第二節 ナシアの宦官チャオ・シィ

パラディスナシア

 紺碧の空には雲ひとつ無く、燦々と輝く陽光が白い砂浜を焼いている。人気のない入り江に、涼し気な影を添える海漂木の林がある。飾り羽を額から伸ばした極楽鳥が、梢の隙間に戯れる。

 その内の一羽が止まり木に選んだのは、ほっそりとした白い指先だった。巧妙な飴細工のような艶やかな指が踊ると、鳥はまたどこかへと飛び去った。


「若君、ここにおられましたか。」


 品の良い日除け傘の下、磨き上げられた黒樹の長椅子に寝そべる男。短く刈られた金髪に、端正な顔立ち、身に纏うゆったりとした毛巾衣は馴れた様子であるに毛羽立ちもなく、しっとりと肌を包んでいる。出で立ちを見るに、貴人と呼ぶに如くない身の上であることは疑いない。


 呼びかけた男はミーセオ帝国の宦官であることを表す帯締めの装いである。暑気にも関わらず、手もとまで袖に包むのは、陰徳を積むためであると嘯き、何事においても虚実をつまびらかにせぬのがミーセオの礼法である。

 男の撫で付け髪の鬢は、一毛も乱れていない。その美しい黒髪にふさわしく涼やかな相貌には、白粉が打たれ、紅が引かれている。この気候にも汗一つ流さぬのは、ミーセオの宦官としては当然のことながら、男には特筆すべき美点があった。宦官は得てして、貼り付けたような薄ら笑いか、枯木寒巌とした無表情に傾きがちだが、男の笑みは、見る者に好ましさを抱かせるのだった。


 貴人は仕草で促し、宦官は面を上げぬままにその意を汲み取る。迂遠な宮廷の作法に、二人は殊更通じているわけではない。本土の有職故実に通じる識者が見れば、不調法を指摘するところもあろう。しかしながら、主従のやり取りは見目麗しく、南国の鷹揚な気風に影響されたといえば何人も納得するところである。


 奏上された書に目を通した貴人は、一言も発することなく、仕草で是を伝えた。そこで加えて貴人は長椅子の傍に寝かせた羽扇を手に取り、北方に掲げて占術と思しき印を切った。宦官の差し出す筆を取り、書に何事かを書き添える。それはナシアの王族が用いる花押であった。


 貴人──この若き王族が何者なのかは、ここでは置く。今は、恭しく文書を受け取るこの宦官について語らねばならない。


 この男の名はチャオ・シィ。アツァーリの地より海を隔てた地に版図を持つミーセオ帝国の出身である。すでに故郷を離れた身の上の男は、紆余曲折を経てナシアの王族に官僚として仕えている。


 チャオ・シィという男は、幾つもの顔を持つ男である。

 故郷に帰れば──実際に帰ることは二度とは無いであろうが──廻船業を営む実業家である。

 ミーセオ帝国の首都、アディケイアにおいては、禁制品を積み荷に運ぶ密輸業者として知られる。

 この貴人の前においては忠実なる官僚として仕えており──ナシア島を支配する神、ゼキラワハシャの第三使徒でもある。


 そのチャオ・シィにはナシア島における外国人居留区の執政官としての顔もあった。外国人居留区、とはいっても、実質的にはミーセオ帝国との貿易特区である。


 先ほど彼が貴人に裁可を仰いだのは、このミーセオ帝国がアツァーリに進出するための事業についての事業計画書というべきものであった。


 帝国を支配する神アディケオと、ナシアの土着神ゼキラワハシャは因縁浅からぬ仲である。ミーセオ帝国がアツァーリの地に食指を伸ばすことを、表だって咎めるほどに狭量ではないものの、大胆な蚕食をされるのは業腹である、というゼキラワハシャの意向に沿って、事業の監督者として選ばれたのが第三使徒チャオ・シィであった。


 事業──この事業が、アツァーリの地に波乱を招くことは言うまでもない。何故なら、アディケオは不正を司る悪神であり、ゼキラワハシャもまた忘却を司る悪神であるからして、この二柱──というのは正確性を欠くのであるが──の企てが、真っ当なものではないことを疑う余地はないのである。


 職責を任ずる旨を受け取り、チャオ・シィは楽園を辞する。貴人はせめての手向けに吉兆を授けようと、羽扇を振り、ナシア島からアツァーリまでの海路にかかっていた、薄くたなびく雲を払う。異能の振るわれた先には、霞一つない青空を背景に、見事な虹が輝いている。


「善き日和である。」


 王族の言に心震わせながらも、チャオ・シィの表情が揺らぐことはなく、貴人はそれにまた信頼を深める。正しき悪の神々に祈りを捧げ、彼は旅立っていった。


 チャオ・シィに与えられた新たな顔、その肩書は次のようなものである。


 水好公司──シュイハオ=コンスル

 アツァーリ地方部局最高責任者──チャオ・シィ総裁


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