ツァーリオによる講義 1
蒼天は地の些事を映すことなく、どこまでも青い。
降り注ぐ陽光を浴びた鉄の王は、意気揚々と凱歌を口ずさむ。山峡に響き渡る声には一点の曇りも無い。
堂々たる王者の風格。身に纏うのは襤褸なれど、
──
──汚す勿れ、鉄の誇り。
──錆たりとも、
──おお、目覚めの時は来たれり、我が呼び声に応えるがよい!!
雄々しい輪唱の声が重なっていく。土塊だったそれは、今や生々しい戦士の相貌を携えている。万余の軍勢が霞の内より吐き出され、鉄冠の持ち主を守護するように隊列を組み始める。
スタフティの眼下に広がる光景は、彼にとって初めて見る戦場だった。しかも神に仕え、その権能を吹き込まれた最大の存在。暴威の化身と呼ぶに如くない第一使徒の戦である。
先だっての雪崩に飲まれ、対峙する軍勢は半壊したように見えた。だが、目を凝らせば一概にそうとは言えないことに気付く。埋没しきらなかった部位が、あるいは埋まり方の浅かった者の身体が、不自然な運動を見せる。
死体だ。
腐乱した、白骨化した、あるいは部位の欠損した、
陽天の下に溢れる不死者の軍勢、という撞着した存在が、使徒に対峙する者らの正体だった。
それを督戦する位置に立つ騎士装束の男。彼は佩いた剣を抜き去ると、
「我は狂にして悪なる女神、アクリダの第五使徒、ストラティオである。武勇に名高いツァーリオ殿とお見受けするが相違はあるまいな。」
爽やかな風が、ツァーリオの襤褸をばたばたと煽る。心地よさげに風を受けていた老王は、誰何の声に眉を顰めた。
それは一瞬の出来事であった。
握りしめた長柄を軽く放り、逆手に掴む。ついで腕を後背にしならせ、勢いよく投擲した。
スタフティの目に捉えることができたのは、そこまでだった。雪原の風紋が逆巻く余波に遊ばれる。地割れと錯覚するほどの轟音が遅れて響き、何処かでまた雪崩が引き起こされた音が鳴っている。
──ウウウウウウウララララララ!!!!
──ウララララララララァァァァイ!!!!
戦士らの喚声、突撃の角笛、大規模な地の元素術による土石流、そして荒れ狂うそれを自由自在に乗りこなすツァーリオの威容。
言うまでも無いことではあるが──投擲された一撃はストラティオと名乗った男を染みに変えた。
しかしながら、不死者の群れは未だ地に還ることなく蠢いている。とはいえ大勢は決した。ツァーリオとその軍勢は、一方的に死体を粉砕し、文字通りの骨っ端へと変えてしまったのであった。
日が中天を過ぎるまで、僕はその光景を眺めていた。
殺された男よりも、その口から出た神の名──昨晩の女が崇めた神も、アクリダという名であったことが脳裏をよぎる。これは、ともすれば面倒なことになるかもしれないと、僕は相棒リーコスの背を撫でる。
使徒その人が、最後の死者の頭を砕き割った後、山巓を仰ぎ、こちらへと一瞥をくれる。殺戮の直後とは思えない、清々しい笑顔を向けてくる。その姿は好々爺というには活力に満ち過ぎていた。
「よくぞ参ったな、スコルの子よ!」
近づいてみれば、父、ナーブの倍はあろうかという語る言葉の見つからぬほどの巨人である。
「こちらから出向きたいところではあったがな。アクリダめの使徒が、引っ切り無しに遊びに来るのだ。許されよ。」
書簡の文面からは及びつかぬ慇懃な態度に、こちらも思わず畏まる。
「スコルの長、ナーブが一子、スタフティと申します。」
「そのように窮屈にせずともよい。儂も伝法な振る舞いの方が合うておる。」
ツァーリオが視線を巡らせれば、地が沸き立ち、武骨な造形の椅子が立ち上がる。彼は長柄を地に突き立てると、纏った襤褸を剥がして、その切っ先にかけた。
絞られた躯体は黒々と輝き、肉ではなく金属なのではないかと疑ってしまう。生半可な刃物では傷一つ付けることができないのではないだろうか。
こちらに座るように促しながら、何から話すべきか、と思案を巡らす翁の視線が、伴連れの狼へと向けられた。先ほどの凄まじい投擲に際しての豹変が思い起こされる。嫌な汗が背を伝う。逃げようにも逃げ切れるはずがない。
「良い。その方が昨晩、
良い狩りの伴になるであろうな、と慰めのように翁は続ける。咎めの無いことへの安堵と見抜かれたことへの驚嘆がない交ぜになる。表情に出たのだろう。苦笑を浮かべて翁が諭す。
「若い時分はあのような手管にかかることもあろう。とはいえ、そのままにしておれば、いずれ危ういこともあろうな。」
昨晩の金縛りにも似て、僕は一言も口をきけずにいた。今度は術の類が用いられていないであろうことは明白だったのだが。
父に対する尊敬とは違う、大きく実力を隔てた強者と対峙したときの──むしろ、抗うことのできぬ巨大な自然を前にした反応に似て──尊崇の念を抱かされる。
「このままスコーリアに見えるのは些か不安が残るのも事実よな。」
ツァーリオの巌のような掌が僕の顎に添えられる。自分の頭が、本当は木の実ではないかと錯覚させられるほどに大きさが違い過ぎる。
「スタフティよ、そなたは神についてどこまで理解しておる。」
瞳を覗き込まれながら、唐突な質問を繰り出される。言われてみれば、神とは何かなど深く考えたことが無かった。スコル達の崇めるスコーリアという存在を感じたことも無い。強いて言うならば…昨夜の出来事が、僕にとっての神との出会いなのかもしれない。
「正直に言えば、わかりません。スコルに剣を授け、この山の狂気を司っているということは存じております。」
ツァーリオが答えを継ぐ。心なしか渋面を作っているように思われる。
「それはスコーリアについての理解じゃな。そなたは昨晩──太母に祈りを捧げたであろう。」
老王の口ぶりは、まるで見ていたかのようである。──いや、実際に見られていたのではないだろうか。どうにもこの人の前では、出来の悪いところばかりを露にされてしまう。
首肯すれば、ツァーリオは種を明かし、祈りの意味を教えてくれた。
「儂はこの北辺山脈の全てを見通す異能を備えておる。『ただ今』のみを知る力である故に、過去と未来を見通す全知とまでは及ばぬがな。そなたが祈りを捧げ──そこな伴連れを冥府より連れ戻したのは、腐敗の邪神。その名を持つことなき地獄の太母よ。」
随分と恐ろしい神に祈りを捧げていたらしい。曰く、腐敗と堕落、増殖と創造の四権能を司る大神であるという。そして先刻の使徒が仕え、昨晩の女が母と呼んだアクリダという神は、その従属神であるそうだ。
「とはいえ、太母は直接に介入してきてはおらぬ。その種を分かちた娘、蝗災と池沼の女神アクリダは、この山脈を抜こうと必死じゃがな。」
権能──神と呼ばれる存在は、己の司る世の理を権能という形で示している。そしてそれを奉じる定命の者からの信仰を糧として、権勢を拡大しようとしているのだ。
そして、またそれぞれの神々は互いに正狂、善悪の属性を基本の陣営として互いに盟を結び、あるいは争っている。
ツァーリオによる神学の基礎の講義は、集落の呪師の口伝とは違い、学問的な系統立てが為されており、また彼の教えは具体性を持っており理解しやすいものだった。
アツァーリの地に座す主だった神は四柱ある。
蝗災と池沼の女神──アクリダ。
炉の館神──シディルルゴス。
クリソピアトに君臨する輝きの油──エライオン。
そして堕ちたる厭世神──スコーリア。
「アツァーリの地は他所に比べれば、比較的平和だと言ってもよい。最後に大きく戦乱が起こったのは三〇〇年前になる。」
北辺を東西に
「最も大きく土地を占め、多くの人口を養っておるのが油を司るエライオンじゃ。シディルルゴスの治める半島は表面積は狭いものの、地下深くに都市を広げており、その民は強い。アクリダは自らの池沼の権能に親和する湿地に座しており、狂にして悪なるものの冥府、地獄とも深く繋がりをもっておる。」
そこで──我らがスコーリアはどうか、とツァーリオは続ける。
「スコーリアは三〇〇年前、兄弟神であるシディルルゴスとの抗争に敗れ、自ら中央平原を去った。今は三神の末弟であるエライオンがその地を治めておる。以来、スコーリアは現世に倦み、北辺山脈の北側、山陰の神域に隠棲し、定命の者と関わろうとせぬ。」
語られるスコーリアという神の像は、どうにも頼りない。僕は神というものは世の理を司る超常の存在、権能を以て現世に力を振るう支配者のようなものだと考えていた。
「…疑問なのですが、なぜスコーリアは未だ神の御座におられるのですか。」
僕の問いかけは、かなり際どいものであっただろう。信仰すべき神の資質を疑うというのだから。ツァーリオは初めて驚いたような表情を見せた。そして出来る限り誠実に答えようとしてくれた。
「実際的な問題として、神の死とはいかなるものと思う。」
神は──死ぬのか。
問いの応酬の中で、前提として語られた言葉には重要な意味があった。神は不死の存在ではない。それは僕にとっては、山脈を消すとか、河を涸らすといった、自然の消滅に等しい重みを持った言葉だった。
「神が現世に介入する前提となるのが、契印というものでな。これを失った神は、現世との繋がりを断たれ、またその権能を奪われる。神々の争いの極致は、この契印を巡るものとなる。定命の者が神格に触れようとすれば、またこの契印を得ることが第一歩となる。」
急に話が手元に引き寄せられたように感じられる。要するに契印には、神界と現世の繋がりを得るための力が秘められており、それを得ることができれば神々を殺すことも可能だというのか。
何か、とてつもなく恐ろしい話を聞いたような気がする。
「知りませんでした…そんな、ことは。」
僕の動揺に、ツァーリオは言葉を続ける。
「今はそれで良い。夕餉を馳走しよう。そなたの父御には使いをやるゆえ、安心せよ。」
気付けば、いつの間にか日が暮れようとしていた。
使徒と過ごした時間は、刺激的に過ぎた。
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