勢力に属しており、クリソピアトには陰然として勢力版図が引かれているのだ。
しかしながら郷士らも王族の意向に唯々諾々と従っているわけではない。自らの治める集落に対して責任を果たすべく、彼らもまた郷士間の同盟を結んでいる。
郷士連盟と呼ばれるこの集落間の連合体は、現在大きく三つの流れに別れている。
一つは北東部の北辺山脈、リィムネス湿地との境界線にあたる地域の勢力。彼らはエリオロポスから比較的離れた地域にあり、中央からの恩恵に馴染み薄く、しかし他神の領地と接する地域の防衛という重責を担っていた。そのため、北東郷士は独立の気風が強く、その他の民にあっても、なんらかの武芸を修めていることが凡そである。
二つには中央西部の地域である。この地域は、エライオンの兄神であるシディルルゴスの領地、ノストフェオウ半島と直接に接する地域である。しかしながら、この兄弟神の関係は良好であり、相互の領地間では交易も盛んに行われている。中央郷士はエリオロポスからの恩恵を受け取ることで発展し、またシディルギアンとの融和路線を唱える革新派閥である。
そして、南部地域は良くも悪くも保守的であった。他神の領地との接点を持たず、エリオロポスの後背に位置するこの地域は、中央以北の領域を合わせたのと等しいだけの広さを持っていた。宮廷の政情に乗っかって、求められただけの税を収めれば、あとはのんびりと暮らすことのできるだけの豊かさも、この土地は持っていた。
チャオ・シィ総裁──彼は
彼らは幻術で自らの外見容姿を日焼けしたエセーリオの農夫へと偽っていた。すげ笠を被り、土で汚した作業衣を身に纏ったチャオ・シィの姿は、術を見抜く術を持たぬ者からすれば、くたびれた農夫の姿にしか見えない。
「貧しい。」
それが、クリソピアト南部に降り立ったチャオ・シィの第一声だった。無論、彼は富貴の身分ばかりを味わってきたわけではない。むしろ泥水をすするような生まれから立身し、更には並々ならぬ挫折と流浪の末に、ゼキラワハシャの第三使徒の立場を手に入れたと言ってよい。
その彼からして貧しいと言わせしめる生活水準。
一日に二度の食事──毎度のエレオピタである──の他には一切の娯楽もない。住居は地面を浅く掘り返し、変成術で固めた上に、木材と穀物の茎を干したものを束ねて雨漏りを防ぐだけの粗末なものだ。衣服にしても郷士身分の変成術師が創造したものだが、裁縫の知識など無いのだろう。ミーセオ帝国の市場に出せば、薪と一緒に巻かれて売られる程度の品質である。
行商人然とした衣服に改めて、郷士身分の者との面会を求めれば、村長がすんなりと席を設けてくれた。どうやらシディルギアンとの交易はもっぱら中央の郷村の権益になっているらしく、南部に商人が訪れるのは珍しいということだった。
「この
ナシア島から持ち込んだ織布は評判が良かった。もとはミーセオ帝国からアツァーリ地方にナシアを通さずに密輸しようとした船舶を拿捕した際に押収した品だ。ゼキラワハシャは『忘却』のみならず『潮』を司り、アツァーリ西海の潮流を支配している。船舶により辿り着こうとすれば、自然とナシア島に漂着するように仕組まれているのだ。
その他にも玉石細工などを披露しながら、南部の状況や、他の集落の位置などを聞き出していく。
村長の供した油菓子──エレオピタに甘味を風味づけしたものらしい──は、正しき悪であるチャオ・シィにとっては吐き気を催すような悪臭を漂わせている。
しばらく話し込んでいると、村長はチャオ・シィを古くからの友人のように歓待し始めた。そして打ち解けた様子で話しを終えると、集落の広場に村人を集め、彼をエリオロポスから派遣された神官であると紹介した。
村人らは、特段に気にも留めた様子は無い。むしろ自分たちの集落にも神を祀る廟堂を建立する許可が為されたのかと、郷士である村長の手腕を讃える勢いだった。
種を明かせば何のことは無い。チャオ・シィは優れた心術──精神を扱い、感情、知覚、思考を意のままにする──の使い手だったというだけだ。熟練の心術師と相対して、抵抗に失敗すれば一切逆らうことはできないだろう。自らの記憶を改ざんされ、精神を弄られ、傀儡同然にされてしまう。
こうして
即日に精神を弄られた郷士の変成術によって、偽りの廟堂が建立された。クリソピアト最南のこの集落に、エリオロポスから直接の視察が来ることなど、あり得ないことだった。村長が篭絡されてしまえば、短期間の内に露見することはまずないだろう。
チャオ・シィと同行の水利庁職員──彼らこそは海千の工作員だ──は、こうしてアツァーリの地における橋頭保を得た。
事実として、その廟堂の意匠は洗練されていた。
灯明油を注した皿が、廟堂内に置かれた水盆に浮かされている。その水燈籠が並ぶ最奥には、香油に洗われる搾油機が偶像として安置されていた。
村人らは、この瀟洒な廟堂を訪れては敬虔な祈りを捧げる。だが、彼らは自らが祈るべき神について、あまりにも無自覚過ぎた。生まれてから神学について学ぶことなく、郷士の教えるところの勤労と恵みへの感謝こそが、信仰の源だった。
廟堂に置かれた搾油機の背後には、色彩豊かに描かれたモザイク壁画がある。この部分だけは、チャオ・シィが自ら手を加えて完成させた。
その絵様は底深き井戸から半身を現す海獣と、その鼻先に乗る蛙というものだった。背景には後光のように輝く七色の円弧がある。
クリソピアトに生きる者にとって、これまでに見たことのない極彩色の色使いと、大胆な構図だった。
爛れた半身、あるいは治水の君──『不正』『統治』『水』の三権を司るアディケオ
崩落の大君にして、帝国の守護者──『崩落』『井戸』『年貢』の三権を司るスカンダロン
健忘の大海獣──『忘却』と『潮』の二権を司るゼキラワハシャ
いずれも正しき悪に属する悪神である。そしてチャオ・シィの監督する事業には、この三柱からの期待が寄せられていた。
素朴な村人らは、自らが拝する廟堂が歪められたものであることを知らない。その柱、燈籠、扉の蝶番に至るまで、あらゆる箇所に隠された意匠が、悪神を崇める祭壇となっていることに気付かぬまま祈りを捧げ続ける。
とはいえ、チャオ・シィの本懐はこのような偽りの神官に収まることではない。これはむしろ三柱の意向とは外れた、もう一つの彼の主。溌剌たる若き王族の露払いに過ぎない。
チャオ・シィは礼拝に訪れていた適当な若者をつかまえると、心術を施して彼を自分の後任の神官に仕立て上げた。不慣れながら、熱心に説法に励む若者を、村人は歓迎した。
いつの間にやら、チャオ・シィとその一団は姿を消していた。
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