ツァーリオによる講義 3
ツァーリオによる神学の講義は続く。
「そなたに示される道は大きく三つあろう。一つはスコーリアの使徒として仕えること。二つはスコーリアと交合し、王族の祖となること。三つめは──山脈を離れ他神に仕えることもよかろう。」
使徒とは、神から直接に恩寵を吹き込まれた存在である。彼らは神の司る権能の一部を異能として授かり、また不老の存在として神のある限り仕え続ける。
神々に仕える第一使徒の役目の多くは、神と現世を連繋する契印の守護となる。
「契印は本来であれば、その姿を現世に顕現させておらぬ。定命の者の内、神と交合し血縁を得た神王族が守っておるのだ。契印の奪取を目論めば、この契印と契りを交わした神王族をこの世から絶ち、契印の存在を露にせねばならぬ。」
神との交歓を経て、契印と結ぶことができるのは定命の者に限られる。王族の血に流れる神の異能は強くとも、その守護には使徒の存在が不可欠のものとなる。王族と第一使徒は、多くの神々にとって極めて重要であり、いずれも欠かせぬものだ。
しかしスコーリアは定命の者と交わろうとはしない。眷属を統率する神王族を形成せぬ神にあって、現世との繋がりを持ち続けることは常では考えられないことである。
顕現させられたままの契印というのは力ある者が望めば、そのままに奪取され、スコーリアは現世との繋がりを断たれるはずなのだ。
その点について、ツァーリオは自らの胸を指しながら、秘密を打ち明けた。
「スコーリアの契印は、儂の肉体に直接埋め込まれておる。言うなれば儂という存在が契印であるのよ。」
とはいえ、契印を露にしたままに置けば、いずれは他の神の注視を浴び、狙われることもあろうという。これまで契印が無事に保たれてきたのは、この使徒の埒外の力量と幸運によるものと言ってよかった。
ツァーリオに曰く、シディルルゴスはその神炉の深くに王族を隠し、またエライオンは積極的に交合し王族を増やすことで契印を守っているという。アクリダの池沼は濃密な異界となっており、ツァーリオの占術では探ることができないそうだ。
「スコーリアは無性の神である故、そなたが男性であることは問題にはならぬ。スタフティの魂は魔性と呼べるものであっても、肉体は定命の者なれば、そなたがスコーリアと交わって生まれる子は契印と契るに相応しいであろうな。」
いきなりに交合などという艶のある話題を振られ、僕は戸惑った。そもそも性的な欲情というものを僕は味わったことが無いのだ。集落に流れる色恋の風聞についても、話題としては理解していたが、自分の身に訪れることはあるまいとタカをくくっていた。
しかもその相手として提示されたのが未だに存在を感じたことのない神である。実感以前に、眼前の翁か、あるいは己の正気を疑い眩暈がした。
「その様子では今のところそなたに期待するのは、使徒としての立場になりそうじゃな。」
師弟の誓いを立てたばかりのツァーリオは、途端に僕をからかうような面を見せた。三〇〇年の間、神の不在にその契印を守り続けた老王であるからして、誠実さや実直さだけでは務まるものではあるまい。この人からは腹芸のような老練さも学ばねばならないらしい。
「昨晩そなたが逢った者はおそらくアクリダの類縁の神族よ。契印と契ったほどの血脈ではないにせよな。アクリダの使徒に、あのような者は知らぬ。恐らくアクリダは、そなたがスコーリアの祖王の候補になると見て、様子を探らせにきたのであろう。」
一通りに神学の講義を終えると、ツァーリオは即席の庵を編み、柔らかな毛皮を寄越してくれた。
明日も早い、先に眠るように、と言い残し、彼は闇深い山中へと消えていった。
名も知らぬ女の、白蝋のような指先が記憶に残っている。
その背後に赤毛の少年が立っている。
いや、記憶の齟齬だろう、こんな少年はあの時いただろうか。
黒絹の揺れる向こうに、女の底知れぬ眼が黒々と光っている。少年の相貌は陰になって伺えない。
しかし、確かに──僕を見つめていた。
「起きよ。」
師の声が降りかかる。夜がまだ明けきらぬ蒼紺の朝へと急転する。
疲労は抜けきり、肉体には力が漲っているが、眠りを味わった気がしない。
夢──あれが夢というものか。
「師よ、夢を見ました。」
「いかなる夢を。」
赤毛の相貌
スコーリアがそなたの存在に気づき、注視しておるのだ、と。
どうやら僕がスコーリアの存在を意識したことで、神もまた僕という存在に興味を強めたようだった。
「それもまた信仰よな。明け透けな供物や祈りを捧げるばかりが神との関わりではない。ましてやそなたは非常なる定命の者。スコーリアはそなたから好意を得たいと考えているようじゃな。」
ツァーリオは口もとを緩めながらそう答えた後、引き締めるように言葉を添えた。
「されど、弱き者を狂なるスコーリアの御傍に置く訳にはいかぬ。これよりは儂に付き従い、使徒のあるべき姿を見取れ。」
逍遥する第一使徒ツァーリオの行軍は過酷であった。
そもそも体躯の大きさが違うのだから、使徒が一歩進むたびに僕は三歩を要する。自然、ツァーリオは悠々と歩くつもりでも、僕は駆け足で山岳を進まざるを得ない。
東の山巓から尾根をつたい更に東へ。リィムネス湿地に面する山陽を歩き続ける。北辺山脈の極東にたどり着く頃には日は中天に昇り、僕は疲労困憊の体を晒していた。
「情けなしや。使役する獣の前で哀れを誘うような姿を見せるでないわ。主従の序を疑われるぞ。」
リーコスも心なしか呼吸が荒いものの、機嫌良さげに走り回っている。師は厳しい言を吐きながらも、変成術と回復術で以て、僕の肉体を癒してくれる。
ふと、その手が止まり、師が言葉を重ねる。
「どうもスコーリアは昨夜の内にそなたに恩寵を吹き込んだようであるな。」
師の語るところによれば、スコーリアは二つの権能を司っている。
一つは『錆』、そしてもう一つが『鍛冶』である。二つの権能は大権能であり、大権能はその下位概念である小権能を束ねた存在である。
「スコーリアはそなたに『鍛冶』の権能を吹き込んだ。特に小権能の『鍛錬』を能くするように、と。」
『鍛冶』の小権能は──『鍛冶』、『鍛造』、『鍛錬』、『鎚』、『煤』、『研磨』、『火花』。
これらの権能をまとめた大権能が『鍛冶』である。
厳しく自らの契印を磨く神にあっては、この小権能の一つ一つが大権能にあたろうというものもある。権能を幾つ有するかは、一つの指標にはなっても、その内実を見ねば神としての力量は量れぬそうだ。
一年と見ておったが──師は言を慎重にしながらも、喜ばしい誤算であると呟いた。
ただひたすらに逍遥は続く。師の説教を受け、術理の知識を授けられながらの行軍である。不整な山岳を地の元素術で均しながら駆けることを課される。いちいちに詠唱をしていては呼吸の妨げになると、
師は三日に一度、夜半にどこかへと消え、また朝になると帰ってきた。その晩だけは眠ることを許されたが、それ以外には昼夜もなく、ただただ巨人の歩幅に合わせて走り続ける。
時間の感覚も距離の感覚も薄れる頃には、僕は師が用意した剣と鎚、石の詰められた背嚢の上に、くたびれたリーコスを背負って走るようになっていた。
暗夜に星の明かりだけを頼りに、全速力で走り続けられるようになるまでに、数度は崖から転落した。初回だけは救助してくれたが、二度目からは地精に乞うて己で癒すように、と突き放された。
眠るたびに見ていた夢はやがて白昼夢へと変わり、尾根を歩きながら山陰に目をやれば、遠巻きに赤毛の少年がこちらを見ているようになった。一度、手を振ってみたが、分霊は何の反応も示すことなく、こちらを見続けるばかりであった。
「良い。今宵は休め。」
昨晩も休息を取ったはずではないか、と確かめたが、休め、というばかりである。
師は思わぬ休息を僕に寄越すと、翌朝に思わぬ言葉を吐いた。
「アクリダの第五使徒、ストラティオを討て。それが叶えばスコーリアの神域へそなたを導く。」
それがツァーリオと邂逅した日に見た不死者の軍勢、それを統帥していた騎士の名であると気付き、僕は困惑する。投擲された長柄斧が、騎士を潰したのを僕は確かに見たはずだ。
「師よ、あの者はあなたがすでに討たれたはずでは。」
「ストラティオは不死者であるゆえ、魂を磨り潰さねば何度でも蘇る。儂が三夜に一度出向いては、彼奴を殺し直しておったのよ。」
気付いておらなんだかな、と師は笑むが、目は冷たいままである。昨夜に師が殺した相手を、三日後に復活するために僕に殺せというのだ。
それにしても、初陣が第五使徒とは荷が勝ちすぎるのではないか。
だがツァーリオは反論を許さぬように言を継ぐ。
「そなたには儂の知る大方の術理は伝えておる。器用にも
そこから先は、死闘になろうが──と師は告げる。剣呑な笑みは、この翁が元来は狂戦士であった名残だろうか。
いずれにしても、僕は師の課した課題へと立ち向かうことになった。
──埋葬者──埋葬の騎士──不死の送り手──
アクリダの第五使徒──暗黒騎士ストラティオ、それが僕の敵の名だ。
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