スコーリアの神域


 北辺山脈は複数の山巓を結ぶ尾根を境界として、山陽と山陰に分かたれる。

 南に面する山陽側は、古くは緑豊かな地であったが、現在はスコーリアの『錆』の影響により、赤褐色の大地が剥きだしとなり、無毛の生物が跋扈する土地となっていた。


 一方、山陰側はどうか。

 師に導かれ、踏み入ったことのない尾根より北の側へと下っていく。スコーリアの神域は中腹に位置しているという。山陽側に比べて、こちらの大地はさらに赤い。褐色を過ごして鮮血のような礫片が混じっている。


「『錆』の小権能に属する『赤』の権能による影響であろう。スコーリアは赤を好まれる。」


 言われてみれば、僕の髪色とスコーリアの分霊のそれは近しい色合いに思われた。黒みがかった赤毛か、茶に近いそれか。褐色の肌もまた、神の好みの色合いなのだろう。

 血を流す者にも力を与えられる──師の言葉からは、スコーリアは戦神としての資質も担っているらしい。


「これより北──山を降れば人の子の住まわぬ土地、竜の御野じゃ。三神紀トリニティエラより古くよりの約定により、互いに不干渉を貫いておる。」


 竜──最も古きより生きる神性の生物。定命にありながら、もっとも永きを生きる者。その竜の中でも太古より力を蓄え、昇神した者が治める地が、この先には広がっている。


若き鉄竜ヤングスティールドラゴンらは、スコーリアの山鉄を好むのでな。約定を侵さぬ範囲での交流はもっておる。スコーリアは現世とかかずらうことには倦んでおるが、知恵や力を尊ぶ気風を嫌いはせぬ。」


 灰色の空に蓋する雲のなかを、巨大な気配が回遊している。あるいは地平に至るまで広がる漆黒の森が、時折震える。原始の趣は、己の矮小さを否応なくつきつけてくる。

 あまり直視するでない──と、師から諫められ、神域への導きについていく。高位の竜に魅入られることは、良いことばかりではないという。


 師の後を追い、歩を進めれば、一際地の色が赤く染まる洞穴の入口が現れた。しっとりとした岩肌には血潮と見紛う、赤き水が流れている。


「儂はここまでしか立ち入れぬ。神域はスタフティ──そなたのみの立ち入りを許しておる。」


 重々しい口調で告げたツァーリオは、どかりと腰を降ろした。第一使徒の相貌に表れる感情が、期待なのか、遺憾なのか読み切れない。ここで待つ故、行けという師に礼を返し、僕は神域のとぼそをくぐる。


 脈打つような洞穴の壁は次第に狭まっていく。光源は無いにも関わらず、仄明るく照らされている。飛び交う燐光は『火花』の顕れか。

 以前には重苦しく頭上を抑えていた北辺山脈の狂気は、すでに僕の脳裏を晴れやかに塗り潰している。山陽のスコルの集落にあっては感じたことのない神の存在が、神域の最奥から手を伸ばしてきていた。


 その手を掴めば、握られたのは一振りの鎚だった。打たねばならないという衝動が僕を支配する。何をか、という問いが浮かぶいとまさえなく、鉄床に添えられた鉄に鎚を振るう。火花と煤の舞う鉄火の鍛冶場には、あるべき炉が無い。だが鍛冶の神たるスコーリアは振るう鎚の勢いだけで鉄の不純を正していく。僕が鎚を振るっているはずが、打たれているのは僕の魂だ。赤熱する神の手が心地良い。身の内を流れる赤き血が、狂気と共に蒸散し、天の凶星としての己を露にする。隕鉄を打つ悦びにスコーリアの勢いは増し、僕という定命の肉体に永劫の魂を込めた矛盾が糺されていく。


「スコーリアは悦ばしく思う。」


 ちらりと垣間見た神の眼には、喜悦がうたかたと浮かび沈む。あとに残るのはどんよりと澱んだ諦観だ。


「北天の凶星よ、堅強なる隕鉄よ、そらの外より訪れし近しき者よ。お前の身がスコーリアのまがつ愛に耐えんことを。」


 握りしめられた身に『錆』の異能が吹き込まれる。鎚を振るう手は更に激しく勢いを増すが、神の諦念に根差した『鍛冶』と『錆』の相克が、僕の身を苛む。鎚は魂の不純を許さず、それでいてその手が触れる度に腐食する。擦り切れた身を彩る赤が酸化し、黒ずんだ褐色を塗り重ねる。


 これがスコーリアに宿る悲嘆。己の権能に忠実に、優れた剣を打とうとも、握る先から錆び朽ちる。歪な契印の有り様が相克し、民を鍛えながら害することに、地を愛しながら汚すことに、神たるスコーリアは倦み、いつしか山陰に隠れたのか。


 振るわれた鎚の全てを受け入れながら、錆び朽ち果てていく悠久の流れを諦念する。──弱き魂であれば、互いを憐憫し、数百年を睦み合うであろう、と語った師の言葉がよぎる。

 振り下ろされた神の手首を受け止めれば、スコーリアの驚嘆が伝わってきた。


「良いのです、スコーリア。僕はあなたの恩寵を伏して容れましょう。」


 神の血涙が、山肌を赤く染めた。

 北辺を滂沱と洗う火花と煤、鮮やかな赤の水が、山陽にまで溢れ出る。

 スコーリアは、このとき三〇〇年ぶりに日の光を見た。


 山陽の地に伏せ、神を奉る眷属の存在を、スコーリアは認めた。無毛の獣らに祝福を与えた。狂気の中で永く信仰を保ってきたスコルを、その筆頭に据えた。



 ──今しばし、そなたを打ちたく思う。


 スコーリアの睦言が、赤い唇から漏れたのを、僕は確かに覚えている。


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